【ニッポン歴史探訪】平城宮跡(へいじょうきゅうあと)

 

天皇を中心とした政治体制を固めるには、新しい都が必要となりました。そこで、元明天皇(げんめいてんのう)は、唐(とう 中国の古い王朝の名)から新知識を持ち帰った学識者たちの意見を取り入れ、唐の都の長安(ちょうあん)に似た平城京(へいじょうきょう)を現在の奈良の地に造りました。いよいよ710年、都がここに遷(うつ)され、いわゆる奈良時代が始まりました。その後、この都は74年間続きました。平城京の主体は、東西約4km、南北約5kmの区域で、それを東西半々に分ける形で南北に真っ直ぐ朱雀大路(すざくおおじ、すじゃくおおじ)を通しました。天皇がまつりごとを行う「平城宮」は、平安京の北端中央に設けられました。平城宮敷地の南側中央に朱雀門(すざくもん)を造り、朱雀門から南に朱雀大路が伸びていたのです。現在、朱雀門と大極殿(だいごくでん 儀式と政務を行う建物)が復元されています。ここに来ると都の1300年前の様子を肌に感ずることができます。2010年、奈良で、平城遷都(へいじょうせんと)1300年祭が盛大に行われました。この様子はテレビなどで広く紹介されましたので、「せんとくん」という可愛いマスコットと共に皆さまの記憶に新しいことでしょう。

 この奈良時代の最大の出来事は何といっても東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)の造営でしょう。大仏さまの力を借りて平穏な世の中を作ろうとした聖武天皇(しょうむてんのう)が、743年に大仏を造るよう命ぜられてから、9年の長い年月をかけて、752年やっと大仏が出来上がりました。大変な量の銅と多くの労働力などが使われました。聖武天皇のお后(きさき)である光明皇后(こうみょうこうごう)が天皇をよく支(ささ)えられたことも知られています。

 これと併行して、聖武天皇は、日本各地に国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ 女の僧が勤める寺)をセットで造らせました。私の住む東京は、昔(むかし)、武蔵国(むさしのくに)の一部でした。その武蔵国の国分寺と国分尼寺の跡地は、天皇の出先機関があった今の府中市(ふちゅうし)の北方で、寺名をそのまま市名とした国分寺市(こくぶんじし)の南端に公園として保存されています。あなたがお住まいの地方にも、建物は残っていませんが、国分寺と国分尼寺の跡地があるはずです。ぜひ探してみてください。

 奈良時代の出来事でもう一つ述べたいことがあります。唐から来られた鑑真(がんじん)と呼ばれる とても偉いお坊さんのことです。彼は、仏さまの導きに従い、5回の難破(なんぱ)にもめげず、失明(しつめい)の苦難を乗り越え、753年に来日を果たしました。彼は、聖武上皇(しょうむじょうこう 天皇の位を娘に譲ったため上皇となりました)に東大寺で戒律(かいりつ commandmentのこと)を授け、仏門に導かれました。その後、彼は、唐招提寺(とうしょうだいじ)を建て、弟子(でし)を育てました。日中交流の誇り高い先例です。以上 Setagaya-jin (2011/1/16)

  (筆者 黒瀬 宏洋)

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