伊東マンショと踊った妖艶なビアンカ

筆者:大藪 宏

(天正少年使節秘話 その②)

 前号で、ピサで日本人として初めて(天正13年2月1585)社交ダンスを踊った伊東マンショの踊りを紹介したが、お相手をしたのはトスカーナ大公妃ビアンカ。彼女は幾つもの秘話や伝説を持っている。やはりダンスは、華となる女性を紹介しないと彩(いろど)りに欠けるので、ここで少し彼女について…

 ビアンカ・カッペロ

  ボクはかつてビアンカについて、日欧交渉史がご専門の松田毅一先生(故人)の著書を参考に、
「ビアンカは、その道にかけてはしたたか者。ベネツィアから情夫と駆け落ちしてきたところをフランチェスコ一世に見染められると、前の公妃を追い出して大公妃の座を射止めた辣腕(らつわん)の持ち主である。ルネサンスの華の影でイタリアは、背徳・淫乱・陰謀・暴力が渦巻く世界であった。民衆から憎まれたこの大公は、二年後に非業の死を遂げ、その数日後に公妃も後を追うことになる」
  と書いたことがある。
 松田先生のビアンカ観の影響が大きかったが、その後の調べで、ビアンカには毀誉褒貶(きよほうへん)のあることが解った。すなわち褒める人もあればけなす人もあったのだ。そうなると両論併記、いえいえビアンカを贔屓して書き直さなくてはならない。それでこそ、伊東マンショの面目も立つというもの。

  『ビアンカの回想録』
                    
 というものが世に伝わっている。彼女が書いたとされてきたが、英国中級貴族の筆のすさびとする説もある。真偽はともかく、内容的には、ビアンカの立場で、もっともらしく書けている。伝承・伝説・史実のカクテルだとしても、ボクはこの回想録を信じたい。

* * *

 「私(ビアンカ)は、ヴェネチア共和国の、名門中の名門貴族、カッペロ家の令嬢として生まれました。
 ところが八歳にならぬ前に母が死に、父は再婚しましたが、継母は私につらく当たるのです。けれども母の友人(ヴェネチア元首の妹で未亡人)が私に良くしてくれ、貴族の令嬢としての教育を受けることができました。特にラテン語には堪能になりました。
  ところがです。この母親代わりの女性が亡くなってしまったのです。辛い事が次々と押し寄せました。継母は私を高い石塀に囲まれた監獄のような尼僧院に入れようとします。私が結婚をすれば持参金が要るので、それを惜しんでのことです。(そのような不幸な目に遭った哀れな女は当時多数いたようである)  

 そんな絶望の日々を送るうちに、ピエトロを知りました。
三歳年上のこの青年は(ビアンカは十六歳)、フィレンツェの某銀行の、ヴェネチア支店の銀行員でしたが、伯父が支店長で有力な家とコネがあるというふれ込みでした。
 気のいい乳母の手引きで、何度かデートを重ねる内に、二人でヴェネチアから逃げようと決めました。
 ある晩裏階段の下にピエトロが、ゴンドラで迎えに来てくれて、大運河に漕ぎ出しました。聖マルコ広場の鐘楼が九時を告げ、私はピエトロの腕の中で長い間泣きました。
 キオッジアまで来ると、ゴンドラを捨て、外洋向きの小船を探してフェラーラの街まで逃げました。もうヴェネチア共和国を出たので、この街でピエトロに抱かれ、その晩は安らかに過ごしました。  

  それからは、追っ手の影に怯え、山賊を恐れながらの辛く悲しい逃避行が、冬のアペニン山脈を越えながら続きました。
 ピストイアまで逃げてきて、ピエトロの伯父のもとに一時身を寄せましたが、ほどなく絶望的な知らせが届きました。ヴェネチアの元老院は、ピエトロを貴族の娘を誘拐した犯人に仕立て上げ、ピエトロを殺した者には金貨二千デュカードの懸賞金が用意されているとか。私も貴族としての権限と財産相続権が剥奪され、無一文の庶民に落とされました。ヴェネチアに連れ戻して尼僧院に収容する事までも決まったそうです。旅費に当てようとした、母の形見の宝石も、今や私が盗んだことになりました。  
 とにかくも、逃げて逃げてフィレンツェの街に入りました。出迎えてくれたのは貧しいピエトロの母だけでした。

 私達は近くの小さな教会で、ごく内輪に結婚式を挙げました。それからは、どんな日陰女もがまんできまいと思えるほどの、わびしい生活が始まりました。追っ手の目を逃れるため、家から一歩も出してもらえません。唯一つの慰めは、姑の留守に窓際に立ち、聖マルコ広場を眺める事でした。
 そんな侘びしい日々が一年も続いたでしょうか。美々しい供揃えを従えた騎乗姿の貴公子が、時折広場を横切るのを見かけるようになったのです。そしてあるときその貴公子は、窓辺に立つ私に羽根飾りの美しい帽子を取って、挨拶をしてくださったのです。
 こんなことが度重なると、私はその貴公子が広場に現れるのを、心待ちするようになりました。
 とうとう私は義父に、
「あの方はどなたですか?」 と聞きますと、
「あの若君はトスカーナ大公コジモ様(フィレンツェの名門メディチ家出身)のお世継ぎで、フランチェスコ様だ」
 と答えてくれました。
 それから数日して姑が、
「フランチェスコ様の名代の侯爵夫人が会いたいと言ってきたから出向くように」
 と言うのです。私は夫と舅と三人で、差し回された馬車に乗り込みました。
 侯爵夫人の家には、あの貴公子がおられました。貴公子は、私たち夫婦の境遇に同情され、保護を約束してくださいました。
 それからほどなく、侯爵夫人の家で、貴公子と密会するようになりました。もちろんその場に夫は居ません。そして私は(この貴公子から愛されている)という思いを強めましたた。

 三年ほどが過ぎたとき、
「私はドイツ皇帝の娘と結婚しなくてはならなくなった。だがこれは政略結婚だ。ビアンカ、貴女こそ真実の愛を受けるひとだ」
 と貴公子から告白を受けました。私の心は乱れました。今は一庶民の女で、名ばかりとはいえ夫がある身です。耐えることこそが私のあの方への愛の道でした。
 一年後にドイツ皇女がお輿入れになり、国を挙げて盛大な結婚式が行われました。私はフィレンツェ郊外の別荘に移るように言われ、貴公子だったフランチェスコ様は、しばしばその別荘に来て下さいました。
 その翌年、私はその花嫁(ドイツ皇女)を、教会で盗み見ることができました。少女のように小柄で細く、病的に青白く、金髪が重そうで、碧い眼が冷たく光っていました。(魅力に乏しい女だったと伝わっている…注)
 張りのあるスベスベした肌の豊かな肉体、亜麻色の金髪に大きな黒い瞳、そんな私(ビアンカ)とは対照的でした。 夫ピエトロは、フランチェスコ様の衣装係の職を得て、小さな屋敷も手に入れました。もうフランチェスコ様は私の存在を世間に隠しませんでした。夫のピエトロも、リッチ家出身の未亡人、カッサンドラといい仲になっていたので、私のことは気にもかけません。

 ところが1572年の8月、夫のピエトロとカッサンドラ未亡人は、彼女の実家の怒れる男たちから、家名の恥だと刺し殺されてしまいました。
 この事件について、フランチェスコ様の奥方とフランチェスコ様の弟君は、ヴェネチアの悪女(ビアンカ)が、邪魔者になった夫ピエトロを消そうと、男たちをそそのかせた結果だと、宮中で噂を振り撒き、それはたちまち街中に広まりました。  
 そこへフランチェスコ家では、別の弟君が、姦通事件を起こした夫人を絞殺。妹君も男性遍歴のためその夫君から殺されました。こんな恐ろしい状況下では、フランチェスコ様の愛だけ頼りです。
  最後に決定的な不幸な事件が起こりました。身籠もられた大公妃が、教会の石段から転げ落ち、出血多量で亡くなられました。

「ヴェネチアの悪女め!」

「大公をたぶらかし魔法を使って大公妃を殺した魔女だ」
 と、またも私に非難の矢弾が降り注ぎました。
 本当にフランチェスコ様の愛だけがたよりです。貴方が世を去られるときには遅れません」


* * *

  回想録はここで終わっています。
 でも伊東マンショを誘い、踊ってくれたビアンカには、つい肩入れしたくなるのです。次号をよろしく…。
 そうそう、
ビアンカに謁見した旅好きなフランスの哲学者モンテーニュは、彼女を旅の日記で、
「イタリア人の好みでは美人で愛嬌があり品が良い。胸厚く乳房は十分盛り上がっている。公を丸め込み妃の地位を保つだけのことはある」
 と紹介していました。     
             
<筆者 大藪 宏 2011.2.26> <雑誌『ダンスファン』に連載していた「ヒストリカル・ダンスエッセイ」より>

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