【ニッポン歴史探訪】蝦夷(エミシ)との戦い その1

 (写真 震災前に写した多賀城)

 お断り:公式的戦果発表のいい加減さは、近くは太平洋戦争中の大本営発表の例などから、我々もよく承知しています。古の蝦夷との戦いの頃となれば、将軍に口裏を合わせて、負け戦も大変な勝ち戦にすりかわり、不都合なことには蓋をするなどは当たり前だったようです。そこで、本稿では、史実の真偽は厳密に問わず(おそらく高橋さんの卓越した想像力の結実も混在しているでしょう)、高橋克彦さんの著書「火怨 上下」(講談社)に拠って、朝廷と蝦夷との戦いの概略の流れを紹介することにしました。アテルイと坂上田村麻呂との人間交流、男女のロマンスなどの詳しくは「火怨 上下」をお読みになってお楽しみください。(黒瀬)



 大化の改新(645年)の頃から朝廷で蝦夷問題が生じてきました。653年頃までに、坂東諸国に加えて現福島県域中心に「道奥国(みちのおくのくに)」として陸奥(むつ)国が生まれました。更に、7世紀後半から8世紀初めにかけ、現仙台市郡山(こおりやま)遺跡の地に国府が置かれました。724年には新しく造営された多賀城(38.3069533 , 140.9885359 )に国府が移され、併せて鎮守府が設置されました。それは蝦夷を服属させ貢物を納めさせることが目的でした。北上川沿いに桃生城(ものうじょう 38.5309411 , 141.2793356 )、内陸部に伊治城(これはるじょう 38.7599147 , 141.0266769 )を造営し、北への支配域を広げるにつれ蝦夷との衝突が増加してきました。

 桃生城の近くで金が産出し、朝廷が陸奥国小田郡(おだぐん 現石巻市北部)の完全支配を図ったことが事態を悪化させました。遂に、774年、蝦夷が反乱を起こし桃生城に攻め入りました。
 もっとも、朝廷も蝦夷であっても有能な者は位の高い役人に取り立てていました。鮮麻呂(アザマロ)はそんな人物の一人で、伊治城を朝廷から任されています。「夷を以て夷を制す」として、うまく朝廷に利用されていたのかも知れません。
 こんな鮮麻呂 でさえ、”蝦夷を人間として扱わない朝廷や都人”の蔑みの眼差しを受けて朝廷側で仕事を続けることに我慢ができなくなり、陸奥按察使(あぜち)・紀広純(きのひろずみ)と牡鹿郡司・道嶋大楯(みちしまのおおたて)の首をとって、蝦夷の大義を貫くことを決意します。そこで、780年3月、鮮麻呂 は、胆沢(いさわ)の長(おさ)・阿久斗 (アクト)の息子アテルイに白羽の矢を立てます。彼の頼みとは、「3月22日夜、広純と大楯が僅かの護衛を連れて伊治城に来るから、護衛を城外に誘い出し、城内を手薄にしてくれ。その間に、自分が二人の首をとる。アテルイには是非ばらばらの蝦夷を一本化して、朝廷に蝦夷の尊厳を認めさせる戦いを挑んでもらいたい」というものでした。
 アテルイは、鮮麻呂の密謀を多賀城に密告しようとしたアクト側臣・ヒラテを翻意させ逆に自分の忠臣にした上で、これを機に生涯の仲間となる黒石のモレ(知恵袋。作戦面でアテルイを助ける)と一緒に伊治城に出かけます。アテルイたちは、鮮麻呂から与えられた使命を見事果たします。 鮮麻呂は、朝廷に自首するため、そのまま京に上ります。

 伊治城事件一週間後、東和の物部の館で、鮮麻呂の意を受けた物部二風(注)が主だった蝦夷の長(アテルイ、モレ のほか、志和の阿奴志己(アヌシコ)、気仙の八十嶋(ヤソシマ)、和賀の諸絞(モロシマ)、稗貫(ひえぬき)の乙代(オトシロ)たちを集めて、話し合いを開きました。そして、1)蝦夷の兵団 とりあえず2,000~2,500人を作る。兵団は、アテルイが纏める。多久麻(タクマ)以下の 伊治の兵は胆沢に所属する 2)本拠を東和に置く。3)住まいと食事は物部で用意する 4)鎧、武器、馬(2000頭)も物部で用意する 5)東和の金成(かなり)山の辺りで人馬を育成する、などを決めました。
 780年6月末、名取の柵(き)で新しい征東将軍の藤原継縄(つぐただ)たちが話し合っています。多賀城焼き討ち(城を逃げだした味方の仕業かも?)に刺激され出羽の蝦夷も騒ぎを起こし、頭を痛めています。お帝(かみ)からは一刻も早くアテルイ軍を征伐するよう矢の催告です。しかし、副将軍たちは、秋まで待つほかないと考えています。

 他方、アテルイ側は、人馬の育成、砦造りに時間が必要で戦を翌年に持ち越したい気持ちです。そこで実戦演習を兼ねて、南郷に陣を張る副将軍を脅かし、多賀城の兵士を南郷に誘い出し、その隙に再建中の多賀城を焼き討ちしました。まもなく、征東将軍の藤原継縄は解任されます。これで戦は翌年まで延期できたようです。 
 781年3月、アテルイ側では、朝廷軍が胆沢方面を目指すとき、日高見川(ひたかみがわ 北上川の旧称)を遡上する軍団と伊治城を経由して山越えする軍団の連動策をとると予想し、先ず食糧運搬隊を伴う山越えする大軍に奇襲策で対応することにしました。敵の騎馬兵2,500に、同数の騎馬兵を当てるには、予め敵地に多数の馬を隠しておかねばなりません。伊治城に近い鬼切部(おにきりべ)に馬2,500頭を隠し、決戦地を伊治城北方の山麓にある原っぱと決め、合図を待っています。5月下旬、自軍の騎馬兵を先攻おとり役500と後攻2,000に分け、草むらに弓隊を潜ませています。新将軍・藤原小黒麻呂(おぐろまろ)率いる朝廷軍が原っぱに現れます。手筈どおり、弓隊500の一斉攻撃で戦闘開始です。次に先攻騎馬兵が敵の騎馬兵を誘い出し、自軍弓隊が草むらの中から矢を射かけます。敵の騎馬本隊が前面に出てきたら、後攻騎馬隊にバトンタッチです。その結果、敵の騎馬隊に大きな打撃を与えました。朝廷軍は多量の食糧を残して、逃げるほかありませんでした。残された食糧はすべてアテルイ軍により焼却処分されました。

 次に、アテルイたちは朝廷側の舟隊5,000の動きを調べに出かけます。現一関市東方にある川崎の砦の手前で朝廷側先着隊が夜明けを舟の上で待っていました。戦利品を見せて朝廷本隊が撤退し、このままでは食糧補給も受けられないことを説明すると舟隊はそのまま引き返してゆきました。アテルイが望む無用の戦が避けられました。こうして、アテルイ軍 4,000は朝廷軍25,000に奇跡的な勝利をあげたのです。

(注)物部二風(もののべにふう)
  蘇我氏により都を追放された物部氏の子孫。せがれが物部天鈴(てんれい)。陸奥を本拠として、特産品、馬、採掘した黄金などを都に運び財をなしています。アテルイ、モレもはじめは物部の真意を測りかねていましたが、彼等の蝦夷を援護する姿勢に信頼をおきます。 (つづく)黒瀬記(2011/09/08)

参考 高橋克彦「火怨 上・下」(講談社)
     岩手県の歴史

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