【ニッポン歴史探訪】奥州南部・羽州南部の殿様たち (その1)



   秀吉の小田原攻め以前 ~ 伊達(だて)と最上(もがみ)を中心にして。
 現在の茨城県下館市の在地地主であった伊達氏は、奥州合戦(鎌倉幕府の奥州藤原氏征伐)の功により、激戦地の阿津賀志山(あつかしやま 37.8879874 , 140.5657983 )がある伊達郡地頭職につきます。伊達氏は、鎌倉時代から長井(山形県南部で置賜(おきたま)とも呼ぶ)地域を支配した長井氏を、15世紀初頭までに、滅ぼし、伊達・信夫(だて・しのぶ)とともに長井地域を治めることになります。1514年、伊達稙宗(だて たねむね)は、羽州探題・最上義定(もがみ よしさだ)を長谷堂城(はせどうじょう 38.2124904 , 140.2723217 )にて破り、自分の妹を義定の奥方にし、実質的に最上氏を支配します。1522年、稙宗は 陸奥(むつ)国守護になり、1532年、居城を桑折西山城(こおりにしやまじょう 37.8540001 , 140.5091286 )に移します。1542年、稙宗(奥州諸氏和合重視)と彼の嫡男・ 晴宗(伊達氏の権力強化重視)との間に、 晴宗の弟を越後守護上杉定実の後継者とする、しないで意見が別れ、周辺領主を巻き込んで6年に及ぶ大戦乱(天文の乱 てんぶんのらん)が起きます。1548年、将軍足利義輝の仲裁で、やっと両者が和睦。 稙宗は隠居。

  晴宗は家督を継いで米沢城(37.9095421 , 140.1051557 )を本拠とします。以後、伊達氏は、輝宗(てるむね 妻は最上義光(よしあき)の妹(義姫))、政宗(まさむね)と続いて、この城を拠点として長井地域、伊達・信夫郡(福島県)、宮城県南部にかけての領地を治めます。米沢城生まれの政宗(妻は三春田村の愛姫)は、戦国末期までに、岩手沢など宮城県北部を支配する奥州探題大崎(おおさき)氏、登米(とよま)など宮城県東北部から岩手県南部にかけて支配する葛西(かさい)氏を始め、その他在地領主を、彼らの存在を認めた上で、ほぼ従属させます。その間、1587~1588年、最上義光(よしあき)が中核となる伊達包囲網の成立を受け伊達・最上両家の対立が深刻化しますが、政宗の母・義姫の仲介で和議が成立します。また、政宗は、常陸・佐竹(さたけ)氏の支援を受けた会津(あいづ)の葦名(あしな)氏(秀吉家臣)を、1589年6月、磐梯山(ばんだいさん)の麓にある摺上原(すりあげはら 37.5623031 , 140.0643110 )の戦いで破り、会津を支配下に収めます。(この時、秀吉は葦名攻めにつき政宗を咎めています。) 残る独立した在地領主は、相馬地方(福島県浜通り)の相馬(そうま)氏くらいとなります。

 他方、羽州探題の斯波兼頼(しば かねより)を祖とする、最上氏は、伊達氏とはたびたび抗争を起こします。長谷堂の戦いのほか、伊達氏の天文の乱 にも巻き込まれます。伊達氏同様、父子対立(義守 V伊達からの独立を目指す義光)が起こり、伊達 輝宗たちを巻き込む争乱となりますが、1571年 義守が義光に家督を譲り、乱はおさまります。しかし、その後、義光は、弟・中野義時を奉ずる勢力に手こずります。次に、1584年、義光は、天童(てんどう)氏を中心とする「天童八楯(てんどうはったて)」と呼ばれる連合軍と戦いますが、懐柔策で連合を分断し、勝利します。更に、北進策を進め、同年中に、山形盆地を支配下に収めます。(つづく) 黒瀬記(2011/6/24)

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