【ニッポン歴史探訪】百万都市 江戸

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 家康が徳川幕府を開いた17世紀始め、「江戸城」(以下、「城」という)近くの日比谷には入江がくい込み、日本橋・京橋の先には低湿地が広がっていました。そこで、お茶の水近くの「神田山」(後の「駿河台」)の土で入江や低湿地を埋め立てました。今でも残る「築地(つきじ)」という地名はその名残(なごり)です。埋立ては、1657年の明暦の大火の後、隅田川東岸の本所・深川地域にも進みました。土だけでなく、その頃江戸で大量に出てきたゴミも、船で運ばれ、埋立てに使われました。このようにして江戸の町はますます広がって行きました。

 ところで、幕府は「城」の西側の麹町(こうじまち)・番町(ばんちょう)に将軍直属の家来(けらい)である旗本(はたもと)・ご家人(ごけにん)を住まわせ西の守りを固め、参勤交代(さんきんこうたい)の制度(1635年~)で、大名たちが江戸に1年間住むことを義務付けられると、大名たちの屋敷が「城」を囲むように配置されました。こうして武家屋敷が江戸の70%を占めるまでになりました。なお、大名たちが幕府から借り受けた屋敷のうち「城」に近い「上屋敷(かみ・やしき)」に大名とその奥方・家族が住み、「城」から離れている「中屋敷(なか・やしき)」には隠居(いんきょ)と世継ぎ(よつぎ)が住むのが普通でした。また、郊外にある「下屋敷(しも・やしき)」などは別荘ほかに使いました。 

 ついでですが、幕府は、人質(ひとじち)にした大名奥方の動きに特に目を光らせ、無断で江戸を離れることを禁じました。他に鉄砲が江戸に入ることも警戒しました。つまり、幕府は箱根の関所などで「入鉄砲(いりでっぽう)出女(でおんな)」に気を付けたのです。このようにして、大名の反乱を防いだのです。

 次に、「城」の東側に目を転ずると、日本橋辺りに伊勢(いせ。いまの三重県)とか近江(おうみ。琵琶湖畔)の商人を集め、大店(おおだな)が軒を並べる繁華街が生まれました。また、日本橋北詰めの河岸(かし)には、魚市場ができ、「江戸っ子」(えどっこ。江戸で生まれ、育った者)の胃袋を満たしたのです。神田辺りには、職人を集め、職人たちに「江戸っ子」のための生活必需品を供給させました。

 このようにして、18世紀に入った元禄時代には、沢山の町があることを強調して「大江戸八百八町(おおえどはっぴゃくやちょう)」と言われる大都市江戸が出来上がりました。人口100万人(町人 約50万人、武家 約50万人)を抱える世界に冠たる大都市でした。
参考:徹底図解 江戸時代 新星出版社    以上 黒瀬記

 

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