【ニッポン歴史探訪】 川中島の戦い


 ことの始まりは次のとおりです。信濃(しなの 今の長野県)の南部を統治し終えた甲斐(かい今の山梨県)の有力戦国大名である武田信玄(たけだしんげん)は、古くから多くの人々の信仰を集める善光寺(ぜんこうじ)がある北信濃に支配を広げてゆきます。そのため、妻女山(さいじょさん)の麓に「海津(かいづ)城」という出城を築きます。他方、信玄に北信濃から追い出された地方領主村上氏は、越後(えちご 今の新潟県)の有力戦国大名である上杉謙信(うえすぎけんしん)に泣きついて助けを求めます。北信濃に関わりの深い謙信は、彼の頼みに応じます。信玄と謙信は同じような戦さを5回やりますが、そのうち一番激しい4回目の戦さがまさに始まろうとしています。

 ときは、1561年8月14日から9月10日にかけての一ヶ月ほどです。ただし、旧暦だから、新暦(太陽暦)では10月に当たります。ちょうど紅葉の季節です。
ところは北信濃、善光寺の南方にある「八幡原(はちまんばら)」です。西に茶臼山(ちゃうすやま)などの山並みが続き、東から南東の妻女山にかけても低い山並みが連なっています。妻女山麓に近い武田軍出城「海津城」の西側を千曲川(ちくまがわ)がくねりながら北に向けて流れています。そして千曲川の川原越しに「八幡原」は広がっています。

8/14、 春日山城(かすがやまじょう)を出発した上杉軍 18,000人 が善光寺に着きます。参考までに、春日山から川中島までの道のりが約70km、甲府から川中島までの道のりは約140kmです。
8/16、 謙信は、後詰 5,000人を善光寺に残し、本陣 13,000人が妻女山に移り、にわか造りの陣地を構えます。眼下に海津城(武田軍3,000人が守る)が見えます。
8/18、 ’のろし’ですぐこれを知った信玄は、甲府(こうふ)の躑躅ケ崎(つつじがさき)を出発し、途中で軍勢を増やしていきます。
8/21~8/24、 妻女山の西南4kmにある塩崎城で上杉軍の様子を窺(うがが)います。 海津城に謙信が襲いかかれば背後から攻撃しようと構えています。しかし、上杉軍は動きません。
8/24~8/29、 武田軍 17、000人は茶臼山に陣替(じんが)えします。上杉軍が本陣と後詰を分断されるのを嫌い、動くのを待ちます。しかし、謙信は動きません。
8/29、 しびれをきらした信玄は、妻女山の謙信を牽制(けんせい)しながら、 茶臼山から海津城へ移動します。
8/29~9/9、 上杉軍は、妻女山から少しも動く気配を見せません。武田軍は、海津城で策を練(ね)ります。結局、軍師山本勘助(やまもとかんすけ)の「きつつきの戦術」(別動隊が妻女山の裏手から攻撃して、上杉軍を川中島につつきだし、前面で待ち受ける信玄本隊とで、敵を一網打尽(いちもうだじん)にする策)を採用し、決行日を9/10早朝とします。
 
 しかし、謙信は、9/9 夕刻、海津城の食事をつくる煙(けむり)、人馬のあわただしい動きから信玄側の作戦を察知(さっち)します。信玄のこの行動こそ、謙信にとり妻女山で25日かけて待ちに待ったチャンスでした。9/9、午後10時、妻女山に篝火(かがりび)をたくさん焚(た)いて、上杉軍がまだ陣取っているように見せかけ、しずかに千曲川を渡って八幡原へ進みます。なお、このシーンを「べんせいしゅくしゅく夜川を渡る・・・・」と頼山陽(らいさんよう)が詩で表現し、今もってよくこの詩吟(しぎん)が唄(うた)われます。

9/10  午前1時、武田軍別動隊 12,000人が実はすでにもぬけの殻(から)の妻女山に向かいます。信玄は海津城から8,000人を率いて八幡原へ進みます。同日 午前6時、夜明けとともに濃霧(のうむ)の中から上杉軍が現れます。武田軍を背後から襲います。思いがけない敵の出現で、陣容(じんよう)を整(ととの)えるひまもなく混戦となります。上杉軍優勢(ゆうせい)で戦(いくさ)は進み、武田側は信玄の弟・信繁(のぶしげ)や山本勘助が戦死します。同日午前10時ごろ、信玄本陣に馬で突入する一人の武者(むしゃ)がいます。実は、それは謙信でした。彼は馬上から信玄目がけて太刀(たち)を3回振り下ろします。信玄はそれを軍配(ぐんばい)でやっとのことで受け止めます。ちょうどその時、すでに展開中の激戦に驚き、妻女山から一気に駆(か)けおりてきた武田軍別動隊が、上杉軍の背後から攻撃します。これで形勢は逆転し、信玄は間一髪(かんいっぱつ)のところで助かります。軽い傷で済みます。上杉軍は善光寺方面へ撤退(てったい)します。勝負は引き分けです。この一戦の後、北信濃は信玄が支配することになります。

 ところで、謙信、信玄はいつも争ってばかりいたのではありません。こんなエピソードが残っています。あるとき、海の無い甲斐・信濃で生活に欠かせない塩が無くなり、信玄は困り果てました。これを知った謙信は、信玄に塩を送ってあげました。それで「敵に塩を送る」という表現が生まれました。

(筆者 黒瀬宏洋20110326)

コメントは受け付けていません。