伊東マンショと踊った妖艶ビアンカⅡ

筆者:大藪 宏

天正少年使節秘話③

  前号ではビアンカ・カッペロが、数奇な運命をたどった末、トスカーナ大公妃の地位を手にしたいきさつをお話しました。大公妃ビアンカは、絶世の美女だったとも伝わっていますが、アレッサンドロ・アローリが描いた肖像画を見る限り、「絶世」まではどうでしょうか。画商好みの「イタリア美人」あたりでしょう。
 さて、ビアンカの身の回りでは、愛欲がらみの殺人事件が頻発しましたが、彼女は幸運にもそれらをくぐり抜け、天正少年使節の伊東マンショと、日本人にとっての初めてのダンスを踊りました。(1585年3月。ビアンカ43歳)

トスカーナ大公夫妻が急死

  伊東マンショが登場した舞踏会のわずか二年半後(1587)の十月。大公夫妻は、フィレンツェ郊外の別邸で、仲睦まじく狩猟を楽しんでいました。けれども突然大公フランチェスコが高熱で倒れました。苦しむ夫に付ききりで看病したビアンカも、ほどなく同じ症状で倒れました。死期を悟った大公は、弟のフェルディナンド枢機卿を呼び、遺言を告げます。それによれば、
「私の死後は、ビアンカとの間に生まれたアントニオがすべてを受け継ぐ。ビアンカは再婚しない限り、現在受けている権利や立場を継承する」
 と言うものでした。
 ほどなく大公は亡くなりましたが、その後を追ってビアンカも、11時間後に亡くなりました。        
  弟のフェルディナンドには、夫妻毒殺の嫌疑がささやかれますが、うわさを打ち消すためでしょうか、フェルディナンドは異例の早さで、二人の司法解剖を行わせ、死因をマラリアと発表しました。(当時イタリア半島でマラリアは珍しくなかった)
 疑惑は残ったものの、毒殺説は検証されないままに、長い年月が経ちます。 
 1857年に行われたメディチ家各当主の遺骸調査で、大公フランチェスコの墓が開けられました。保存状態が良かったので、遺体には苦しみの表情と手足の硬直がはっきりと残っていたそうです。それで再度毒殺説が浮上しました。詳しい当時の司法解剖で、フランチェスコの胃と肝臓が肥大し、損傷していたことが確認されました。死因は日々摂取していた危険な薬品による中毒とされました。
 ビアンカについては、肺、肝臓、子宮が損傷し、多量の水が体内で確認されたため、死因は以前から病んでいた水腫によるものとされました。

ビアンカ嫌いのフェルディナンド
                
  大公の弟フェルディナンドは、遺言を無視して、フェルディナンド一世として公位に就きました。ビアンカが生んだアントニオは後ろ盾を失い、メディチ家の一員としては残りましたが、片隅に追いやられてしまいました。 
 さて大公夫妻の葬儀が行われ、メディチ家の霊廟へ棺(ひつぎルビ)が向かいます。メディチ家代々の墓所は、フィレンツェのサン・ロレンツォ教会隣の豪華な礼拝堂の中にありました。 
 ここにまた伝説が生まれました。フェルディナンドがビアンカ嫌いであったことから、彼は彼女の棺を大公から引き離し、いずことも知れぬ寂しい墓地へ葬ってしまったというものです。ビアンカはフェルディナンドに取って、大公位を奪うためには邪魔な存在です。
「ビアンカは大公をそそのかし浪費をさせ、国の財政悪化を招いたとか、魔法で前大公妃を殺し(事実は石段での転落事故)地位を奪った魔女だ」などの噂を流したようです。      

       
趣味人フランチェスコ大公と、ビアンカの内助
                  
 
大公は趣味人的な化学者で、錬金術に凝り、政治に興味を持たず、民衆に人気が無かったようです。後世の史家からビアンカは、良き忠告者として、政治に身が入らぬ夫を助け、また前公妃の遺児の養育にも熱心に取り組んだ女性と、高く評価されてもいます。ビアンカの評価は分かれますが、いずれにしても、彼女の大公フランチェスコへの愛は、確かなものでした。
 けれども仮にビアンカが、看病ゆえに大公と同じマラリアに罹ったとしても、わずか十一時間遅れの死は不自然です。やはり毒殺説が正しいのでしょうか?
 錬金術に没頭した兄フランチェスコとは違って、弟のフェルディナンドは、産業の振興に務め、リヴォルノを自由貿易港にして交易を促進しました。低迷していたトスカーナ大公国の経済は活性化し、国庫収入も増え、フィレンツェの人口も最盛期に迫りました。メディチ家伝統の文芸・芸術の保護振興にも努め、血生臭い噂をよそに、名君と評価されています。姪をフランス王に嫁がせて関係を強化、一族からローマ教皇を輩出させるなど、対外的にも影響力を持ちました。
 このフェルディナンド一世は六十歳で病没(1609年)。以後トスカーナ大公国は衰退の一途をたどります。 
   
 死因はマラリアか毒殺か?
 

 大公夫妻がほぼ同時に亡くなると、弟のフェルディナンドが当主の座を狙って、彼らを毒殺したといううわさが広がりました。けれどもマラリア原因説も根強く、イタリア史の謎でした。大公フランチェスコは、メディチ家の霊廟、サンロレンツォ聖堂に埋葬されましたが、夫人ビアンカの遺体は行方不明です。
 けれども2005年フィレンツェ郊外の小さな教会で、四つの壺から、防腐処理された二人(フランチェスコとビアンカ)の内臓が見つかりました。そしてそれぞれから大量の砒素が検出されたのです。これによって、二人が同時に致死量の砒素を盛られて亡くなったことが判明しました。
 しかしながら、フェルディナンドの毒殺疑惑については、もはや何の証拠もなく、確定はできません。でも怪しい怪しい。大公位を手に入れた弟のフェルナンドに、動機はじゅうぶんあります。

ルネサンスの闇

  イタリアのルネサンス期は、ローマ時代の末期にも増して、陰謀・謀略・暗殺が横行し、人々が淫蕩な生活を送った時代でもありました。伊東マンショに初めて社交ダンスを誘ってくれた、わがビアンカ・カッペロは、陰謀による惨劇に巻き込まれ、非業の死を遂げてしまいました。
 連載の第一回は、中世日欧交流史の権威、松田先生の研究書を表面的に撫でて書いてしまいましたが、その後の最新の病理学的調査の成果を踏まえ、もう一度掘り起こしてみると、歴史の奥に潜む闇の深さを感じます。日本社交ダンスの功労者、ビアンカに謹んで哀悼の意を捧げます。 

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