近藤博之氏手記

 筆者 近藤博之

 

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【筆者プロフィール】

 近藤 博之(Kondo Hiroyuki)

  ・1956  早稲田大学政治経済学部卒業
  ・1956  ブラジル移住のため渡伯
  ・1957  サンパウロで独立自営(健康産業)
  ・1980  妻の死去により廃業、ラーモス移住地へ入植
  ・1985  日本企業勤務のため来日
  ・2000  同退職・離日
  ・2001  サンパウロ海岸山脈農地の管理に従事
                       孫の故郷・ラーモス移住地の活性化に尽力、現在に到る
  ・2012   特定非営利活動法人NGOブラジル人労働者支援センター
         相談役就任
 

 

 

=近藤博之氏の手記「ラーモス移住地便り」=

  近藤博之氏は、早稲田大学海外移住研究会のOBです。同研究会初代部長・故西野入徳教授(大隈総長の愛弟子)の薫陶を受け、1956年、卒業と同時にブラジルに渡伯(移住)しました。その後、サンパウロ州の港町、サントス(笠戸丸等移住船到着港、観光都市)でサウナ等健康事業を営んで成功され、顧客には、サッカーのペレー選手等有名人もいて、港に着く日本人移住者等のお世話も引き受けるなど活躍されていました。1980年、不幸にも奥様がご病気で他界されたため心機一転、知人の紹介によりお孫さんたちとともに新天地ラーモス日系移住地に入植、当地で約5年間農業を営んだ体験をお持ちです。ラーモスは、豊かな自然に恵まれ、知的文化水準の高い移住地として知られ、同氏は、同地の日伯文化協会会長尾中弘孝氏とともに、ラーモスの素晴らしさを日本人に訴え、ラーモスの更なる活性化のために日本人の来訪を促したいとして先般(2011年12月)訪日されたいわば”ラーモス大使”です。同氏は、今後、当地に日本文化の殿堂とすべく八角堂(法隆寺夢殿を模して建設されたという)に日本の水墨画等を展示し、また「鎮守の森」作り構想実現のために奔走中です。この手記は、日系のサンパウロ新聞に2007年7月から2008年6月にかけて連載されたものです (2012.2.1 TRABRAS理事長加藤仁紀)

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(1) 二十年ぶりに帰ってきたラーモス移住地    

何もかもが変わっていた。一番驚いたのは、クリチバーノスから移住地までの土道が舗装道路になり、わずか20分で移住地に着いたこと。「今じゃ食後にアイスクリームが欲しいと思えば、車でちょっと町まで買いにいける」と村民の弁。移住地の初期は、生産物のトマトを搬送するのにトラックで3日もかかり、トマトを全部駄目にしたと言う。雨が降れば移住地入り口のマロンバス川が増水し、橋がなかった頃は艀もとまり、まさに陸の孤島だったのです。現在、移住地の入り口のマロンバス川では、二車線の橋の架け替え工事が行われ、9月末完成を目指して急ピッチで進んでおり、この橋の脇に、日本政府の「草の根基金」援助で観光物産館『八角堂』が建設中で、八角堂の外郭ができあがり、その偉容さがあらわれはじめております。
さて、今日は、久しぶりに参加したラーモス秋季第運動会について記してみたい。
寒さが一段と厳しくなった5月の始めの日曜日、当日の朝は、この地特有の濃霧でしたが、数刻してその霧も晴れ、絶好の運動会日和となる。
会場は日本人会館に隣接する広大な運動場。入り口には紅白と黄と緑(ブラジルの色)の布で巻かれた二本の柱が立ち「大運動会―UNDOKAI-」の横断幕が掲げられてあり、何処から湧いてきたかと思う程たくさんの人々、ブラジル人日系人の老若男女が集まりだす。「私の孫がね『早く運動会始まらないかなあー。私足が速いから一等になって、たくさんのプレゼントもらうのよ』とはしゃいでいるのよ」と自慢そうに
言うブラジル人のおばあさんの声が聞こえてくる。

UNDOKAI-と言う単語は、ここではすでにブラジル語になっているようだ。日本文化浸透の現われでしょう。そのような催しがブラジル南部の州の山の中で行われ、地域住民の絆と彼達の健康促進に寄与していることは素晴らしいことです。今年から当地の小・中学生500人も参加し、さらに市との共催となり、市長も来賓として来られ、進んで競技に参加し、運動会を盛り上げてくれ、叉、350キロも離れた州都のフロリアーポリスからも日系コロニアの有志の方々が駆けつけてくれております。
玉入れ、綱引き、パン食い競争、ビン釣り競争など昭和一桁生まれの私にとって懐かしい競技ばかり、参加したブラジル人は大人も子供も喜びはしゃいでおり、また、昼食には「おにぎり」や「のり巻き」「ヤキトリ」といった和食の他に、この地特有の1メートルもある竹串にさした大きな肉のかたまりの焼肉(シュラスコ)などが用意され、白いエプロン姿の日系婦人の姿が秋の陽に美しく照り輝くのが印象的でした。
以前来伯した日本の有名なスポーツ選手が「ブラジル人の体力と柔らかい筋肉を鍛えれば世界で最もすぐれたスポーツ大国になるだろう」と言った言葉が不図私の脳裏をかすめ、この運動会の最後に行われたマラソン競争で優勝したブラジル少年の走り方とその筋肉を見て少年が何時の日か世界の舞台にたてないか等と夢想しながら会場を後にしました。
( サンパウロ新聞 2007年7月3日 )


(2)ラーモス便り(二)

alt話が前後してしまいましたが、今回は、この移住地の位置を示しておきましょう。Colonia Celso Ramos)通称ラーモス移住地というこの地は約40年前、移住事業団によりサンタ・カタリーナ州、クリチバーノス市管轄の地域に建設されたのですが、10年程前、クリチバーノス市からフレイ・ロジェリオ市が分離し、この移住地はフレイ・ロジェリオ市に行政区が変わっております。
地図でみるとお分かりのことと思いますが、クリチバーノス市はサンタ・カタリーナ州のほぼ中央に位置し、パラナ州の州都クリチーバ市から約350キロ、海岸のフロリアノポリス市から約350キロ、山道を登ること千メートルの高地にあり、またアルゼンチン、パラグアイ国境まで約500キロの距離ではないかと思われます。そしてこの移住地はこのクリチバーノス市からまた30キロほど奥地に入ったところにあるのです。このサンタ・カタリーナ州にはドイツ系、イタリア系、スペイン系のコロニアが多く見られ、日系コロニアは数少なく、移住人口もそうした国から比べると非常に少ないのが特徴です。

また各国でも各々の移住地はその母国の元の住居地に非常に似通っているところを選んでいることは、おもしろい類似点と思います。
そういう意味でみますと、このラーモス移住地は日本の信州の山野をふと、思い出させる感じが致します。
近年、暖かくなったとはいえ、ここは冬はかなり寒く、ブラジルには珍しく四季があることが特徴ではないでしょうか。といっても日本の四季の感じ方に比べればなにか少し心もとないというか、その季節の移り変わりにはっきりしたものが感じられないのが、日本生まれの私には少し物足りなく思われるのです。
今朝、いやに気温がゆるんだな、と思って肌着を一枚脱いで家を出て、坂道を下り、隣の家に行く石コロだらけの道からふと上を仰いだら、見事な濃い桃色の花がワーッと目の前に広がり、一瞬、おやおや、もう春かなと思ったのでした。それにしても、なんときれいな花だろう。梅かな、桃かな、と思いながら行き着いた隣人、本多さんのところで聞けば雪割桜だと教えられる。
先般今年二回目の寒さが来て、欅(けやき)の並木のその枯れ枝が天を突き破るようにして伸び、葉一つもない物淋しい、それでいてすっきりした冬の景色になったなあと思って、その光景を書き記そうと思っていましたら、もう、時は春に移ってしまっているのです。

このように、この移住地は40年の歳月の間に先人達が日本より持って来られた色々な種類の樹木が見事に根付き、私たち移住者より先に、この地に生きて花を咲かせている姿を見て、自然に逆らわず、素直に強く生きる樹木の姿に何か教えられる感じです。
日伯親善とはこのようなものだなあと常緑樹のパラナ松の間に咲く先人の植えた桜の花を今、遠くより見ながら感慨を深くしております。
そして何十年後、何百年後にはここにも日本の吉野の山に劣らない桜の春景色がきっと現れるだろうと思ったりしております。

「春を呼ぶ 故郷の色 桜かな」

(サンパウロ新聞 2007年8月


(3)ラーモスと剣道

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 「雷雨すぎて草木めざめ春のよそおい」…のっけから下手な句で失礼します。こんな句がふと口の端に出るような春の訪れがまいりました。しかし、残念ながら、ここには故里の春雨の風情が出てこないのが惜しいですね。
 そんな暖かくなった土曜日の午後、桜の咲き乱れる会館のある森の方へ歩いて行きましたら森の中から「エイ、ヤー、オー…」と力強い、キビキビした掛け声が聞こえて来たではありませんか。これぞ話に聞いていたラーモス剣道部の練習なのです。ちょっと練習風景をのぞいて見ましょう。

立派な木造りの道場「文武館」の入り口に立って見れば、正面には、神棚をしつらえ、その両側には白壁に「文武両道」「精進練磨」の額がかけられ、床は鏡のように磨き上げられている。その上で男女10組ほどの剣士が入り乱れて、竹刀を打ち合っております。おや、これがブラジルなのかと思いたくなるような光景です。私たちが昔、育った故里の村や町の道場が頭をかすめる。
それもそのはずなのです。この道場の創始者、本多さんは水戸の「東武館」の出身、彼を頼って竹刀一本をかついでやって来たのは当時20歳の尾中三段、彼は奈良県の十津川出身なのです。このようなことを記すとなにか明治維新の雰囲気(水戸藩、十津川藩、ともに明治維新では多くの志士、剣士を輩出している)がちらっと頭をかすめるのは私が司馬さんの小説の読みすぎかなとも思えるのですが、今、こうして地球の反対側で故国の町道場そっくりな道場からの気合いのこもた声を聞いていると、身の引きしまるのをおぼえてまいります。

剣道の理念は「人間形成」であるということです。農作業のかたわら剣道に精進し、物欲にかられた現代の社会生活の中でついた垢をけずりとり、人間形成をすることは、これから明日をになう若者には必要かくべからざることです。
それには、こうした自然の森の中にある剣道場は格好の場所であり、ここでは剣技が強くなるだけでなく、人間がつくられるであろうと、私はそのような解釈をして道場を後にしました。」
今、尾中さんは果樹園経営のかたわら、暇を見つけて、チリ、パラグアイなどの近隣諸国に剣道を普及するために出かけており、また、そうした国からも多くの毛色の変わった剣士がこの道場に剣道の神髄を学ぶためにやってきております。
楽しいですね。こうした日本固有の文化が、今ここで故国から移植された桜の木が満開の花を咲かせるように、いずれ花をさかせることになるでしょうから。
(サンパウロ新聞 2007年9月22日)


(4)ラーモスと剣道(つづき)

初夏がやってきた。あの枯れ枝だった木々も日々に新緑を増し、その色合いはなんとも表現のしようのない輝かしい色で、強いて言えば“あさぎ色”とでも言うのでしょうか。ポ語にはこれに該当する言葉がないでしょうね。
日本から移植された木々の放つ色合いで、この自然の醸し出す情緒はだんだん変わってくるようです。毎朝、この新緑を身体一杯に浴びながら歩いていると、生きている喜びが湧いてくるように思います。そんなさわやかな風が、先日、一つの吉報をこの移住地にもたらしてくれました。それは、尾中栄作君の南米剣道大会での優勝の知らせです。この快挙は彼の素質にもよるでしょうが、彼は日頃、農作業に従事しながら、僅かな時間を稽古相手のいないこの地で黙々と剣の修練を積んだことが、このような成績を残したのだと思います。それと共に、この地の自然が彼の修行に大きな力となったことは確かだと思っています。
先便で日本文化の剣道が桜の花のように花を咲かせるだろうと記しましたら、もう、その若木花を咲かせはじめたのです。嬉しいことです。

 もう一つ嬉しい話をお聞かせしましょう。それは8月初旬でしたが、この森の中の日系人会館で、二人の剣士の結婚式が剣道仲間の祝福を受け行われました。花婿はサンパウロの剣道界でその名を知られる戸井田家の長男の健寿君で、花嫁はラーモス生まれの剣士で銀行員の宇賀持(うがじ)ミエさん。サンパウロはじめ各地から、そして日本からも駆けつけ、500人にも及ぶ盛大な結婚式でした。
何故、二人はこのラーモスの森を人生の出発点に選んだのでしょうか?私はこんな風に思うのです。この森は彼等剣道仲間の「心のふる里」、そうした雰囲気がある所がこのラーモスなのです。
次回は、気候もよくなりましたので、この近辺の観光でもお知らせしましょう。
(サンパウロ新聞 2007年10月30日)


(5)トレーゼ・チリアスに遊んで

初夏の爽やかな風が吹き、今ここは百花繚乱という言葉がぴったりする景色が現れています。遠くに広がる野山から、歩く道脇から、赤、白、黄、桃色とさまざまの花が咲き急いでいるのが覗かれ、明るい太陽に輝く様を見ると、まさに桃源郷。雨の日には、またアジサイの花の色がしっとりとした風情を漂わせています。
昔は日系の移住地には花が少ないといわれ、外国系の移住者の宅地が華やかな花壇に囲まれていたことを思うと,この頃の人々の意識が変わったのか、開拓当初の心のゆとりのなかった頃に比べ、このように花を植えて愛でる気持ちが出てきたことは嬉しいことです。数年後、いや年ごとにここは花に包まれた里に変わっていくなあと思っております。

今、明るい青空の広がる昼下がり、裏の杉木立から小鳥の雛の鳴き声がピーピーと聞こえ、その声はこの静かな田園にふさわしい音楽です。
目の前には十数ヘクタールにわたるアーリョ(ニンニク)畑が青々とその葉をなびかせており、遠くの畑では灌水作業か、水煙が上がっています。作物が成長していく姿も、このように見渡す限り整った形で目の前に現れると、気持ちの躍動を覚えてきます。もう収穫が始まるでしょう。そんな気持ちのよい一日、ここから200キロメートルほど少し南に行ったところにあるオーストリアはチロル地方の人々が移住した『トレーゼ・チリアス』に遊んできました。

ここも花、花、花の楽園。アルペン式の建物がその花の中に建ち、まるでオトギ話の中から飛び出して来たような町です。昼食には自家製黒ビールのショップ、そしてホテルのロビーで開かれたチロル地方の牧童たちのダンスにはアルプスの少女を思わす健康で、はちきれそうな娘たちが登場。牧童姿の少年たちの輪の中で楽しく踊らせてもらいました。
私が非常に印象に残ったのは、そうした自然の中で生きている人々には本当の美しさがあるなあということです。
ここは酪農が主産業で1933年町が設立され、その後、大変苦労の末、今のような観光事業も行うようになりました。5,700人ばかりの住民ながら、町には彫刻家のアトリエとか、温泉、遊園地等の観光施設が建ち、わざわざヨーロッパまで出かけなくとも、ここに来ればオーストリアのチロル地方の雰囲気が充分に味わえるのではないかと思いました。主な催しは十月に行われるそうです。
どうですか?こんな童話のような町を訪れてみませんか。
(サンパウロ新聞 2007年12月1日)


(6)観光州サンタ・カタリーナ

夏になって暑さがやってきました。この地は海抜800メートルの高原ですので、空気が澄んでいる故か、太陽光線が強く、日中は麦わら帽子が必需品です。それでも木陰に入るとなんと涼しいことか。あの白い花をいっぱい咲かせた山桜の木も緑におおわれ、小鳥たちが暑さをしのぐようにして、その葉陰の枝に競うようにして止まりピーピーと泣き止まない。よく見ると葉にかくれるようにして赤い実がいっぱいなっている。小鳥たちはその実をつつきながらさえずっているのです。
実の果肉を鳥たちが食べ、残った白い種が地上に落ちて発芽するということは自然の摂理なのでしょう。これをみてもこの山桜はこの土地に適しているのでしょう。ですからこの山桜がこの土地一帯に咲く乱れる景観は州の観光の目玉になるかも知れませんね。

今、この州は十年ほど前から観光行政に力を入れ始めております。小さい州ながら年間4シーズンある気候はブラジルには珍しく、冬には雪が見られ、夏は紺碧の太西洋の海と白砂の海浜、そして様々な入り江に大小の島々、春、秋には自然の醸し出す野山の異なった色彩が美しく、こうした土地に欧州からの移民は、競ってそれぞれの国の文化を持ち込んで町造りをしたので、各種各様の特色ある町が出現、お祭りや催し物は各国の民族衣装も華やかに一年中どこかでとり行われており、それは見事で楽しいところです。

トレーゼ・チリアスの旅の帰りに寄ったフライ・ブルゴも、途中ブドーの産地として有名なヴィデエイラ・タンガラーのイタリア系移民の町を過ぎたところにある、フランスのアルザス地方の移民によって造られた町で最初はレナー一家によって材木事業から始めた町ですが、われわれの移住地と時を同じくして、リンゴの生産を始め、近年は国内の7つの大企業が5万ヘクタールの土地にリンゴの木を植えてリンゴ生産を始め、今では国内生産の45%のリンゴを作り出し、リンゴの首都の名を欲しいままにしております。

ここには毎年10万人の観光客が訪れており、ヨーロッパ風の木造りの落ち着いた雰囲気のあるホテルは国内外から都塵を逃れて憩う人々で一年中賑わうそうです。
昔、私たちがブラジルに着いた50年前には、リンゴはアルゼンチンからの輸入品だけでした。あのデリシャス系のカスカスしたリンゴを食べて、日本のリンゴの味を懐かしがったことが,ウソのような話です。

移住地に帰ってきましたら入り口の川にかかった大きな橋が完成しておりました。完成式典は10月19日に行われるそうで、その橋の名はずばり「SAKURA橋」決まりました。数年後には橋の両岸は桜の花で埋まることでしょう。
(サンパウロ新聞 2008年1月8日)


(7)年明けの移住地

年が改まり何かよいニュースが飛び込んでくるのではないかと思っていましたら、この地の郵便局でこのような切手が発売になりました。前回記しました尾中栄作君の全米剣道大会二連覇がかなり高く評価され、この地の宣伝になったと思います。桜を背景に剣を構えた姿が、左側のブラジル国旗の切手と一対となり、日本文化がブラジルの中で芽生えているという構図なのでしょう。

二つ目のニュースは近年噂されていた連邦大学がクリチーバ市にできるという話が本決まりとなり、その建設工事が始まりました。この大学はこの州ではフロリアノポリスにある連邦大学に次ぐもので、こうした大学ができるということで、この町に隣接する私たち移住地もベッドタウン的色合いが濃くなり、この豊かな自然環境に高度な文化的風が吹き込んでくること必定です。
この移住地の観光元年の幕開けが、より文化的、健康的なものになって開けていくと思っています。

いよいよ、この地の夏も本番に入り、見上げる青空の美しいこと、そして流れる白雲が印象的です。先日、日本からここを訪れた青年が、「空ってこんなに青いのですか!」と言った言葉が頭から離れません。
今、夕方の6時近い。近頃は毎日のようにこのころになると空模様があやしくなり、入道雲が見る間に大きくなると雷の音が遠くから近づいてくる。雲の色合いが変わり、不気味な黒い雲がおおい始める、とみる間に大粒の水滴が暑さにしぼんだ草木に襲いかかる。一瞬のうちに周囲は暗くなり、雷に稲妻、ただただ雨のしぶきだけが窓をたたく。
ひととき、にわかに静かになり小鳥さえずりが聞こえ始め、目の前に一条の光が射してきました。それは向こうの丘に今まさに沈もうとしている夕日の投げかけた残照なのです。暑かった夏の一日でしたが今木立の間から吹いてくる涼しい風のなんと気持ちのよいことか、小鳥たちのさえずりも一段と冴えてきました。このような情景が当地の夏の姿です。

このような夏の真っ盛りに年明けを迎えるというのは私たち日本生まれにはどうもピンと来ないものがありますが、そこは私たちの郷愁が日本的元日を迎えさせてくれます。
元日の朝、森の中の会館に足を運ぶと、入り口には緑の色が初々しく輝く松と竹でできた二基の門松が並び、中に入れば正面の垂れ幕の上に白紙に本多さん(コチア青年第一期生)の揮毫による墨痕あざやかな「恭賀」の二文字に「朝焼けの東(ひんがし)の空 初拝(はつおがみ)」の句が添えられて飾られており、会場は質素でありながら元旦の華やかさが匂い立ち、私たちふるさと日本のよき時代の正月を思い起こさせるのに充分な雰囲気でした。そこで両国国家と「年の始め」の歌を歌って、ああ年が明けたのだなあと実感したのでした。
会場ではあちら、こちら「明けましておめでとうございます」「Feliz Ano Novo」のあいさつが飛び交い、いやが上にも正月らしい雰囲気となり、どこからかペタンコ、ペタンコと餅つきの音もしてきておりました。
次回は当地の特産品Alho(にんにく)の話を書きたいと思っています。今年はAlhoの大豊作で各農家の庭先には平均50トン近いAlhoが干されており、壮観であり、気持ちが豊かになってきております。
(サンパウロ新聞 2008年2月5日)


(8)ラーモス移住地とAlho(アーリョ :ニンニク)

二月の声を聞きますと急に秋めいてくるというのがこの地方の気候の特徴なのかも知れません。一月末フロリアノポリスの夏の海を満喫して帰る途中、イタジャイー渓谷の道を車は右に左に現われる川を見ながら上へ上へと走り、いよいよ高原地帯にさしかかったなと思ったら、その街道の脇にススキの群生が銀色に光る穂を、まだ垂れ下がるには少し間のある風情で連なり始めておりました。

急に現われたそのススキの群れに「ああ、秋か」と」思わずつぶやきが出てきました。ちょうどその時、かなり暗くなった窓外右側の山の峰から月の光がさし始め、その風にゆらいだススキの穂の光るさまは、正に幽玄の境に入るような気持ちでした。
今年のカルナバルは二月の初めですから、これで今年のブラジルの日程も早く始まるようで、この移住地の農作業もリンゴ、モモ、スモモ、ナシなどの果実の収穫に続き、Alhoの切り取り作業から箱詰めが忙しく行われはじめております。今期のAlhoは大豊作でした。
このAlhoというのが、この地の特産物であることはご存じでしたか? 50年も昔はAlhoはアルゼンチンからの輸入品でまかなわれていたのです。この地には自生の貧弱なAlhoしかなかったのです。それに目をつけたのが戦後移民として着伯間がない長南、神保、門脇の三青年(当時)で、彼ら(Alhoの三羽カラスと呼ばれている)によってこのAlhoの品種改良、栽培研究が行われ、数年の努力の末、世界最良の新品種を作り出し、「長南種」の誕生となったのです。その後改良が続けられ、今日のような立派なAlhoが作り出されたのです。このように当地のAlhoがブラジル農業に貢献大なるものがあり、日本人移民百年の歴史の中でも特筆されるべきものがあると、私は思いますが、どうでしょうか。

このAlhoの栽培を今や自然農法(有機栽培)で行うという試みが二年前からJATAKから派遣されてきた長井農業技師の提唱で熱心に行われ、健康ブームの時代の流れの中で、当地の若者10人ほどのグループが賛同、積極的に自然農法の肥料(ボカシ)づくり、消毒用の木酢(モクサク)づくり、が行われ、生産にのぞみ、その結果は豊作につながったのです。ヘクタール当たり平均14~15トンの収穫は大したもので、各農家の庭先に大体50トンくらいのAlhoが干されて吊るされているさまを見ると、なんといっても気持ちが豊かになってきます。昔Alhoを作り始めた頃はヘクタール当たり、7~8トンとれれば上出来だったのですから、各段の技術の進歩と言わねばなりません。中には18トン以上もとった人もいると聞いていますが、このようなところに、日系人の研究熱心さ、勤勉さと共に、この変化する時代をとらえてそれに対応した農業を営む姿は、さすがだと思うのです。

有機栽培への方向転換、農作物を作る人にとって、今までの生産のやり方を変えるということは、理論上は分かっていても、この広大な土地の上で実際に行うとなると不安はともなうものです。そうしたことを当地にあって、その生育の状態を目の前に見ていた私は強く感じました。その生産者の一人が雨の日も、風の日も、毎日畠を回ってAlhoの生育の状況を注視していたことを書き添えねばならないのです。そしてもう収穫間際の頃でした。気象は急に雨つづきとなり、畠の一部に葉の黄色に変わる異常のAlhoの一群が出した時は、一瞬私までが肝を冷やしましたが、天佑か天候は晴れ上がり、収穫へと漕ぎつけたのです。

このようなことを見るにつけ、生産者の苦労というか心労は大変なものです。ですから今期の大豊作は生産者の努力もさることながら、その努力が天に通じたのではないかと、私はみております。このように当地で自然農法が盛んになり、土地が活性化されることでAlhoばかりでなく、すべての農作物がその恩恵をこうむり、ひいてはそれが人々の健康に寄与できることとなり、こんな嬉しいことはありません。
このようなことからラーモス移住地が「健康の里」として観光の道を歩み始めることを期待しているのです。
(サンパウロ新聞 2008年3月15日)


(9)移住地の出稼ぎ事情 

月の美しい夜がやってきました。日中はまだむせるような暑さが残っていて、それが、夕方、急に涼しくなって、陽が沈むと冷気があたり一面を掩うようになる。夜半近く、ふと、窓外の明るさに気がついて外に出れば裏の杉木立の上に、まん丸な月が顔を出している。草木、全てがその光にひれ伏しているようだ。
静かな静かな、それでいて虫の鳴き声だけが時に低く、時に高く、その光に和するかのうように、かぎりなく、いつまでも鳴いている。「秋だなー」とつぶやきの声をもらす。

今回は移住地の人達の出稼ぎのことについて少し触れてみたいと思います。出稼ぎが始まって約25年になりましょうか。戦後の日本からの移住が終わろうとしていた1985年からボツボツ、その傾向が見られ、それから5、6年して、ここでもその流れは本格化したと思います。
このブラジルから日本への移住の逆現象は当時のブラジルの深刻な経済事情(超インフレとブラジル貨幣の価値下落)がもたらしたものですが、当移住地はそうした経済事情の上に、中国から多量の安いアーリョが輸入されて、その値が暴落、また、コチア、南伯両組合の倒産がそれに輪をかけ、当地の日系農家の経営が全くたちゆかなくなった時に救いの神として日本へ出稼ぎが始まったようです。ですから出稼ぎの当初は男の働き手が一人、日本に2、3年行き、稼いできて当座をしのぐという形で始まったものが、当地の農業経営の難しさが続く中で、妻が行き、息子達が続くという風に次々とそのい甘い汁に寄せられるようにして、日本へ日本へと吸い寄せられていったのです。

農業を営んでいる人達の一番の魅力は日本においてする労働において月々決まった額の収入があり、その金額を2,3年きっちり貯めれば、当時の為替事情から家の一軒を新築したり、トラトールが一台購入できたようですから、そうした自分の希望が叶えられるところに魅力があったわけです。ですから当初の出稼ぎの人達は一つの目標を作り、それを達成して元の生活に戻った訳ですが、この何年かに世の中の事情も変わり、出稼ぎ期間も長くなれば色々と問題が複雑になってきているのです。

例えば、ここで営農している人が5年間出稼ぎに行った場合、この5年間という間に栽培方法は大きく変わるし、第一、本人の営農に対する勘を取り戻すだけでも大変なことだと思います。気持ちの上で、駄目だったらもう一度、日本に出稼ぎに行ったらよいと言う逃げ場があることが、大きな障害ではないかと思います。人夫々に生き方があり、この出稼ぎをうまく利用した人もありますし、これによって家庭崩壊という人生を辿った人もいるようです。

今、ブラジル経済は少しずつ好転しているようで、そうした影響は当地の営農面でも現われてきていますが、いずれにしてもこの出稼ぎ現象が止み、農民は土を愛し、土に生きる日が一日でも早く訪れることを願ってやみません。当地は今、秋たけなわ、主要農産物のアーリョは箱詰めから出荷へ、リンゴ、ナシ、モモ、スモモ等の果物類の収穫も大豊作でした。今年はブラジル中に果物が氾濫しているようで、当地の今後の研究課題は販売ルートの確立ではないかと頭を悩ましているところです。

この州における日本文化の発信地として位置づけられた八角堂は、7月開館の予定です。3月10日、日本から劇団「荒馬座」が当地を訪問、大太鼓の音を響かせてくれました。それはあたかも八角堂の前途を祝福したようで、そのうち、八角堂からも太鼓の音色が響き渡ることと思います。
(サンパウロ新聞 2008年4月5日)

 

(10)移住地の鎮守の森構想  

 秋の夜空は、星がまた美しく輝く。降るようなその星空を眺め、そして、その翌朝、朝霧にぬれた土道を行けば、昨夜輝いていた沢山の星が地上に降りてきたかのように無数の可憐な野花が草むらの朝霧の中から顔を出している。ふと、ミーリョ畑に目をやれば、路傍からはみ出した朝顔のつるが、ミーリョの茎に巻きついて紫色、紅色の二色の花を咲かせながら、戯れているようだ。間近に迫った冬の厳しさを前に、その美を競うようで、あの真夏のころに咲いた大ぶりで華やかな花に比べて、この可憐で、楚々とした花々を見ていると、ひとしお、いとおしさが感じられる。
このような風景は、50年前の開拓当初には見られなかったはずです。この地もブラジル国内の他の開拓地と同様に原始林の大木が繁茂し、その木を切り倒し、原野を焼き、開かれた土地を少しづつ開墾し、種をまき、生きるための食糧を確保して、生きてきており、今でこそ平和な静かな里ですが、その開拓当初からつい最近まで、色々の人身事故、自然災害と言った不測の事故が相次いで起こった所なのです。
現在、日本人会の施設八角堂も出来、道も整備され、村の生活は一応安定の道を歩み始めたというところで、八角堂の裏手マロンバス川に沿うようにして広がる20ヘクタール余の自然林を「鎮守の森」にしようとする発想がこの地に出てきたことは、自然の成り行きと思うのです。
「鎮守の森」と言えば、私たちにはあの小学唱歌「村の鎮守の神様の…」の歌と共に笛や太鼓の音が響いてくるようですね。それでは、このような森がどうして出来たかと言いますと、話は日本に飛びますが、日本の国もまた、大昔から土地を拓き、食料を確保して生きてきたのであり、農耕民族としての昔の日本人の土地に対する考えは、自然との共存を考えていたのですから、そうした人々の自然畏敬からくる宗教感と知恵とが、「自然の神が、この拓かれた土地を守り鎮めて下さる」という「鎮守の森」を日本各地に作り出したのである。
このようなこと考えておりましたら、宮脇昭さんと言う人の著わした「鎮守の森」という本を貸してくださる人があり、あその本の中で著者は「TINJU NO MORI」という用語は国際生態学ではすでに国際用語となっており、このような森がいまや、世界各地に作り出されていることが記されており、目が開かれる思いがしていることころです。宮脇さんは、すでに中国の万里の長城の両側に40万本以上の植樹をされて森を作り、また日本でもショッピングセンターの周りに植樹、それを現代の「鎮守の森」にしたり、色々の工場の周りに植樹して森林をつくり、地球の環境改善に努力されている方です。その宮脇さんが次のような言葉を言っている。「人間は見えるものだけを見て進歩していると思ってきた生き方から、もう一度見えないものを見る努力をすべきではないか。
「鎮守の森」の構想が実現し、移住地の人はもとより、この地を訪れる人々が、この自然林の中で敬虔な気持ちになって自然に感謝し、人間性に目覚め、精神的な充実感を味わうことができればどんなによいでしょうか。そして、こうした大昔の日本人の知恵の一つ「鎮守の森」がこの地球の反対側のブラジルで花開けば、移住した私達はここに来た甲斐もあると言うものです。
『柿熟れて 鳥なく空の 青さかな』。
(サンパウロ新聞 2008年5月6日)


(11)紅葉の里ラーモス移住地(ラーモス便り最終便)

朝6時、外に出ると霧が濃く、なにか雲の中の散歩ってこんな感じなのかなぁと思う。このように、濃い朝の霧があるときは、日中の晴天が約束されているようです。それにしても空気は冷たく、今年は昨年より一段と寒さが厳しいようだ。農道を過ぎた舗装道の分岐点のところで渓流のせせらぎが聞こえてきた。霧は幾分薄めになる。そのとき、道の両側に真っ赤に燃えるような「紅葉」が列をなしているのを見る。この「紅葉」の景観は春の桜の華やかさに比べて何と形容してよいのだろうか。真っ赤に燃え立つようなものもあれば紅色から黒ずんでいくものもあり、目の前でその色合いが移っていくような気がする。その脇にみずみずしい緑色から始まってもえぎ色、黄色、薄紅、赤と、木の下から燃え立つような感じの木がまさに紅葉の王者といった風格で立っている。それが今、朝の光を浴びて輝いた時、恰も、日本の昔の王朝絵巻に見られる金色の屏風に描かれた様々の「紅葉」の葉の姿をそこに見て、一瞬、身の震えるほどの感動に「あっ」と絶句。次の瞬間「美しい」と大空に向かって叫んだのでした。この風景は私達の故郷日本にひけを取らない景色でしょう。移住して40年、この土地は日本の心が染み出てくるような土地に変わりつつあるようです
先日、空軍大将の斎藤さんがぶらりとお見えになりました。彼はポルト・アレグレ在任中からこの地を知り、この移住地に惹かれるものがあったようです。それは彼の肉体に流れている日本人の血がそうさせていると思うのです。接待した茶の湯から剣道の型、子供たちの日本舞踊をごらんになり、最後に餅つきをしましたら、幼い日を思い出したのでしょうか、奥様へそれをそっと包んでお土産に持って帰られました。
そのような仕種を見て、軍人という謹厳・無骨なイメージの中に、ほのぼのとした心の温かさを知り、そこに、私は日本の武士道の残香をふとかいだような気になったのです。「最も愛あるものは、最も勇敢である」という武士道。それは日本人の魂であり心なのです。私はこうした雰囲気が、この移住地にかもし出されているような気がしてなりません。
私たち日本人がこの地に移住して日本の心を芽生えさせることによって、この州の他国の移住地に芽生えた夫々の心と融合、この自然の中で新しい魂が息吹きだすことによって、新しいブラジルの心が生まれてくるのではないか、もう移住の開拓時代は終わり、この拓かれた大地から新時代の魂が生まれてくる。そこに私は、このブラジルに移住した意義を見出したいと思うのです。一年は早いもので、毎月一信をしたため、12信記してみました。少しでもこの移住地の雰囲気がおわかりになったでしょうか?。7月には八角堂もイナウグラソンし、この移住地も新しい時代に突入といったところです。
(サンパウロ新聞 2008年6月10日)

 


    

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