やさしい日本史(第2回)

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  今回と次回は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)についてお話しましょう。彼は人生の節目で名前を変えますが、ここでは豊臣秀吉、 または、単に秀吉という名前で通します。
16世紀、秀吉は、今の名古屋、昔の尾張(おわり)の百姓(ひゃくしょう)の家に生まれました。
15歳のとき、志を立て、駿河(するが)や遠江(とおとうみ)今の静岡県に出かけ、武士の家で働きます。
その後、尾張に帰り、21歳の若い殿様である織田信長(おだのぶなが)の草履取り(ぞうりとり)となります。寒い冬、秀吉がふところで暖めた草履を信長に差し出すと、信長はとても喜びました。これがきっかけで、信長に気に入られ、次々に任務を与えられます。彼は、与えられた仕事を懸命にこなし、信長の期待にこたえます。こうして、またたくまに、一つの部隊の長となります。
1564年、秀吉は、信長の命令で、美濃(みの)今の岐阜県のある敵方の城に出かけ、そこの城主を説得して信長に味方させることに成功します。つづいて、彼は敵地近くに墨俣城(すのまたじょう)を大急ぎで築いて、稲葉山城(いなばやまじょう 後の岐阜城)を攻め落とすのを早めます。
また、1570年、信長が朝倉を攻めたとき、浅井長政(信長の妹の夫)の裏切りで、信長はいったん奪った金ヶ崎城(かながさきじょう 今の福井県敦賀(つるが)市にありました)から急いで退却することになります。秀吉はとても危険な最後尾の役目を引き受けて、多数の敵から激しい追撃を受けます。そのとき、信長に置き去りにされ退却中の徳川家康の加勢を受け、なんとか敵の追撃を振り切ります。これが秀吉と家康の運命的な初顔合わせでした。
1573年、信長は、浅井・朝倉を滅ぼすと、彼の功に報い、秀吉に浅井の旧領地を与えます。秀吉は長浜城を築き、その城主となります。秀吉はときに37歳、やっと念願の城持ちとなりました。
(つづく) 黒瀬

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