ブラジルから見た日本 加藤 仁紀

(2016年7月 訪日したアルモニア学園の先生・生徒達と代々木のブラジリアンデー会場にて
筆者は後列右から三人目) 

つい先頃まで、経済大国BRICsの一員として脚光を浴びていたブラジルであるが、今は南米大陸初のリオ・オリンピック大会開催を目前にして資源価格の下落による経済の低迷、石油公社汚職や国家会計粉飾疑惑による大統領の職務停止で政情も非常に混迷している。しかし、ブラジルが大国であることに変わりはない。日本の22.5倍という広大な国土、若年層が多い2億の人口、豊富な資源、経済力、技術力、民主主義国家で近隣諸国との紛争もなく、ラテンアメリカ33ヶ国の歴とした盟主である。そしてありがたいことに親日国である。2008年には、ブラジル日本移民百周年を迎え、日系人は190万人に達すると言われているが、「ブラジルから見た日本」の印象は、この日本移民、とくに戦前に渡伯した1世を通じてブラジル人に培われたと言ってよい。日系人の信頼は厚く、現地で“ジャポネース・ガランチード”(日本人は保証付き、信頼できる)と称されている。ブラジル・フォルクスワーゲン社の販売広告に日系人農場主がVW車で農産物を運ぶ姿が雑誌に掲載される。働き者で信頼できる日系人が買う車だから最高のものという意味の宣伝である。「ブラジルから見た日本」は、そのイメージを形成するもとになった両国民の出合い、日本移民が多大な貢献を果たした農業開拓、その後の両国間の交流等について触れて見たい。

<ブラジル人が初めて見た日本人の印象>
第一回ブラジル日本移民(781人)は、1908年(明治41年)6月18日に笠戸丸でサントス港に着いた。ブラジル人が、地球の反対側から来た日本人を見たのはこのときが初めてと言ってよい。その20年前(1888年)に奴隷制度が廃止され、コーヒー農場での働き手がなくなり、いわば奴隷代わりに受け入れられたと言われる日本移民。上陸した移民がブラジル国民に与えた印象は大変な驚きだったようである。当時その様子を目の当たりにしたブラジルの新聞「コレイオ・パウリスターノ」のソブラード記者は次の様な記事を残している。『清潔で規律正しいことや従順な態度、日本民族は実に好ましき人種、将来サンパウロ州の産業は日本人に負うところ大であろう」、「税関吏の語るところによると、このような多数の移民が秩序よく、その手荷物の検査を受け、一人として隠す者がなかったことは、いまだかつて見なかったところである。」、「彼らは熱心にわが国の言葉を学ぼうとしており、また食堂では一粒の飯粒、一滴の汁をも床の上に落としたものも認めることができないほど用意周到で、食堂の床は食後でも清潔を保ち、食前と少しも変わらない。』と絶賛している(「蒼氓の92年ブラジル移民の記録」内山勝男著、東京出版局)。記者が喝破した通り、その後、彼らサンパウロ州のみならずブラジルの発展に目覚ましい働きを見せるのである。

<日本移民による農業開拓>
日本移民は、日本人の特質とも言うべき、勤勉、誠実、団結、協力、秩序、調和、教育熱心、創意工夫、旺盛な科学的探求心等の精神をブラジルでいかんなく発揮し、農業開拓を行い、苦心惨憺の末、ブラジルを農産物の輸出大国とするに到った。産業組合を組織し、大豆・米・綿花・花卉類、野菜や果物の生産・販売に関わり、野菜を食べる習慣が乏しかった国民に豊富な野菜・果物類を供給、国民の食生活の改善、健康増進に寄与し、ブラジル人の生活・文化に大きな影響を与えたのである。
近年(2011年)も、日系人は、パラ州トメアス移住地で森林農業(アグロフォレストリー)と言われる農法を開発、収穫期が異なる様々な作物を植えた森のような農地作りに成功した。これを当時のルラ大統領が、議会で行われた表彰式で「農業を通じてアマゾンの森を再生するという偉業は、ジャポネースだからこそできた」と入植者を賞賛している。
なお、1978年から約20年をかけて日伯協力で成し遂げた「セラード開発」(不毛の地とされていた熱帯サバンナ地域の農地化)でブラジルの大豆生産量を米国並に引き上げ、ブラジルを大豆やとうもろこしや小麦、米等穀物類の大輸出国に変貌させたことも語り草となっている。

<東北大震災時の日本人の振る舞い>
大震災直後に元サンパウロ人文科学研究所長宮尾進氏(在サンパウロ、ブラジル日系社会研究の第一人者、日伯学園建設構想提唱者、2013年春叙勲受賞者)から当方に対し、「日伯学園建設こそ移民100周年記念事業の本命」という論文と共に次の様なメッセージが寄せられた(ホームページ掲載中)。『東北大震災のことですが、当地でも幾日にもわたって報道され、特にテレビニュースなどは、この大災害にあっての日本国民の冷静、沈着な行動を、とてもブラジルでは信じられないこととくりかえし、報じておりました。事実、今年ブラジルでは各地で大出水が見られ、水害の模様がニュースで報じられていましたが、それに伴う被害者のスーパーの戸を破っての食品の略奪など、あたり前のように報じられていますので、そうした事態がまったく見られなかった日本の状況は“信じられない”とアナウンサー自身が何度も何度もくりかえし言うほどの、日本国民の行動をブラジル人は驚嘆の眼で見ております。私たちが日伯学園を通してブラジル国民の中に浸透させて行きたいと願っているのは、それこそ、日本移民世代が身につけて来たこうした協力一致・沈着冷静な行動など、日本文化のすぐれた資質なのです。今回の大地震は日本の人たちにとっては、かつてない不幸な事件ではありましたが、ある面でははからずも他では見られないこうした日本人のすぐれた資質を、事実を通して示してくれた出来ごとであったと思っています。日伯学園の建設を目ざす私たちは、この事態を日本文化教育の中に、有効に生かして行きたいものと思っています。それがまた2万人を越すであろう、この災害の犠牲者の冥福を祈る追善にもつながることと考えられます。(2011年3月24日、宮尾 進)』。

当時、ブラジル最大のテレビ局グローボ社が福島の被災地を取材している。被災者が避難生活を整然と送る様子を、驚きをもって報じたが、取材中、スタッフの一人が避難所で紛失した5万円入りの財布が、移動中に本人に届けられるというサプライズに遭遇。取材陣が感激してその場でその模様を興奮してブラジルに実況中継したため、日本人の正直さ・誠実さが改めて確信をもってブラジル国内に広まったのである。

<ブラジルにおける日本の人気>
ブラジル政府が2010年から始めた「国境なき科学(Siencia sem Fronteiras)」という大プロジェクトがある。5年間でブラジルの理工系大学生10万人を世界中の大学に国家負担で留学させるという壮大な計画である。ここ1~2年は、経済的事情で中断しているが、学生の留学先として人気があるのは、日本の大学だそうである。日本の先端科学技術に加え、アニメ・マンガはブラジルでも相当人気が高く、当地の日本語学校の先生も生徒も今や非日系人が多くなってきている。非日系が親日・知日派になってくれることは両国の関係にとって大変喜ばしい。

<サッカーと柔道>
2002年、FIFA日韓W杯の決勝戦が横浜国際総合競技場で行われ、ブラジルがドイツを破って優勝。ブラジルは国を挙げて喜んだことは言うまでもない。連日の試合は無論のこと、TVで放映される先進国日本の姿、日本の人・自然、・おもてなしの心は優勝した事実とともにブラジル人に好印象をもって焼き付いたはずである。
リオ・オリンピックでブラジルにメダルの量産が期待される種目は柔道である。ブラジルは、格闘技大国で知られるが、その原点は日本移民がもたらした柔道で、現在の競技人口は200万人超で世界最多とされる。私と大学同期で同時期にともにブラジルに移住し、帰化した畏友石井千秋君が1972年のミュンヘン・オリンピックで、柔道でブラジルに初のメダル(銅)をもたらした。以来、多くの五輪メダリストを輩出している。リオ大会は柔道が世紀の日伯対決の場となることは確実である。

<日本の教育への関心>
 ブラジル日系社会は、現地で日本語・日本文化の普及活動を行っているが、普及のもっとも効果的な方法は、ブラジルの公教育に選択科目として日本語を採用してもらうことである。現地では、日系の教育関係団体が各州や市当局に公立校での日本語採用を働きかけている様であるが、はかばかしい成果は上がっていない。しかし、州知事や教育長官等が、機会を得て訪日し、日本の小中学校の教育現場を視察すると一様に驚き、帰国後、すぐ自州の学校に日本語を導入するとのことであった。周知の通りブラジルは凶悪な犯罪が多く治安が悪い。改善するには子供の教育がもっとも重要であることは分かっているが対応策に決め手がない。州知事クラスが、日本の学校で、児童・生徒が規律正しくチームワークで掃除を行い、給食当番をする、行事に取り組む等の学習現場を見て感銘を受け、この教育方法こそがブラジルを改革する最良の方法であると確信するそうである。

<在日ブラジル人の存在など>
 1990年の入管法改正で日系人(3世迄とその配偶者)に在留資格が付与され、いわゆるブラジル人デカセギが急増、その数はピーク時32万人、リーマンショック等の影響でその後減少したが2015年末17万人であり、昨今再び漸増傾向を見せている。
 そもそも製造業の人手不足を補うために日本政府が彼らを招請したのであるが、政府は「移民政策」をとらず、「外国人対策」で対応しているため、彼らが日本で安定的な生活をしているとは必ずしも言い難い。しかしながらブラジル日系人の働き手のおよそ10~15%が日本に来て生活することは両国の経済や文化に相応の影響を与えている。少子高齢化社会の日本にとってはありがたい存在でもあり、せっかくであれば日本が温かく迎え入れる必要があることは言うまでも無い。100年以上前も、戦後の苦しい時代にも日本移民を温かく受け入れてくれたブラジルへの恩義は忘れてはならない。
 ところでデカセギが始まった当時ハイパーインフレで苦しむブラジルの日系人が大挙来日して大金を稼ぎ、瞬く間に国元に財産を築いたため、日系人を羨む声が非常に強かった。今は、日本の経済状況から大金を稼げるほどではない。ところで雇用主、とくに派遣会社は景気の動向によりブラジル人の扱いを変える。人手不足になると甘い言葉で勧誘し、人が余ると理不尽なやり方で解雇する。仕事で怪我人が出ても労災保険を適用せずうやむやに終わらせるなど恨みを抱いて帰国するデカセギが少なからず存在する。国元に帰って、日本で受けた酷い仕打ちを家族や友人に話す。すると、ブラジルでは「日本人はブラジル人が嫌いらしい」という噂が立つ。親日国に対し、我が国のイメージを傷付けるようなことがあってはならない。

<日系社会の負の記憶>
 過去にブラジルで日本のイメージを大きく損なう事件があった。戦後間もない頃、日本の敗戦を認めなかった日本移民の「勝ち組」と、それを認めた「負け組」の争いで前者が後者を襲撃し、多くの死傷者(死者23人、負傷者147人)を出すという事件は当時ブラジルを震撼させた。これは日系人社会が分裂した負の記憶である。

<ブラジル日系社会と日本の連帯>
日系人は混血化の速度が非常に早く、急速に民族色を失いつつあることにブラジルの識者が警告を発している。アジア系少数民族で肩身が狭いと感じていた日系人が、敗戦によって日本離れを起こしたことが背景にある。しかし、現在ブラジルが目指すのは、サラダボール文化国家、つまり各民族がその特色を活かしながらそれを統合する国作りである。移民排出国のドイツ、イタリア等は、母国政府のみならず、出先機関、進出企業等が結束し、資金を投じて自国系移民社会を守っている。昨今では、移民後発組の中国・韓国もしかりである。これに比べて日本政府・進出企業には残念ながらそういう国家・国益意識が余り見られない。日系色が消えるということになれば、日伯関係の将来にとって好ましいことではない。2億の人口の中に占める日系人の割合は1%に満たないが日本の東大と言われるサンパウロ州立大学受験の日系人の合格率は全体の10%超と非常に高い。職業も大学教授、医師、弁護士、官僚等のエリートが多い。日本は、日伯友好親善関係の重要性に思いを馳せ、日系社会の存在を改めて認識し、彼らと連帯する必要性を理解すべきである。日本政府首脳が日頃中南米の日系人は、日本の財産であると言うのであれば、国益を踏まえ日系社会を強く支援するべきである。2017年3月にオープンが予定される日本政府肝煎りの「サンパウロ・ジャパンハウス」開設を機に政府に一層の奮起を期待したい。

<ブラジルの国是を体現?する日本人>
 ブラジルの国旗は、1889年11月に制定され、中央の白い帯に緑色の文字で「ORDEM E
PROGRESSO(秩序と進歩)」と明記されている。由来はともかくこれが国家のモットーであり、国家発展のためには、このスローガンが必要不可欠であるということであろう。つまり「秩序があってこそ進歩がある」、裏を返せば秩序の無さがブラジルの進歩にとって最大の障害であることを意味していると解釈される。ブラジルの宗主国はポルトガルであるが、原住民(インディオ)にイタリア、ドイツ等の欧州系、アラブ系、アフリカ系(奴隷)、日本を含むアジア系等の移民が流入、それぞれがコミュニティーを形成、種々の異なる言語・文化・習慣が混在する多民族国家である。必然的に国家としての一体感・統一感が乏しい。その様な状況下で国が進歩・発展を成し遂げるためには、国民の“秩序”ある行動が必要不可欠であり、それは国是として過去も現在も未来も変わることはないと思われる。そしてブラジル人は、先進国日本をまさに自分たちが追い求めている「秩序と進歩」の国、というイメージで捉えていると言っても強ち過言ではない。「ブラジルから見た日本」の印象の根底にはこの国旗の文言に鍵があると筆者は思わざるを得ない。われわれは、親日国ブラジルとの百年を超える縁・絆を改めて噛み締め、将来にわたり日伯両国の友好親善関係を維持・発展させる努力が必要であり、またそう願わざるを得ない。

2016年6月18日

 認定NPO法人 NGOブラジル人労働者支援センター
              理事長 加 藤  仁 紀

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