異文化摩擦を乗り越えた先人たち

筆者: 眞砂 睦

 

私は田辺市生まれで、高校まで田辺で過ごし、早稲田大学法学部を卒業、野村貿易(株)に入社。ブラジル・シンガポール・香港に駐在しました。定年退職後、独立行政法人国際協力機構(JICA)派遣の日系社会シニアボランテイアとして3年間ブラジルに滞在、現在上富田町に住んでいます。

 さて今年は、戦後和歌山県からのブラジル移住が始まって55年目にあたります。戦後もまだ復興途上にあった昭和28年、和歌山県人56家族が全国の先陣をきって海を渡りました。戦前にブラジルに移住し、サンパウロ州で農場主として成功していた、みなべ町出身の松原安太郎氏が、ブラジル政府から戦後初めて日本人の移住許可を取り付けたことから、地元の和歌山県、とりわけ紀南から大勢の方々が新天地に挑んでいったのです。

 

 割り当てられた入植地は、当時まだ原生林の真っ只中にありましたので、移住者たちは道を作り、木を伐採し、井戸を堀り、掘っ立て小屋を建て、耕地を作ることなどをすべて自力でやらねばなりませんでした。そして不運にも、念願のコーヒーの収穫が軌道に乗った矢先、霜に襲われてコーヒー樹の大半が立ち枯れてしまいました。霜に追い立てられるように、多くの入植者が新しい土地に移って穀物栽培に挑戦をしたり、生活の糧を求めて都会に出て行きました。霜という天災のせいで、やむなく入植地を離れていったのです。
 

 あれから55年。家族の働き手として渡った青年たちも、そろそろ引退の時期を迎えています。言葉もままならない異国で、自分の腕一本で生きてきたご苦労ははかり知れませんが、大方の移住者は立派に子供を育てあげ、今はゆったりと新天地の生活を楽しんでおられます。半世紀に及ぶ多民族国家での生活の中で、人種や文化の違いから生じるさまざまな軋轢を乗り越えて、背筋がピンと伸びた日本人として生きておられます。
 
 島国日本も人種や宗教の違う人々と上手に折り合っていかなければならない時代になりましたが、国際的にもまれていない日本人は、異質な人々とのつきあいが得意とはいえません。でも、腕一本で新天地に挑んだ移住者たちは、異質な人々とのつきあい方を、身をもって体得している方々です。いわば異文化共生を実践している先人です。そうした先輩たちの人生体験は、私たちの貴重な資産といえます。私は、海を渡った先人たちとの交流を通して、彼らの故郷ここ紀南で、異文化体験を学ぶ場を作っていきたいと考えています。

( 紀伊民報 2009.1.11 「故郷への便り」より転載)

 

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