遠くの友人

                                     眞砂 睦

 

 8年ぶりにブラジルを訪れ、旧知の谷口史郎さんに会ってきた。史郎さんはみなべ町清川生まれ。1953年、13歳の時に家族とともに移住。ご尊父は清川村(当時)の村長をされていた。現職の村長が家族を連れて移住するというので、評判になった。
 一家は南マットグロッソ州ドラードス市近郊の原生林に入植。サンパウロ市から西に1500キロほども離れた奥地である。みなべ町岩代出身の戦前移住者、松原安太郎が設営した開拓地ということもあって、入植した69家族のうち56家族を和歌山県人が占めた。とりわけ紀南の出身者が多かった。後に「松原移民」と呼ばれる方々である。
 入植区域が決まると、まず掘立小屋を建て、井戸を掘って飲み水を確保。原始林を伐採し、山焼きをして耕作地を作る。そこに陸稲を植え、鶏や豚を飼って、食糧の自給体制が整ったところで、いよいよ換金作物であるコーヒー樹の栽培にかかる。
 入植後5年目からコーヒーの収穫が始まった。入植地は活気づいたが、不運にも1960年代後半から霜の害が頻発するようになり、大半のコーヒー樹が立ち枯れてしまう。霜を嫌って、1980年代後半には大半の方々が入植地を去っていった。
 史朗さんもコーヒー栽培を断念、ドラードス市近郊の農地を買って大豆とトーモロコシの栽培に乗り出す。作柄や販売値の変動にもまれながらも、40年ほどの間に農地も買い増して、今や大農場主となった。
 農場の経営にたずさわる傍ら、史朗さんと奥様のみどりさんは日系子弟の日本語教育に心血を注いできた。みどりさんは田辺市三栖の出身。史朗さんとは入植地で結ばれ
長年、近くの「共栄入植地」の日本語学校で教師を務めた。一方、史朗さんは地域の日本語教育の中核である「ドラードス日本語モデル校」の運営責任者として、今も教育活動を支えている。
同時に、南マットグロッソ州和歌山県人会の会長として奮闘中。村長であったご尊父の性格を受け継いだのか、太っ腹の熱血漢で周囲の信頼が厚い。
 いつも史朗さんから「眞砂さん、我々の仕事はこれからだよ。元気な間に若者同士の交流を軌道に乗せたいし、ドラードス市と紀南の自治体との交流にも道をつけないとね!」と気合がかかる。
これから先、私がどこまで彼の気力と体力についていけるか心もとないが、郷里との絆の強化を熱望する友人の思いは全力で受けとめなければならないと心している。  (2014.5.24掲載)                            
                                    (了)   

 

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