【ニッポン歴史探訪】蝦夷(エミシ)との戦い(793~794年) その3


( 写真は、中尊寺参道から眺め渡した衣川と北上川合流点近くの風景。写真右上の山塊が束稲山・東岳に
 連なっている)

  793年春、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征東副将軍として多賀城に入りました。征東将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)との打ち合わせが目的です。
  蝦夷側も10万の朝廷軍への備えを始めます。蝦夷側の悩みは厭戦気分から離脱する
仲間が増えていることです。しかし、まだ15,000は動員できます。堅牢な30の砦を山深い場所に造り籠城する策を決めました。砦の場所は、モレの発案で、敵が本陣にする衣川の、北上川を挟む反対にある束稲 山 (たばしねやま 39.0126483 , 141.1838436 )・東岳となりました。気仙に通ずる道も確保し、いつでも封鎖できます。水は近くの滝から引いてきます。梅雨の中、約500人単位の兵たちが交替しながら自分たちが護る砦を自分たちの手で造っていった結果、夏に入る頃には全部の砦の陣容が形になってきました。冬までに準備は終わりそうです。 

 動きの取れぬ冬は都に戻っていた 大伴弟麻呂と 坂上田村麻呂が、794年の新年早々、
正式な蝦夷討伐の勅命を受け6万(蝦夷を知らない都以南の兵団)を率いて多賀城に到着します。他に、坂東・出羽から集めた3万と多賀城や桃生城を守備する1万がおり総勢
10万の大軍です。
 794年3月中旬、実戦部隊の総指揮官・田村麻呂がとりあえず6万を連れて衣川に本陣を設けました。翌日北上川に舟を並べ、馬が駆け抜けられる橋を架けさせます。将軍・弟麻呂が残り4万を連れてきたら、3万を向こう岸に移し、田村麻呂はそこから指揮をとるつもりです。田村麻呂は、まず使者を送り投降を打診します。しかし、勝ち戦さを続ける蝦夷側は、和議なら話は別だが、投降とはとんでもないと拒絶します。
 半月後、4万を従えて 大伴弟麻呂は完成直後の衣川本陣
(39.0078464 , 141.0912752  )に入りました。「この半月でやったことは、本陣を建てたのと、偵察ばかりとはなにごとだ」と弟麻呂は田村麻呂を叱りつけます。投降の呼びかけも、弟麻呂に相談無しで行ってけしからんと、副将軍・俊哲からも責められます。弟麻呂は、翌朝、焼き討ちしながら東和まで兵を進めることなどを決め、それに慎重論を唱える田村麻呂を軍議から外します。指揮は、田村麻呂に代わって、俊哲がとることになります。

  真夜中、アテルイは田村麻呂の使いから焼き討ちを知らされます。すぐモレたちと相談の上、川の東側の敵陣を500の騎馬隊で奇襲して、敵陣に火を点けさせました。そのため、翌朝、胆沢や江刺から民の姿が消えても、奇襲の報復を恐れて里を捨てたのだと朝廷軍は思いました。奇襲騎馬隊は20人ほどの負傷者を出しただけで、馬を150頭ほど分捕って帰ってきました。
 朝廷軍2万の焼き討ちには砦に立て籠もる蝦夷軍はいっさい手をだしません。砦を攻めるほかないと朝廷軍に思わせるためです。裏手の砦をわざと手薄にして攻撃を誘います。

 半月が経った4月中旬(新暦の5月20日前後)、朝廷軍に動きがあります。手薄の裏手の砦を朝廷奇襲兵300が昼頃攻撃するのに呼応して、5万の大軍で正面から束稲山を目標に攻撃する構えです。大軍が束稲山を囲むように突入を始めます。正面に聳える第1の砦にその攻撃を命じられた6千が向かいます。他はその上の砦を目指して山道を駆け上ります。やがて兵の動きが止まります。岩で山道が塞がれているためです。そこに頭上から矢が降ってきます。崖に取りすがり、盾で身を守りながら急斜面を登りやっと草地に兵が達します。ところが、400そこらの兵が集まったころに、急斜面を太い丸太が何十本となく草地に転がり込んで、兵らの絶叫が広がりました。このような罠が20箇所ほど設けられ、気付けば山深く踏み込み、戻るに戻れなくなっていました。山を知り尽くした蝦夷軍は馬を駆っていつも先回りするので歩兵では追いかけることは無理です。他方、手薄の裏手の砦を奇襲した300の兵は、罠に気付いた指揮官の命令で大部分は散り散りに逃げ、指揮官とその護衛たちは捕虜となります。また、東岳の麓近くで朝廷軍本陣を窺っている伊佐西古率いる蝦夷騎馬兵200騎がいます。朝廷側本陣を守る兵は千人にも足りません。蝦夷騎馬兵は、本陣を襲い、副将軍たちを十分威嚇して引揚げました。これが朝廷軍に変化をもたらしました。攻撃を中止して引揚げよとの命令がでたのです。朝廷軍は敗走の形で衣川の陣へ戻りました。温存している5万の兵士を繰り出し翌日も攻撃しようと言う副将軍もおりましたが、将軍弟麻呂は、謹慎を解いた田村麻呂の意見も聞いて罠に護られた砦攻撃を中止させました。
すぐ梅雨となり、蝦夷軍は砦から出てくる気配はありません。794年6月上旬、ついに朝廷軍は衣川の陣を畳(たた)みました。
 蝦夷軍は、兵力15,000 うち死者 600~1,000人 砦は全て無事でした。これに対して朝廷軍は兵力 5万 うち死者 12,000人。しかし、平安京遷都の祝いとして、将軍大伴弟麻呂は朝廷に勝利報告をだしました。(つづく)黒瀬記(2011/09/27)

参考 高橋克彦「火怨 上・下」(講談社)
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