徳力敬三 ブラジルに描く夢 (前編)

 

 【筆者プロフィール】

 

 徳力 敬三 (とくりき けいぞう)

 1941年  三重県松坂市生まれ  1960年 三重大學農学部入学
1964年 学移連第5次南米学生実習調査団で渡伯  1965年 三重大学卒業 1966年 ブラジルに移住 ブラジル・ヤンマー社に入社(サンパウロ本社で勤務)1975年 ヤンマー社の ピラグアス農牧会社を起業・転勤地は北マットグロッソ州 1981年 ヤンマー社サンパウロ本社にもどる。1988年 ヤンマー社のマルグザ銑鉄・マルフロラ製炭を起業・マラニオン州勤務  1992年 ヤンマー社退職 
1993年ラ・カンターレ社を設立(有機コーヒーの日本向け輸出・健康食品)  

2011年ラ・カンターレ社を退社・現在は顧問 

2017年 ブラジル日本会議の役員を務める。

 – 

 

1-生い立ち

私は1941年、松阪城下は本町、とくりき本店という老舗の次男坊として生まれた。長男が跡取りと決められていて、次男の私は早くから自分の道を開拓すべく育てられたように思う。

先年、日本に帰った時、小学校時代の友人が恩師を招いて同窓会を開いてくれた。その折、願証寺の住職をしている尚チャンが「啓ちゃんは3年生くらいの時に僕はブラジルに行くんだと云っていたなー」と言いだすと、恩師村田先生も、[ほんまにそうやったなー]と合づちを打たれた。

なぜそのような幼少の折から、ブラジル移住を考えていたのか自分でもしかと判らない。松阪のような温暖な、住みやすい地に育ちながらアマゾン開拓を夢みたのは、やはり父の物の見方、考え方を継いだのであろう。

中学校を卒業した時には、はっきりとブラジルに行きたいと親父に言ったのを思い出す。いくらなんでも15才、それは余りにも無謀と、父親に叱られ、それならばと手に職のつく松阪工業学校の機械科に入った。

3年生になって、ブラジル移住は農業経験者か大学卒業者でないと駄目とわかり、無謀と知りつつ、実業校から国立大学への入学を強行するべく勉強を始めた。三重大学農学部に入れなければ、自衛隊に入り実学を学んでからブラジルに行くぞと決め、全然勉強したことのない受験科目を参考書たよりに独学していった。ブラジルへの夢が、まさかの入学を可能にしてしまった。松阪高校という受験校から三重大農学部に入学したのは,その年現役ではたった一人だけ、私のように実業校より現役でストレートに入れたのは、やはり神の恵みとしか思えない。

夢見ればそれは必ず実現するとの信念がこの頃から生まれたように思う。

 

2-大学時代

入学したのは農学部総合農学科、1960年4月のことであった。

大学では何を学んだか。三重大学海外移住研究会を創設し、柔道に時間を割いた。3年生の時には日本海外学生連盟の海外研修制度に応募し、ブラジルを1年間自分の眼で確かめた。今思えば果樹教室の藤村先生は移住研究会の顧問でもあり、私のブラジル研修報告記を卒業論文に置き換えてくださったようだった。大学で学んだものは大きく、そしてブラジルへの道を開いてくれた。農業だけでない、もっと大きな広い目を養い得たと思う。

こうして10才くらいの時から言い出したブラジル行きは準備万端整い、父もこれ以上ブラジル行きを反対することもなく、移住することを賛成してくれた。それにしても親、学校出たばかりの子供を心配をし、ブラジルでの働き口を日本で見つけてくた。ブラジルに進出していたヤンマー・ヂーゼルの子会社に、現地に行けば働かせてもらえるように頼み込んでくれた。

大学在学5年と半年、1965年10月、大学を卒業。1966年4月よりサンパウロでの仕事に役に立つようにと、ヤンマー学院研修所で6カ月間の研修を受けた。.

 

船に乗る前に、ブラジル研修期間中、世話になった大学の先輩松尾明義氏が帰国されていて、「向こうで嫁さん探すのは大変だから、一緒に行ってくれるような人がいるのだったら、結婚してゆけよ」とアドバイスしてくださった。それを真に受けてそれならばと、知り合いの女の子を先輩に見せにいったら「それで結構」。

千葉県は銚子の彼女の実家に申し込みに行ったら、まったく突然のことで、「猫の子じゃあるまいし、ホイとはあげられぬ」と父親。母親がとりなしてくれて「それじゃ猫の子あげるよ」まで、時間はかからなかった。友達にお金を貸して貰い婚約指輪だけは自分で買い、後は全てなしであったが、

ブラジル壮行の意図を察し、親族だけの結婚式をあげさせてくれた。移住船が神戸港を出る2週間前のことであった。

新婚旅行をかねて、神戸の移住斡旋所に入所するという慌しさであった。

 

船に乗ったのが、1966年11月。神戸の港には父、母、親戚の方々、友人知人、沢山の方々が見送りに来てくれた。二度と再び日本には戻れないものと覚悟を決めての船出であった。

新妻との別れは横浜、同じ船に乗る手続きをする間がなく、ひとりだけの旅立ちになってしまった。次の船に乗るようにと言い置いての出発であったが、実際には一年後の再会となってしまった。あの時代こんなことが許されたのだから不思議である。

 

こうしてアマゾンに入ることを間接的にさまたげた親父の意図は、サンパウロで言葉、習慣を覚え、その上でアマゾンへ行きたかったら行けばよろしかろうとの遠大な親心であった。

 

3-ブラジル研修

日本学生海外移住連盟の海外研修制度が出来たのが1960年、私はその第5回生として1964年4月に横浜港を出発した。その頃の日本は外貨が乏しく、1年間の海外研修に出かけるのに海外持ち出し枠は僅か200ドル。1ドル360円時代でそのころの72000円は当時の初任給の10カ月分に匹敵したのだから相当の大金、学生の身分で持てる額ではなかった。が、200ドルは200ドル、この金で1年にわたる研修期間を過ごさねばならない。超貧乏旅行は覚悟の上であった。

6月にサントスに着いて、仲間11名はそれぞれの目的地に向かった。

私の研修先はアマゾンはトメアス。胡椒の里であった。サンパウロから遥かかなた3100km。今でこそベレンーブラジリア街道があり、トラック野郎は48時間でぶっ飛ばすというが、その当時はブラジリアに首都が移転したばかりで、ベレン-ブラジリア街道の工事が始まったばかり、荷物満載のトラックの助手席で揺られること19日間の旅となった。満天の星を眺めブラジルに来たという感慨と茫漠たる大地の旅に酔いしれていた若き日の自分の姿をありありと思い出す。ホテルとてなく、運転台で寝起きし、鹿狩りした肉を食べながらのサバイバル旅行がこの研修の最初の難関であった。

 

トメアスでの研修は約5ケ月、ピメンタ・ド・レイノの収穫期に汗を流し、将来必ず自分もここに戻ってアマゾン開拓の一端を担うのだと研修生活にも熱が入った。同世代の日本人が着々と農園を開き、ピメンタを植え、将来に大きな夢を描いているのを見て、自分の将来をダブらせていた。

研修が終わった後、ブラジル各地に出来ていた日系のコロニアを訪ね歩いた。北伯、東北伯、そして南伯、隣国パラグアイの移住地にまでも足を伸ばした。戦後ブラジルへの移民は1952年に再開されており、私が訪ねた頃は古い移住地で10年前後を経過、新しい移住地ではまだ井戸を掘っているような入植間もないところもあった。全部で23の移住地を訪ねた。多くの人と出会い、色々な苦労話を聞かされ、大変な実学となった。大学で勉強することもひとつ、しかし私にとっては青年時代に見た、海外で働く生き生きした移住者の姿は、これぞ日本人の雄飛だと映った。

どこに行っても、日本の学生さんということで歓迎され、行く先々で泊めてもらい、そして餞別まで頂いた。殆ど無銭旅行に等しい貧乏旅行、よくぞ健康も害さず、危難にも遭遇せずに、10カ月間の旅をこなしたものと思う。

移住地めぐりの最後、パラグアイの移住地を回り、アスンシオンの日本大使館に寄った時には持ち金は底をついていた。その当時の大使の名前は失念したが、そこで頂いた餞別は誠に有難かった。パラグアイからブラジルに再入国した際、世界一の超特大の滝があることを聞いた。フォス・ド・イグアスの町から滝まで、大使に頂戴した餞別をはたきタクシーに乗った。あのスケールの大滝をみて、「ここぞ自分の住む国」と決心したことをイグアスーの滝に日本から観光に来た人を案内するたびに、興奮を交えて話す。あの感動は忘れられるものではない。青年時代の感動が今も続くのは,あの轟々たる力強き水音とともにあるからのように思う。

ブラジル滞在10ケ月、行き帰りの船旅をいれると丸一年。実り多き研修を終え、日本に帰った時の印象は、「日本という国はなんと日本人の多いところか」という見渡す限り日本人しかいない日本の姿であった。

 

4-移住、そして仕事と家庭。ヤンマー社での9年。

親父の配慮でサンパウロでの仕事先は決まっていた。自分で決めたことではあるが、女房も居る。日本では一度も月給を貰ったことがないのに、生活が始まっていた。まったくアマゾンどころではない環境に納まっている自分をサンパウロに見つけることになった。

就職先はブラジル・ヤンマー社、6カ月の研修を受けてきたのにエンジン一つ直せない。言葉は分からない。分からないことだらけ。年をとった人の忠告はやはりよく聞くものだと実感。多感な実力のない若者が夢だけでは何も出来ない。時間を掛けて実力を養うことこそ、アマゾンへの近道と懸命に仕事に打ち込んだ。

一年が経った頃、新妻・洋子をリオ・デ・ジャネイロの港に迎えに行った。この地でこれから苦労を共にする女房の呼び寄せは2カ月後の船と約束しておきながら、初めから齟齬をきたしていた。ヤンマー社の後藤隆社長の「勉強が先、呼び寄せは一年後」の一言で決まっていた。人生甘いものでないことを充分悟らせるお考えであったと思う。

新婚生活はポロン(半地下の部屋)であった。家具は全て中古、新しいのは女房のみ。冷蔵庫にブラジルの珍しい果物を沢山入れ迎え入れたが、それが女房にとってブラジルでの初の思い出らしく子供達によく話してきかせている。

子供は4人欲しいと願っていた。折角ブラジルに来たのだから2人では駄目、親戚もいないこの地に生き抜いていくには最低4人だ。この考え方は三重大の諸先輩にも通じる考え方らしく、5人、6人もの子供をつくられた先輩が4人もいる。子供を4人と設定したことは大いなる誤りであったかと思うこの頃である。

ヤンマー社の仕事は2年間の技術部での機械修理の後、販売部に移り販売店訪問を2年間続けた。ある時、3週間の販売店訪問の出張から帰ったら目の色が黄色くなっていた。移住者がつかむ病気、急性肝炎である。三重大の諸先輩も10余人のうちの数人が同じ病気に掛かったことを記憶しているが、40日の絶対安静の日々は、気ばかりあせる移住初期の誰もが出会う大きな試練であった。

1968年には長男・アントニオ大介、1970年には次男・アルベルト健介が続いて生まれた。次男は生まれてから半年後、右目は弱視で、他方は全然見えないことが分かった。この次男の存在がこれからの自分の人生に大いなる影響を及ぼすことになるのだが、その当時はそれほど深刻には考えていなかった。

移住してから5年がたち、再びアマゾン行きを検討したが、自分の未熟、次男の眼の治療を考えると、踏み切ることは出来なかった。それにもまして、親父の忠告は「子供達をアマゾンの猿にさせぬようによく考えろ」だった。

仕事は販売促進から販売企画部の設立へと動いていった。社内で初めての企画販売の仕事を引き受けるようになり部下も増えていった。相変わらずアマゾンへの夢は衰えず、休みをとっては3000kmのかなたにある「アマゾン」の様子を、休暇を取ってはぶらりと見に行った。

1973年には長女・ジュリアまゆみが誕生した。

その当時、ブラジルは北伯開発を行う企業には税制の恩典を出していた。農機具業界は豊富な農業融資のため好調な販売に支えられ、ヤンマー社もその時代、順調な販売をし、毎年大きな利益をあげていた。税制の恩典を利用し、アマゾンに農牧会社を興すことを考えていた。

 

5-ピラグァスー農牧時代

1975年年央、ヤンマー社はピラグァスー農牧会社を買収することになった。その決定を報告する間もなく父は10月逝った。その直後話が決まり、年末には私に現地行きの命が下った。父は今度こそ私のアマゾン入りを安心して許してくれたものと感じていた。移住してから9年目、アマゾン開拓を夢見続けていた私に、アマゾン開拓が実現することになった。

サンパウロから空路ブラジリアに飛び、そこからさらに北の方に700km、世界一の陸の島、バナナル島のブラジル・インヂオ・タピラッペ属の部落にある飛行場に降り立った。南緯10度、アマゾンの一角、アラグアイ河の流域である。熱風が私を迎えてくれた。農場はそこから陸のタクシー・テコテコ(軽飛行機)で30分、初めて農場に入った時の感激は今も忘れられない。農場は、幅18km、長さ42km、面積72000ヘクタールの大農場である。本部には数件の家があったが、後はヤシの葉で葺いた牧童の家が10余軒あるのみ。土地のみ広く、牛もその当時は隣りの農場に預かってもらっており、牧場らしき形さえ、ないに等しい茫漠たる姿であった。

しかし、夢は見つづけるものである。

熱帯の文化も何もないところに、ヤンマーの職員は誰も行きたがらなかった。唯一人アマゾン気違いの私がいた。こうして、私のアマゾン入りは、天が幸運を運んでくるが如く、実現したのだった。1975年3月、日本人の職員5人を新規に選び2100kmの悪路を経て、堂々と農場へ入った。迎えたくれたのは30匹余のブラジル・ダチョー-エマの大群だった。自然のそのもののピラグァスー農園は私たちの持ち込んだブルドーザーやトラクターの騒音で動物達はたちまち居なくなり、時たまジャボチ(陸亀)や狐が顔を出すだけになってしまった。あちこちに開けられた道路や牧柵が開発の跡を物語ったていた。隣の農場に預かってもらっていた牛群は4500頭、たちまちにして大牧場主になった私はその時、35才であった。急がば回れの諺とおり、移住したいと言い出してから15年掛かって移住したが、今度はブラジルに着いてから、僅か9年で牧場主となった。

 

1976年には3男・アンドレ耕介が我が家のメンバーとなり、子供4人が揃った。しかし、乳飲み子を連れて原始林の開拓最前線に入るわけにはいかない。農場本部の諸設備-本部建物から、売店、倉庫、製材所、肉屋、勿論本部職員用のレンガ建ての家屋、牧童用の簡易住居など無数の建物を作り、学校、カッペイラ(小教会)、小動物園まで作り、一応の生活が出来るようになったところで、家族を農場に呼んだ。

1980年年末までの5年間、短い期間であったが、私のアマゾン開拓は熱烈な勢いで続いた。

北米の西部開拓前線さながらの牧場開拓であったが、私が農場長を勤めていた間に7000ヘクタールの牧草化を進め、750kmに及ぶ牧柵をつけた。牛も9000頭にまでなったが、入植当時より問題になっていた先住者問題が、5年も経つのにまだくすぶっていた。農場の大親分の私が正月休みに家族を連れてサンパウロに戻っている留守に事故が起きた。ポッセイロ(先住者)の二世達が農場側の土地監視員を射殺、労働者組合、過激な教会関係者、北マット・グロッソ州の州議員までが飛行機で飛来し、牧場主の非を叫び、民衆をあおった。平和破られ、今にも先住者が農場を襲うような状況にまで発展した。ライフルと拳銃で武装した数人のボデイ・ガードたちに身辺警護をされていては農場内も自由に歩けない、そんな恐ろしい対立の3カ月が過ぎた。私が農場にとどまる限り、農場の運営は不可と判断されたヤンマー社社長の決断で、私はそこから退去せざるをえなかった。平和な仕事が地獄に変わっていた。

私の夢はそこで潰えた。

今考えると、これも親父の配慮かと思う。あのまま農場の中で自分の思いとおり何でも出来る「バカ天狗」になっていたら、子供の教育も出来ず、医者のいないところで家族の一人位の犠牲者が出ていたかもしれない。

家族全員、皆元気でアマゾンの農場暮らしを経験出来たことこそ、私共の幸せとせねばならない。

農場で満天の星を見て、一番末っ子の耕介が「空にワニがいる」と言って家に駆け込んできたことがある。農場内の川べりを車で歩いていると、ライトの光を受けたワニの眼が赤く光るのを覚えていて、空を見上げてそのような発想が浮かんだのであろう。

次男健介はトカーノ(大嘴鳥)が家の横に成っていたパパイヤを食べに来ると、猿の如く、急いでパパイヤの木にとびつき、トカーノと競争して、丁度熟しかけた実を採ったものだ。

子供達にはそれぞれに、数限りない農場での経験が思い出として今も生きている。

 

6-再びヤンマー社へ。雌伏の時代

サンパウロに戻っても、しばらくはピラグァスー農場の運営を遠隔操作していた。夢よもう一度の気持ちがないでもなかったが、平和な開拓を望んでいたわりには、自然を壊し、隣人と摩擦を起こした。確かに一つの町を興した。農場内の一角1500ヘクタールを市街地に譲渡したところが、現在、北マット・グロッソ州の東北に位置するポルト・アレグレ・デ・ノルテというブラジルの地図にも載っている町である。開拓を経験したことにはなったが、私の心には何か満たされないものが残り、なぜこのような間違いが起こったのか、模索していた。

その頃、サンパウロ市北部に住居を構えていたが、イミリン日伯文化協会の会員で隣人の日本人が日本のモラロジー(最高道徳)という教えを学ばないかと誘ってくれた。研鑚を積むにつれ、ピラグァスーでの私の心使いは大いなる間違いを犯していたことに気がついた。「我が、我が」という気持ちが強すぎた。世のため、人のために働く気持ちがなく、唯前に進むのみ、まるで馬車馬であった。周りの人はさぞや迷惑したことであろう。家族のものも不自由をこらえ、私の意のままにさせてくれていた。周りを気使う心くばりが不足していたことに気がついた。

1981年、ヤンマー本社の仕事に再び組み込まれ、販売部、輸出部、社長室と実業をこなしながら、心の勉強も続けていった。

折りしも1980年代の好況に支えられ、ヤンマー社の業績は伸びに伸びた。利益も大きく出、エンジンを作るもとになる鋳物用銑鉄を自社で生産出来ないかと社長室中心に検討が始まった。アマゾン行きのチャンスが再び巡ってきていた。ピラグァスー農牧よりサンパウロに戻ってから、9年が過ぎ去っていた。

 

7-マルグザ時代、マラニォン州でのアマゾン開拓。

1988年は銑鉄生産のための基礎研究で一年が過ぎた。計画では世界一のカラジャス大鉄鉱山の高純度の鉄鉱石をリオ・ドーセ社より購入し、カラジャス鉄道沿線のマラニォン州ロザリオ市でおろしてもらい、そこに銑鉄工場を作ることになった。銑鉄をつくるには、当ブラジルでは木炭を熱源として使う。それに必要になる木炭を自前で生産することになり、計画に組み入れることになった。

1989年には現地調査のために幾度もパラ州やマラニォン州に出かけた。

工場用地はカラジャス鉄道と国道に挟まれたロザリオ市町外れの一角に決まった。木炭生産用の農場の買収もこのころより始め、ロザリオ市より 340KM離れたパライバ州に近いところに最初の土地を購入した。

このたびの大プロジェクトも、ブラジル・ヤンマー社を挙げての重大なる将来計画の一環であった。が、1500人もいる職員の中で進んで東北伯で一番遅れているといわれるマラニォン州に働きに行きたいと申し出る人はいなかった。結局、ヤンマー工場側からは銑鉄工場建築の責任者が一人と、この企画を担当した私が、マラニォン州での一大事業の大将として派遣されることになった。

総額2500万ドルにおよぶ大計画であるにもかかわらず、よくもたったの二人だけの派遣で済ませたものと思う。それでも約一年の後、見事銑鉄工場は出来上がり、木炭を作る農場も準備出来た。

長々と書いてきたが、これが私のアマゾン開拓第2弾となった。

夢は見つづけるものである。

きっとそれをどこかで見つめてくれている人が居るものである。

ピラグァスー時代に仕事の完成を見ず、不満足のまま農場を去った。同じ人生の中で、更なる機会をこのような形で与えられるとは、さすがに思ってもいなかった。が、現実にはピラグァスー農牧の10倍の規模で、アマゾンの一角であるマラニォン州を舞台に、アマゾンの木材とアマゾンの鉄鉱石を使って、出来上がった銑鉄を世界中に輸出しようというのである。これぞ男の夢、必死にならぬほうがどうかしている。自分で作った計画を自分の手で拵えあげる。ワクワクしないほうがどうかしているというものだ。

本当に必死であった。あの南緯二度、赤道直下の暑いところで、単身赴任、朝早くから夜遅くまで働いた。土曜日は勿論日曜日まで、農場と工場を悪路をものともせずに、走り回った。休みなく働きとおした。本当に男の仕事であった。

現場で指揮を取ったのは丸3年に満たなかったが、その間に買い上げた土地は110余件の地権で、75000ヘクタールに及んだ。農場間を結ぶ幹線道路は、セラード林を開き、木炭運搬用の大型トラックが行き来できる複線道路を250KMも開設した。幹線道路沿いには2KM間隔で炭焼き場をつくり、そこには直径5.50メートルの兜形のレンガ製の炭釜を24個を一単位として設置した。一単位で月産100トンの木炭をつくる計算で、これを60単位並べた。この上を軽飛行機で飛ぶと、点々と並ぶ炭焼き場から煙が立ち昇り、遥か地平線まで煙がなびき、今もありありとその光景を思い出すことができる。

切り倒した樹木の代わりに、農場は幼木を新植する義務を負っていた。セラード林にある木炭用に適した樹木から種子を採集し、苗をつくらせた。年間200万本の苗を自家生産し、伐木したところに新植していった。義務とはいえ、壮大な植林計画も併せ持つ貧しい東北伯救済の一手段であったからこそ、あの怖いIBAMA(ブラジル自然保護院)も快くこの計画に認可を与えてくれたのだと思う.

何しろ毎月500ヘクタールに及ぶセラード林を伐採、丸裸にしてゆく。年間6000ヘクタールも切るのだからそのままではまったくの自然破壊と言われてもしょうがない。喜んだのは地元の人たち、何の産業もないところに、忽然と木炭産業が現出、日銭が稼げる仕事があるといって、近隣の住人が集まってきた。中には自分の土地を売った人達も居て、本当に活気に満ちていた。

1991年中頃、予定より少し遅れて銑鉄工場は運転に入った。木炭の供給も順調に進んだ。

計画では1トンの銑鉄が120ドルで売れれば、投下資本の回収は比較的短期間で行われるはずであったが、この頃銑鉄価格は最悪の状態で90ドルを割り込み、利益どころか、コスト割れ寸前の苦しい経営状態となった。

1992年4月、サンパウロのブラジル・ヤンマー社の社長交代が30年ぶりに起こった。農業機械の売れ行きが悪くなり、8月には現地採用の日本人一世職員は殆ど全員、退職に追い込まれた。遠く離れたマラニォンにいた私にも勧告があり、私もそのメンバーの中に入った。

こうして26年に及ぶヤンマー社でのサラリーマン生活に終止符が打たれ、サンパウロの家族のもとに帰ってこられた。

今、思い起こせば、これも又、めぐり合わせ、あのまま単身で働きつづけていたら、病を得ていたに違いない。

思えば親父の忠告で腰掛の積りで始めたヤンマー社での仕事がこんなにも長く続くとは思わなかった。しかし、振り返って見ると実に壮大なサラリーマン生活であった。2度にわたり、アマゾンの開拓に携わることができ、その面積たるや15万ヘクタール。これ程の面積を自分で計画を作り、それに合わせて開拓できたこの幸運をしみじみ感じる。

これもひとえに親父の庇護かとも思う。或いは次男健介が親父の代わりになり代わって、自分の体を痛めてまでも、私の無謀を諌めてくれてからではないかと思う。生まれつきの弱視、その上に、16才の時に、世にも稀なる神経腫瘍を発症、私が勇躍、マラニォンに出かけた1989年には、脳内腫瘍を取り除くための大手術を日本で受けた。看病に行っていた女房も6カ月に及ぶ入院生活に疲れ、幾度も医者の診断を受けたと言う。大学二年生になっていたが、手術のために体の一部に麻痺が残り、帰伯してから、大学を中退した。

世のためとは言いながら、自分は何もせず、全て女房任せで、病気の治療にあたらせていた。退職と同時に、今度こそ本当に家族と共に、一緒に出来る仕事をしようと心定めていた。

家族も無事、女房と子供4人、一人も欠けることなく、大アマゾン開拓の夢はこうして幕切れた。

 

8-独立・ラ・カンターレ社設立。

こうして私のブラジル移住人生は一段落を迎えた。25才の時着伯と同時にヤンマー社で働き始め、ヤンマー社を辞めた時は51才になっていた。

これを契機に、残りの人生なにをなすべきやと模索した。 

ピラグァスー牧場より帰聖した1980年より勉強を始めた最高道徳-モラロジーをマルグザ銑鉄工場勤務中も続けていたが、今ひとつ物足りなさを感じるようになり、足が遠のき始めていた。

1990年頃、トッパン・プレス社社長の奥山啓次氏の薦めで、幸福の科学の書籍を読み始めていた。現実の社会において大きな夢を達成した今、なにを求むるべきやとしきりに考えた。そこに出合ったのが世にも稀なる仏との出会いであったと思う。悟りたる人、永遠の生命をもつとされる私どもの魂の親、この世の目的をいかにもあっさりと「魂の修行」の場と諭されている方、本当にどえらい方とのめぐり合わせが、丁度このとき、私の人生の重大な転換点で起きた。

三重農大に実業高校からストレート入学出来たのは、あの夏の暑い最中、夏休み40日間、毎日16時間独学したことだと今も自負しているが、この人生最大の折り返し点で、退職後の80日間、毎日毎日、悟りたるお方の「偉大なる書」を読み続けた。その前後もあわせると、その頃発刊済みになっていた著書全部150余冊に目を通した。

新しい移住人生の後半はこうして始まった。

この教えに出会えたのも、或いは親父の導きかもしれない。

もっともっと、大きな大きな視野に立った生き方がそこにあった。 

仏の子として、自分に、そして家族に、社会に、ひいては世界の人々のために、なにをなすべきやと新しい夢を逞しく描いている自分がそこにあった。

アマゾン開拓の夢は年を経るに従い、おっくうになる。

なぜならば開拓には、どうしても若い肉体がいる。年をとると、心で楽しめる開拓が良いことに気がついた。

無限に続く幸せのために、大きな会社から離れ、一人で、コツコツと世の中の片隅にあって、世の為、人の為、働こうと決心した。

選んだ仕事は、この地球の浄化につながる有機農業。農薬と化学肥料を二大武器とする近代農業では、次世代に綺麗な地球は残せない。現に今生きている人々の健康を害してはいまいか、これからの農業は環境をいためず、永続性のある維持型農業でなくてはならないと考えた。

農大を出ながら、自分で農産物を作ったことがない。農業関係の仕事をしながらも、いつも管理の方に廻ってしまい、ものを作る事を知らない。

ものを上手に作ることを知っている生産者達の一番困っている問題は、どうしたら自分達の作ったものをうまく売りさばけるかであるが、物を作れても売ることの下手な人が一杯いることに気がついた。

もう一つ、私ら移住者の特技は日本語とポルトガル語を理解することが出来、尚且つ日本人とブラジル人の考え方の相違が分かることにある。この二つを組み合わせて出来る仕事は、日本とブラジルを結ぶ貿易、小さな輸出入が出来ぬものかと考えた。

ブラジルに移住して、牧場主になって牛を扱った。それは実現した。ブラジルの農産物で日本向けに輸出のきくものはコーヒー、ミカンのジュース、大豆と大豆油、それに砂糖位のものである。コーヒー以外は大型産業で個人ではなかなか手を出しにくい。コーヒーはブラジルの一大産業であり、これを扱おうと決めた。

不思議なことに[悟りたる人]の本を読み終えぬうちに声が掛かった。日系コロニアの有機農法の第一人者、続木善夫氏が同氏のアグロテクニカ社にコーヒー部を新設するので、それを担当してみないかとのお誘いであった。1992年年末、心機一転、有機コーヒーの勉強を始めることになった。こうして移住人生の後半戦が始まった。

1993年5月、ラ・カンターレ社を設立した。

1994年には自宅の裏に事務所を建てた。

次男健介の面倒を見ながら、仕事をすることになった。

健介も、気分のいい時は、自分でコーヒーの焙煎をし、袋詰めした。

 

あれより9年、紆余曲折があったが、少しづつ基盤が固まり、自分独自の日本向け有機コーヒーの輸出の仕事を続けている。

1996年、松尾明義先輩の製造されるプロポリスの販売を業務に加え、1999年からはアガリクス・エキスの販売も始めた。ブラジルでのアガリクス露地栽培の先駆者・塩澤兄弟よりアガリクス乾燥品を供給してもらい、松尾先輩にエキス加工してもらっている。地の利、人の利を得たブラジル特産の本物である。

昨年11月、還暦を迎えた。

娘のジュリアと末っ子のアンドレがラ・カンターレ社の仕事に参加し、小さいながらも、日本とブラジルを繋ぐ独特の自分達の仕事を形作っている。

 

新しい夢を見つけ、夢実現のために頑張っている。

夢を、死ぬまで、ただ描き続きたいものと思う。

夢は自分の頭の中で描くだけよい。

それだけで、いよいよ人生豊かになる。

これには税金を払う必要もないし、盗まれる心配もない。

いつか又、50才から75才までの人生を振り返り、人生後半の出来事を書いてみたいと思う。

 

                        2002/08/10書く

 

 

 

コメントは受け付けていません。