【ニッポン歴史探訪】奥州南部・羽州南部の殿様たち(その3)


関ヶ原の役以後~伊達、上杉、最上などの殿様たち。


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 ( 写真 「大橋」から「広瀬川」越しに「仙台城址」を望む) 

美濃国での関ヶ原の戦いに先立ち、家康が、東日本の諸大名に上杉包囲網参陣を呼びかけた東北関ヶ原の戦いで、伊達政宗は、上杉から白石城(しろいしじょう
38.0025712 , 140.6171679 )を奪いましたが、それ以上の自分の旧領地への進出はできませんでした。結局、他の理由もあって、家康との約束の100万石大名となる夢は実現しませんでした(注)。しかし、政宗は、1600年12月、家康の許可をもらい、家臣・国分氏の千代(せんだい)城に大幅に手を加えて仙台城(38.2521085 , 140.8559489 )とし、ここに居城を移します。こうして、加賀100万石・前田氏、薩摩90万石・島津氏に次ぐ62万石の仙台藩主が誕生します。
 東軍についた最上義光は、東北関ヶ原の戦いで、上杉軍の攻撃に耐え抜きます。その結果、旧領地に庄内地方などを加え、初代山形藩主57万石となります。
 上杉景勝は、西軍に加担した責めで、1601年、会津、庄内などを奪われ、直江兼続が城主を務めていた米沢城に押し込められ、長井・信夫・伊達3郡30万石の領主に転落します。しかし、配下のほとんどの家来を抱えたまま、厳しい藩財政を克服してゆきます。
 なお、上杉氏が取り上げられた会津(60万石)には蒲生秀行が宇都宮から戻ってきます。
 
(注) 家康は政宗に、戦勝の暁には現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えるという内容の「百万石のお墨付き」を送っています。

 その後の伊達・最上・上杉三氏の主な変遷は、次の通りです。
伊達: (1)1613年、家臣の支倉常長(はせくら つねなが)を使節としてローマに派遣します。(2)大坂の役の論功で伊予10万石を受けますが、政宗は、それをそっくり庶長子である伊達秀宗に与え仙台藩から分家独立させます。こうして秀宗は、初代宇和島藩主となります。(3)仙台藩は、その後いくつかのお家騒動を乗り切り、幕末まで存続します。宇和島藩も幕末まで続きます。

最上:(1)1614年 義光が病死すると、領内の派閥争いが起き、1622年、徳川幕府から、全領地を没収されます。(2)その後、最上領はいくつかに分割され、伊達、上杉、佐竹(水戸から秋田へ領地替え)の監視役として、譜代大名たちが配置されます。

上杉:(1)1664年、三代藩主が急死しますが、吉良綱憲(父は吉良上野介)を養子にして上杉家は存続します。ただし、領地は15万石に半減します。(2)日向高鍋藩から養子として迎えられた鷹山(ようざん)が、1767年、九代藩主に就きます。彼は、自ら倹約に徹します。また、藩校を再興し、人材育成に努め、産業開発、農村復興を進めました。

参考:宮城県の歴史、山形県の歴史、福島県の歴史(いずれも山川出版社)、Wikipedia(伊達政宗、上杉景勝、最上義光・・・・)

終り 黒瀬記(2011/7/22)

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