【ニッポン歴史探訪】関ケ原古戦場

 関ヶ原古戦場(せきがはらこせんじょう)

 

 

   豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、息子・秀頼(ひでより)を自分の跡目(あとめ)にするよう徳川家康(とくがわいえやす)ほか有力武将たちに頼んで、1598年息を引き取りました。しかし、秀吉亡き後の天下人(てんかびと)を狙う家康は着々と勢力を広げてゆきます。したがって、あくまで秀頼を擁立する立場をとる秀吉側近の石田三成(いしだみつなり)との対立はますます深まっていました。

 家康が、うまい口実で、三成に組する会津城(あいづじょう 今の福島県にあった城。上杉景勝(うえすぎかげかつ)と彼の家老(かろう)である直江兼続(なおえかねつぐ)が守っている)を攻撃するため、秀吉に恩義ある武将をも含む軍隊を率いて北上し、小山(おやま 今の栃木県南部の市)に達したとき、三成が決起したとの知らせを受けました。家康は小山で遠征軍参加の武将を集め会議を開き、福島正則(ふくしままさのり)たち秀吉子飼いの武将たちの三成嫌いをうまく利用して、遠征軍を家康に加担する東軍にまとめて引き返しました。しかし、家康次男である秀忠(ひでただ)は関ヶ原に向かう道すがら三成側の真田昌幸(さなだまさゆき)・幸村(ゆきむら)軍が守る上田城(うえだじょう 今の長野県にある城)を攻撃しましたが、遂に落城できぬまま、この大事な合戦に間に合わなくなりました。

 さて、時は、1600(慶長5)年9月15日。
 ところは、東国から京都に通ずる中山道(なかせんどう)の”不破の関(ふわのせき)”に近い、北に伊吹山(いぶきやま)に連なる笹尾山(ささおやま)と南の松尾山(まつおやま 標高 293m)、桃配山(ももくばりやま 標高 104m)、南宮山(なんぐうさん 標高 419m)などに挟まれた関ヶ原と呼ばれる原っぱです。

 ここに、石田三成を主将とする西軍約10万人と徳川家康が率いる東軍約7万人が、向かい合い、今まさに天下分け目の合戦(かっせん)が始まろうとしています。辺り一帯には、早朝の濃霧が立ち込めています。三成は、笹尾山に本陣を構えています。秀吉縁者である小早川秀秋(こばやかわひであき)軍(1.5万人)ほかは、関ヶ原を見渡す松尾山に陣取っています。また、南宮山には毛利秀元(もうりひでもと)軍(1.5万人)ほかが待機しています。他方、家康の方は、本陣を桃配山に構えています。

 午前8時頃、のろしを合図に、東軍の福島(ふくしま)・井伊(いい)軍が西軍の宇喜田(うきた)軍に襲いかかります。
 午前10時頃、戦況は一進一退です。三成は、松尾山の小早川、南宮山の毛利に進撃の合図を出しますが、どちらも動きません。実は、小早川はまえもって家康から東軍に味方(みかた)するよう言い含められていました。また、毛利では、有力な部下が家康に内通(ないつう)し参戦を止めていました。 

 家康は自軍の士気を上げるため、三成の陣に近付いた地に本陣を移します。正午頃、依然、西軍が善戦しています。勝負の行方はまだ分かりません。小早川が動かぬことにしびれを切らした家康は、小早川をうながすため部下に松尾山に向けて鉄砲を射たせます。やっと小早川軍が動きます。小早川軍が斬り込んだ先は、やっぱり、山麓で戦っている西軍の大谷(おおたに)軍です。この予期せぬ裏切り行為で西軍は総崩れです。午後2時頃、西軍の負けが決まりました。三成は、伊吹山に逃げ込みます。しかし、まもなく山中で捕らえられ、京都でさらし首にされます。

 西軍の敗北(はいぼく)で大阪城(おおさかじょう)にいる秀頼も母親の淀君(よどぎみ)といっしょにやがて死ぬことになります。名実ともに、徳川の世となるのです。
 余談ですが、徳川側をてこずらせた真田家は、長男だけは家康に味方させ家系の維持を図りました。裏切り者の小早川秀秋は、家康から岡山城(おかやまじょう)を与えられますが、まもなく狂って若死に(わかじに)しました。また、福島正則も、広島城(ひろしまじょう)の主となりましたが、後に、無断で城を修繕したため、今の長野県の善光寺に近い小藩に移されました。
以上 

 (筆者 黒瀬 宏洋 2011/2/24)

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