【ニッポン歴史探訪】蝦夷(エミシ)との戦い(796~802年)その4

 796年 坂上田村麻呂は、陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して多賀城にいます。前代未聞の権限の集中です。朝廷の田村麻呂への高い信頼のあらわれです。
 3月末 鹿角(かづの)で物部天鈴の仲立ちにより、田村麻呂とアテルイ、モレ、伊佐西古たちとの話し合いが行われました。 物部の館は東和からここ 鹿角 に移っていました。 田村麻呂は、例のように、いま恭順すれば咎めなく収められるかも知れぬと必死に訴えます。蝦夷の気持ちが分かる田村麻呂は、このままでは朝廷が50万いや100万を動員してでも、蝦夷を根こそぎ絶やしかねないことを懸念しています。しかし、強硬派の伊佐西古は、なんとしても恭順はできないと突っぱねます。

 ところで、最近アテルイは、”ここ暫く、戦争が無く、豊かとは言えないが。心は確かに解き放たれた。しかし、いつ朝廷軍が襲いかかってくるかわからない。仲間も年老い厭戦気分がみなぎってきた。なによりも子らのことを思うと哀れでならない。落ち着きのない毎日ばかりだ。せっかく親たちが耕した田畑は何度も荒らされ、敵の襲来に備えての掘っ立て小屋にしか住めぬ。なんとか30年は戦さが無く、子らがのんびりと成長できる国にしたいものだ。我らが戦さを仕掛けているのではなく、これは敵が仕掛けてくる。我らの一存ではどうにもならぬ。いったいどうすればいい?おれ一人の命で済むなら降伏してもいいのだが・・”と思い悩んでいます。
 798年冬 坂上田村麻呂、ついに征夷大将軍に任命されました。戦争が近づいたことを感じたアテルイは妻(モレの妹)に「この胆沢をすべて柵とする。そうすれば他の土地は戦さと無縁になる。そなたと子らは黒石の館に移って貰いたい」と話します。妹からそれを聞いたモレは、アテルイのところに飛んできました。アテルイは、30年間戦さのない国にするには、手始めに戦さを民らから完全に切り離すしかないと思ったと語ります。アテルイの意を察したモレは、”さすがにアテルイよ”と皆が得心する死に時・死に場所を作ることを約束します。
 800年10月 田村麻呂は、一番の家臣・御園に前回岩や丸太を落とされた束稲(たばしね山・東岳の砦を燃すことを命じます。 801年1月  砦を失ったことを諸絞(モロシマ)が耳にし、降伏の勧告をしに和賀から出向いたところ,アテルイが彼を殺害し、彼の遺骸を和賀に送り届けたとの情報が田村麻呂に届きました。田村麻呂は、蝦夷から挑発を受けても、兵を城から出さなかったことが蝦夷を揺さぶり、アテルイを孤立化させ、内部に亀裂を生じさせたと思っています。

 801年1月下旬、膝上まで雪が積もる中、胆沢の柵(いさわのき39.1799111 , 141.1357355 )にアテルイが兵を結集します。伊佐西古の江刺軍は1,600。胆沢・黒石・江刺による最終蝦夷軍は4,000です。アテルイたちは軍議を開きます。死んだ筈の諸絞も参加しています。実は、彼は、アテルイたちと一緒に朝廷軍と戦うことを決意し、生きたまま葬儀をあげ、田村麻呂の目を欺いていたのです。アテルイはモレの策に基づく作戦を説明します。「”孤立が蝦夷を救う”を信じて、この柵にいる我らだけで敵と戦う。和賀、閉伊(へい)、気仙などにはなにがあっても遠巻きにするだけだ、と伝えている。この胆沢の柵を用いるのは緒戦だけとする。我らの策を成功させるには、我らが田村麻呂軍を戦いの場に引っ張り出してできるだけ悩ませる必要がある。悩ませれば悩ますほど田村麻呂は和議に近い形で今回我らに加わらない蝦夷を懐柔しようと努める筈だからである。それには東和を本拠とするのが最適と判断した。物部の館が東和から鹿角に移っているので民も少なくなり、東和が戦場になってもさほど民に迷惑はかけまい。逆に我ら騎馬軍にとっては鍛錬を重ねた土地で地の利がある。折角作った胆沢の柵をあっさり捨てるが、だからこそ田村麻呂は我らが腰を据えると信じて胆沢以外の地に目を向けてはおるまい。今夜からでも胆沢に集めた食糧をこっそり東和に運び出す。伊佐西古と諸絞どのは金成山に詰めて砦を整備されたい。そして、この胆沢の柵は田村麻呂にくれてやる。彼は必ずこの柵を本拠としよう。そうなれば常に相手の数は1万以下となろう。胆沢の柵に入ることは敵地の真ん中に陣取ることとなるから、田村麻呂は必死で周辺の蝦夷を懐柔しようとするだろう。しかし、周辺の蝦夷には、今度の戦さが中盤に差し掛かるまで、田村麻呂の降伏勧告には応じないよう命じている。 さらに、閉伊と志和には、示し合わせて、前もって集落を焼き討ちすることを告げている。そうせねば田村麻呂に裏を見抜かれる。特に志和は先の戦さで朝廷軍に罠を仕掛けたので簡単に信用されまい。だから真っ先に焼き討ちをすることにした。

 4万の相手でも相手の騎馬軍5千を分離できれば、我らの騎馬軍3千で田村麻呂に一泡吹かせることができよう。そうすれば、間違いなく、田村麻呂は和議に近い形で遠巻きしている蝦夷の懐柔を計るであろう。これで蝦夷は救われる。我らはその捨石となるのだ。和議の実現には、天皇の信頼厚い田村麻呂が頼みだ。従って田村麻呂の命を奪ってはならぬ」
  雪の消えた3月上旬、田村麻呂は4万を従え衣川に着きます。胆沢の柵に籠城するアテルイ軍4千と対峙します。田村麻呂はとり合えず1万だけを率いて前沢に陣を張ります。アテルイ軍も3千の騎馬軍で前沢の陣に近づき朝廷側の5千の騎馬兵を弓軍から切り離す作戦にでますが、朝廷軍はさっぱり動きません。アテルイは戦法を変えて、昼頃本隊を北上川対岸の草地に移します。一方で、騎馬兵100で朝廷陣を襲わせ、敵が用意している北上川の架橋を使って本隊に合流させます。

 田村麻呂も罠をうすうす承知で、数を頼みに5千の騎馬兵を出動させます。対岸にはアテルイ騎馬兵3千が並んでいます。田村麻呂は、自分が騎馬兵全軍で追うと読まれていたことに驚きます。戦い開始前に、田村麻呂は時間を割いてアテルイと話し合います。「貴殿の武者の戦さという心遣い有難い。しかし他者は蝦夷を武者とは思っていないはず。我らはもはや蝦夷からも孤立した身、戻る道も無いゆえ、存分に戦って果てる覚悟。決別した和賀や志和の者たちを恨んでもおらぬ。20余年も戦さが続いてはそれも当たり前。この戦さがなにゆえはじめられたか知らぬ子らも多くなり申した。戦さを続ける無意味さを手前とて分からぬわけではない。ではなぜ抗うかと?都の者らに蝦夷に対する嘲(あざけ)りが消えぬ限り、戦さは500年、1000年も繰り返されよう。今は戦さを無意味と感じる子らも、やがて大人となって都人の侮蔑を我が身で感ずれば抗う心が必ず芽生えるはず。我らは後の世の蝦夷の道しるべとなりたい。ここまで踏ん張った我らがいま降伏しては、今後蝦夷の誰一人として朝廷に抗わなくなり申す。我らの死は終わりにござらぬ。新たな種子と心得てござる。我らの屍(しかばね)を糧(かて)に、やがて多くの蝦夷が立ちあがってくれよう。それをあの世で見守るのが我らの楽しみ」とアテルイが語るのを聞き、「なんとしてもアテルイとモレを生かして恭順させねばならない。でなければアテルイの言う通りとなろう。朝廷は御世(みよ)が続く限り蝦夷と戦わねばならなくなる」と青ざめた顔で田村麻呂はつぶやきました。

  霧が晴れ、蝦夷騎馬軍3千対朝廷騎馬軍5千。これほどの騎馬軍が平地で真正面にぶつかり合うのは初めてです。大きな塊となって襲ってくるアテルイ騎馬軍を見て、朝廷騎馬軍は戦列を広げず相手を左右に分けてゆきます。しかしアテルイ騎馬軍は左右に分けられても分散はせず、3千で朝廷側の5千を包囲しはじめました。朝廷側はあまりにも大きな塊のため半分以上が輪の中でなに一つできずにうろうろしています。蝦夷騎馬軍は包囲を広げたり、縮めたりして自在に攻撃を繰り返します。囲みに乱れが生じるのが、撤退の頃合です。四方に散って逃げろとアテルイが命じます。田村麻呂は、何があるか分からないと、追走をさせません。死者350人、重傷者300人近くと知って田村麻呂は深いため息をつきました。蝦夷の死者も200ですが、倍近い戦力でぶつかったのですから、本来は反対の数字となるべきです。そのとき、田村麻呂に蝦夷が胆沢の柵を捨てて北に逃げたとの知らせが入りました。
 このとき、田村麻呂には二つの謎が生まれました。一つは、どうして蝦夷騎馬軍は本隊にいる自分を襲ってこなかったのか?囲んでいたのが蝦夷側であるから、その気になれば自分のいる本隊を襲うことはできたはずです。二つ目は、どうして蝦夷が時間をかけて築いた胆沢の柵を燃やしもせずにいともあっさりと放棄したのか、ということです。  
   
 戦の後、蝦夷が暮らす土地の真っ只中にある胆沢の柵に入った田村麻呂は、この柵に居て無事と分かるまで何もできません。そこで、蝦夷から何もできない朝廷軍と侮りを受ける前に、この周辺の蝦夷の長らに和議を呼び掛けることにしました。それからおよそ半月後、田村麻呂は、和賀・閉伊・志和・気仙・稗貫・岩手の長(おさ)を胆沢の柵に招き、朝廷から和議を取り付けることを約束します。同じ蝦夷同士ゆえアテルイ討伐は酷と察し、今後もアテルイ軍を遠巻きにするという約束を取り付けます。
 和議の動きを知ったアテルイは、”しめた”とばかりに、朝廷軍に対する小口の抵抗を繰り返します。梅雨が明けた6月、田村麻呂も8千の兵を御園に預け、東和に兵を進めます。堅牢な砦を前に朝廷軍は攻撃を控え、両者の睨み合いが続きます。局面打開のため、伊佐西古らは、騎馬兵3,000を率いて、江刺方向に向かいます。朝廷兵団(騎馬兵は1,000ほど)の指揮官・御園は、砦が手薄になった隙に、砦を攻撃しようと兵を動かします。そこに伊佐西古率いる騎馬兵が反転し、背後から襲い掛かります。結局、伊佐西古と御園とは相討ちして果てますが、朝廷側死傷者は2,000、蝦夷側のそれは400となります。
 田村麻呂は胆沢の柵に2万の兵を残し、御園の遺骸と一緒に多賀城に戻ります。今は耐えて朝廷の返事を待つのが先決と考えました。返書次第では、天皇にアテルイ一派を除く蝦夷の安堵を直接に進言する積もりのようです。
 他方、アテルイの方は、翌年に控える戦いはどんなに策を廻らせても勝つことはできぬと覚悟し、今の兵の半分2千を郷里に戻し、田村麻呂に帰順させる積もりです。

 802年3月 朝廷軍に逆らうことを止めた蝦夷達(和賀・閉伊・志和・気仙・稗貫・岩手)との和議を取り付けた田村麻呂が都から多賀城へ戻ってきました。多賀城では、これら蝦夷の長たちが揃って田村麻呂を迎えます。揃った蝦夷の長たちに”同盟を結んだ蝦夷はすべて許された”こと、またアテルイを倒したら胆沢に強固な城を築き、多賀城と同様の鎮守の要(かなめ)とすることを告げます。なお、田村麻呂はアテルイ軍がさらに半減し約1,800となったことを聞かされアテルイに哀れみを感じます。
 4月、胆沢の柵に戻った田村麻呂のもとにヒラテが遣わされ、アテルイの要望を伝えます。
「最終的に残った1,000の兵を許すならアテルイとモレほか主だったもので投降する。どうせ死ぬなら戦場でと思ったが、無縁の兵を巻き込む必要はない。味方であれ敵であれ同じこと。戦いとせぬ代わりに兵らを赦免して戴きたい」という内容です。田村麻呂は数日考え抜き、”アテルイの本当の狙いは、仲間を一人でも多く朝廷の同盟軍に仕立てて、仲間の蝦夷を救うことだった”といまさらながら気付かされます。
 802年4月15日 アテルイは、胆沢と黒石の450に将50を引き連れ正式に投降します。田村麻呂は顔を火傷させた諸絞に気付きますが不問にします。そして、アテルイとモレ以外は解放されます。
 京送りとなったアテルイ(約40歳)とモレ(約47歳)は、田村麻呂の必死の嘆願にもかかわらず、8月13日河内(かわち 今の枚方(ひらかた)の地)で、晒し刑・鋸引きの極刑に処されました。ヒラテは二人の死を見届けた後、殉死しました。
 なお、坂上田村麻呂は、胆沢城を802年造営すると、803年今の盛岡市に志波城(しばじょう)を造りました。また、胆沢には関東地方から4,000人の浪人を移しました。
(終り) 黒瀬記(2011/09/15)

参考 高橋克彦「火怨 上・下」(講談社)
     岩手県の歴史

 

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