【ニッポン歴史探訪】奥州南部・羽州南部の殿様たち (その2)

<お願い)例えば、岩出山城の数列(38.6549855 , 140.8609486 ) は、それをコピーして、Google Earthジャンプのウィンドウに貼り付けて、ご利用ください。>

( 写真:JR岩出山駅前風景。写真右側奥の小山が岩出山城跡 )

小田原攻め以後~伊達、最上、蒲生(がもう)、上杉の殿様を中心に。

 秀吉の催促を受け、1590年6月、伊達政宗はぎりぎりに後北条を相手とする小田原攻めに参陣します。その結果、前年手に入れた会津は没収されますが、豊臣家臣として安堵されます。
 小田原落城(1590年8月)の後、秀吉により、検地・刀狩を実施しながら、奥州諸大名の処遇を決める「奥羽仕置(おううしおき)」が始まります。秀吉は、政宗配下の大崎氏・葛西氏について、小田原への不参を理由に、独立領主扱いでその領地を召し上げます。このようにして、政宗による南奥州の地域的統一は秀吉により否定されます。没収された大崎・葛西領は、秀吉家臣の木村吉清の領地となります。ところが、吉清の苛酷な年貢取立てなどが原因で大掛かりな一揆が発生します。政宗も鎮圧に力を入れますが、一緒に一揆を鎮圧する蒲生氏郷(がもううじさと)から秀吉宛に”政宗が一揆を扇動している”と密告されます。この件で氏郷と政宗とが対立し、政宗は京都で秀吉に申し開きし、事無きを得ます。しかし、北奥州にまで広がった一揆処理を含む奥州再仕置の一環として、政宗は大崎・葛西一揆の再討伐を行います。さしもの一揆も、1591年7月佐沼城(宮城県登米市 38.6943530 , 141.1959028  )の戦いをもって終わります。一揆討伐後、政宗は秀吉から長井・信夫・伊達の本領のすべてを取り上げられ、吉清が一時的に支配した大崎・葛西旧領に知行替え(約58万石)となります。1591年9月、居城を米沢城から旧大崎領の岩手沢城に移します。なお、のちにこの城を政宗が岩出山城(いわでやまじょう 38.6549855 , 140.8609486 )と改名します。

 羽州でも秀吉による仕置の結果、小田原攻めに参陣した最上義光は、山形城(38.2546276 , 140.3278542 )を中心とする24万石の領主となります。上杉氏の後ろ盾を受けた武藤氏と最上氏とが領有を争った庄内地域は、結局、上杉景勝の所領となります。
 会津に封じられていた蒲生氏郷は、会津(37.4871181 , 139.9301147 )に加えて、政宗の手をはなれた長井・信夫・伊達を新たに支配します。しかし、1595年、氏郷が40歳で病死し、彼の子・秀行が後を継ぎますが家内不和による騒動が起こり、1598年宇都宮へ領地替えとなります。

 そこで、秀吉は、蒲生氏の後任に、越後の上杉景勝を起用します。水戸の佐竹氏と力を合わせれば、徳川家康や伊達政宗に対する抑止力を強化できると秀吉は考えたのです。こうして、上記旧蒲生領の他に、旧上杉領のうち、出羽国庄内地方と佐渡(金山あり)を加えた120万石の大領主上杉景勝が誕生します。彼は、この時、家老の直江兼続(なおえかねつぐ)を米沢城主に据えます。
 他方、伊達政宗は、自分の旧領に現れた上杉氏に敵愾心を燃やします。また、山形城主である最上義光も、上杉氏に米沢と庄内地方から挟まれてしまい不安を募らせます。
(つづく) 黒瀬記(2011/7/15)

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