永田 久 解説:新渡戸稲造著『武士道・日本人の魂』

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【筆者 プロフィール】

 永田 久 ( ながた ひさし)

 

1929年 東京都練馬区に生まれる。聖学院高校を経て1951年に国立宇都宮大学農学部農芸化学科卒業。 在学中バスケットボール学生選手権大会関東代表(東京を除く)となる。大学卒業後中学校教師の傍ら(洗礼を受けてないので聴講生として)聖書神学校へ通いもう少しで牧師になるところであった。
父上は力行会創始者永田稠(しげし)氏。力行会(1897年創設。苦学力行からとったいわれる)は海外への発展の重要性を訴え海外移住の指導をし苦学生や移住希望者に便宜を与えた。北中南米、東南ア、旧満州等へ約3万人を送り出した。
1952年 ブラジルへ「ブラジル農業視察者」として来伯し永住権をとり第三アリアンサで15年農業に携わる。着伯前年父上が来伯しブラジル4Hクラブ(よりよい農村、農業を創るための活動組織。米国農務省管轄)を作ったのでその普及に全伯を回った。夫人の病気によるサンパウロへの転地を期に1969年に「のうそん」を創刊した。「のうそん」の名の由来は当時は日本人移民は農村にしかいなかったから。初めは新聞社に印刷を依頼していたが経費が嵩むので自分で印刷する事を考えた。
1975年 謄写版からコピー機への過渡期に日本企業が競って印刷機を買ったが使いきれずにホコリをかぶっているのを安く譲り受けて自分で印刷を始めた。戦時中勤労動員で行った理研発条で機械類をいじったことが「のうそん」印刷に役立った。メーカー(スエーデン製)も講習会を開いていた。
4Hクラブ時代に回った地方で日本語を読める人の名前を集めていたので当初5000軒を回って配った。
現在は1300部発行。近年部数は減少気味だったが漢字に仮名振りを始めてから部数は安定した。
奥さんと二人きりで発行しているので経費がかからないので続いていると謙遜している。(富田記)

 


 

まえがき
 我々、ブラジルに移住した日本人がブラジルの社会に、何をもって貢献するのか。日本人にしか出来ない貢献とは、一体何なのか。これは、我々移住者にとって、極めて重要な課題である。そして、我々の子孫に何を遺産とし残していくのか、これも極めて重要な課題である。
 この課題について、日本人移民百年の間に、色々と論議され、実践されている。こうした時に、新渡戸稲造の「武士道・日本人の魂」を日系社会に紹介することは、有意義な事と思う。
 本文の紹介に入る前に、「武士道・日本人の魂」の周辺について、解説を試みたいと思う。

武士道を体系化した唯一の思想書
 武士道というと、多くの人は、キリスト教における「聖書」、儒教における「論語」、あるいはイスラム教における「コーラン」といったように、特別な書物があるように思われているが、本文にも記されている通り、「これぞ武士道」といえる書物があるわけではない。
 武士道はあくまでも日本の長い封建風土のなかで、武士のあるべき姿として自然に発生し、そのつど時代に即応して研鑽され、やがては、「武士の掟」となった文書にならない倫理道徳観であった。日本固有の修養精神だったといえる。
 武士道を述べたものには、江戸時代においても、いくつかの書物があるが、それらは武士の処世訓といったもので、武士道そのものを体系的に網羅してあるわけではない。また、ごく限られた範囲の中でしか読まれていなかったので、日本人全体の精神を表したものとはいえなかった。
 しかも、武士道議論が盛んになったのは、その主体である武士階級が消えた明治時代になってからのことで、明治になって、怒涛のごとく西洋の新しい価値観が導入されはじめると、社会全体が西洋化していった。その変わりゆく姿を見て、心ある人々が「日本人とは何か」を問い直し、改めて和魂としての「武士道」がもてはやされるようになったのである。
 それは、今日の日本が国際化といわれ、あらためて世界の中の日本を考えたとき、特有の国家意識や伝統精神を見直そうとするのと同じ発想だったといえる。
 では、今日、一般的に武士道といった場合、われわれは何をもって理論的支柱にしているのかといえば、この新渡戸稲造の「武士道・日本人の魂」をもって一般には考えられているのである。なぜなら、この本こそ、武士道を体系的かつ総括的に述べた唯一の思想書となっているからである。
 

『武士道・日本人の魂』に惹かれる理由
 一般に、武士道など封建的な「過去の遺物」としか見ていない。江戸幕藩体制を支えた武士道などは、今日の民主主義にはそぐわないものと見なしている。
 そうした中にあって、日本が驚異的な速度で経済大国になるにしたがい、いつしか世界中から「エコノミック・アニマル」と蔑まれるようになっていた。そして、そのあげくバブルに踊り無節操で傲慢な日本人があらわれ、心ある日本人は「本来の日本人はこんなはずではなかった」との思いを巡らせ、注目したのが、この『武士道・日本人の魂』である。
 新渡戸の『武士道・日本人の魂』。この本は、けっして古めかしい道徳を語っているわけでも、封建制度の因習を記したものでもない。むしろそれは、現在我々がなくしてしまった「日本人の伝統的精神」といったものが、世界文化と比較しながら格調高く書かれてあり、人間としての普遍的な倫理観を内包した本である。
 


新渡戸稲造とは何者か
【新渡戸稲造の略歴】
・1862年(文久2年)南部藩城下町盛岡にて藩士の家庭に生まれる。
・1877年(明治10年)年末、西南戦争の最中、開拓使御用船玄武丸で品川を出港、札幌農学校二期生として入学、学友の宮部金吾と内村鑑三との友情は終生変らなかった。
・1884年(明治17年)横浜からアメリカに渡航。やがてボルチモア市、ジョンズ・ホプキンズ大学に学ぶ。その頃、キリスト教のフレンド派に接した。
・1886年(明治19年)フレンド派に入会。その名門エルキントン家の令嬢メアリー(後の新渡戸夫人)と出会う。
・1887年(明治20年)札幌農学校助教授の身分でドイツに向かい、ボン大学に学ぶ。
・1891年(明治24年)メアリーと結婚。帰国後札幌農学校に着任。
・1899年(明治32年)日本で初の農学博士となる。
・1901年(明治34年)台湾総督府に招かれ、糖業により台湾の経済的基礎を確立。
・1903年(明治36年)京都帝国大学教授。
・1906年(明治39年)第一高等学校校長を経て東京帝国大学教授。
・1915年(大正4年)日本力行会顧問に就任。
・1918年(大正7年)東京女子大学初代学長。
・1920年(大正9年)~1926年(昭和元年)国際連盟事務局次長、帝国学士院会員、貴族院議員になる。
・1928年(昭和3年)女子経済専門学校(現・東京文化短期大学)の初代校長となる。
・1933年(昭和8年)カナダのパンフで開催された太平洋問題調査会の大会に日本代表団団長として出席講演。大会終了後心臓発作などで9月入院。10月15日逝去。享年71歳。

 

 『武士道・日本人の魂』を書くまでにいたった、その思想的背景といったものにも触れておく。
 新渡戸稲造は、文久2年(1862年)明治政府が誕生する6年前、現在の岩手県盛岡市で生まれた。家系は代々南部藩士で、祖父、父は、ともに十和田湖周辺の開拓指導者として知られている人だ。
 明治8年(1875年)、盛岡から上京して東京英語学校に入学した。英語の才能は抜群であった。
 やがて16歳(明治10年、西南戦争のあった年)になったとき、新渡戸は祖父以来の開拓事業を引き継ぐために、札幌農学校(現・北海道大学)へ入学した。札幌農学校といえば誰もが思い出すように、「少年よ、大志を抱け!」で有名な、あのクラークが教頭として赴任した学校である。
 クラークの日本の赴任期間はわずか八カ月間にすぎなかった。だが、この短い歳月のなかで、彼は計り知れない影響を生徒たちに残したのだった。
 プロテスタントの敬虔な信者であったクラークは、キリスト教にもとずく人格教育に重きをおき、彼がのこした「イエスを信じる者の誓約」には多くの生徒達が署名した。もちろん、新渡戸もそれに感化されてキリスト教徒になるのだが、彼は二期生だったので、入学した時はすでにクラーク博士は帰国しており、直接の教えは受けていない。だが、クラークの熱情あふれる人格教育は、孫弟子の新渡戸たちにまで感化するほどの校風を築き上げていたのだった。クラークに直接指導を受けた一期生には、錚々たる指導者が輩出した。同期の二期生には、明治キリスト教の先駆者となった内村鑑三がいた。

 

『武士道・日本人の魂』の視点
 内村鑑三の書いたものに、次の様なものがある。「中国の名言に『山にある者は山をみず』とある。山の真の均整は遠方からのみ見る事ができる」と言う。自分の国の特徴を観察する場合も「距離」が必要だという。
 新渡戸が『武士道・日本人の魂』を書いたのは、アメリカであった。そして、欧米留学の九年間を含め、日本の精神文化を客観的に振り返ってみるいい機会であったのである。

 

プロテスタンティズムと武士道精神
 しかし、それにしても武士道で育った新渡戸や内村らが、何故、大きな抵抗がなく、キリスト教に入信したのか。一見、不思議な気もするが、プロテスタントの精神というものを調べてみると、それはむしろ当然だったというべきかも知れない。
 武士道的価値観が西洋的価値観の根底にあるキリスト教思想と如何に共通しているか。キリスト教の諸徳は武士道のなかにもあったのだ。欧米、すなわち、キリスト教諸国だけが文化的先進国ではなかったのである。おそらくこの事を発見して、西洋人はショックだったのではなかろうか。
 新渡戸の『武士道・日本人の魂』は出版されると瞬く間に欧米人の心を捕えたが、その時の彼等の驚きは、いかほどであったか。そこに人間のあり方の原点をみたからではないだろうか。
 新渡戸は、『武士道・日本人の魂』を書くにあたって、「人の道」である武士道と「神の道」であるキリスト教を比較しながら,成文化されていなかった武士道精神を「日本の伝統的精神」としてとらえ直し、日本人の道徳規範の書を世界に見せようとしたのであろう。

なぜ『武士道・日本人の魂』は書かれたのか
 なぜ『武士道・日本人の魂』は書かれたのかは、本書の「まえがき」にあるが、さらに、次の様なことも想像できる。
 新渡戸稲造がアメリカからこの本を出版したのは、明治32年(1899年)38歳のときだった。
 当時、日本は文明の先進国から見れば、いまだアジアの果てのきわめて幼稚な国でしかなかった。ところが、その日本が日清戦争(1894~95年)で「眠れる獅子」といわれた清国(中国)に勝ったことから、いちはやく好機な目で見られる国となった。なかには「野蛮で好戦的な民族」と中傷する者もあった。
 「日本民族は正しく理解されていない」おそらく新渡戸の胸中に、こうした思いがよぎったことは推測するにかたくない。そこで彼は「日本人はそのようなものではない」との愛国心にかられ、外国人に向かって、日本人の心に宿る伝統的精神を『武士道・日本人の魂』の名において書いたのである。だからこそ、新渡戸は、原書を英文で書いたのであり、サブタイトルにわざわざ「日本人の魂」と付けたのである。

 

大統領を感動させた『武士道・日本人の魂』
 そしてこの本は、日本でも翌年の明治33年、ただちに発刊され、多くの青年たちを魅了した。ちなみに、最初の日本語訳としては明治41年(1908年)丁未出版社から桜井鷗村訳が出版されている。
 『武士道・日本人の魂』は初版刊行以来、絶大な賞賛とともに、新生日本の姿を知ろうとする欧米で、多くの読者を魅了した。それは「第十版の序文」にもあるように、アメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランド、ノルウェー、フランス、中国でも出版され、いちはやく世界的な大ベストセラーとなって、新渡戸稲造の名も世界的に知られることになるのだ。
 ある意味では、それは当然のことといえた。なぜなら、新渡戸の印した『武士道・日本人の魂』は、人間としてかく在るべきという道徳規範の本であり、たとえ国や民族が違っても、人が健全なる社会を築き、美しく生きようとするときの「人の道」に変わりなかったからである。
 たとえば、新渡戸は同序において、この本をアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが読んで、大変感動し、家族や友人に配ったとのべている。それ以来、ルーズベルト大統領はすっかり日本びいきとなった。
 そのおかげで、5年後の日露戦争終結(1905年)のときには、日露講和条約の調停役を頼まれると、「私は貴国のことは、よく知らないが『ブシドー』はよく知っている。あの崇高なる精神を持った国ならば、およばずながら協力したい」と、こころよくその役を引き受けたといわれている。
 『武士道・日本人の魂』という本は、日本人の伝統的精神をあらわすものとして、二十世紀の初頭、世界に紹介され、「ブシドー」なる言葉を知らしめた最初の本だったのである。

 

あとがき
 我々、ブラジルに移住した日本人がブラジルの社会に、何をもって貢献するのか。日本人にしか出来ない貢献とは一体何なのか。これは、我々移住者にとって、極めて重要な課題である。そして、我々の子孫に何を遺産としていくのか、これも極めて重大な課題である。
 武士道は、長い歴史の中で培ってきた日本人のバクボーンである。日本人の伝統的文化遺産ともいえるこの武士道は、我々移住者の課題に、答えるものではなかろうか。この武士道を研究するには、この新渡戸の『武士道・日本人の魂』である。

 

◇新渡戸稲造著 『武士道・日本人の魂』の要約

第一版の序文
 十年ほど前、私がベルギーの著名な法学者ド・ラヴレー氏の家に招かれ、歓待をうけて数日を過ごしていたときのこと。ある日の散歩の途中で、宗教の話題がでた。
 「日本の学校では宗教教育がない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が尋ねられた。私が「ありません」と返事すると、教授は驚いて、突然立ち止まり、ビックリするような声で再度問われた。
「宗教教育がない!それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか」
 私はその質問に愕然とし、すぐに答えることができなかった。 なぜなら、私が子供の頃に学んだ人の倫たる道徳の教えは、学校で習ったものではなかったからである。
 そこで、私の善悪や正義の観念を形成しているさまざまな要素を分析してみて初めて、そのような観念を私に吹き込んだものは武士道だったことに気づいたのである。
 この小著を著わすにいたった直接の理由は、私の妻から、「なぜ、このような思想や道徳的習慣が日本でいきわたっているのか」という質問を何度も受けたからである。
 ド・ラヴレー氏や私の妻に、納得のいく答えをしようと考えているうちに、私は、日本の封建制と武士道がわからなくては、現在の日本の道徳観念は、まるで封をした「巻物」と同じことだとわかったのである。そこで私の長い闘病期間を利用して、家内と交わした会話の中で得られたいくつかの回答を、ここで整理して読者に述べることにする。それらは主として封建制度がまだ盛んだった若い頃に、私が教えられ伝えられたことである。
1899年12月 ペンシルバニア州マルヴァーンにて 新渡戸稲造

 

第十版の序文
 六年前に初版が刊行されてから、この小著は、予想以上の反響を得た。
 この第十版は、世界中の英語読者のために、ニューヨークとロンドンで、同時に出版される。この間に本書は、マラーティ語、ドイツ語、ボヘミア語、ポーランド語に翻訳された。ノルウェー語版とフランス語版も準備中で、中国語も計画されている。また『武士道』の何章かはハンガリーとロシアの読者に、それぞれの国語で提供されてきた。
 私は自分の小著が広くいろいろな社会で好意的な読者と出合ったことを思うと、感謝の念に堪えない。これによって本書の扱った主題が全世界にとって興味あるものだということを知った。
 信頼できる筋からの情報によれば、ルーズヴェルト大統領がみずから本書を読まれ、友人たちに配られたそうだが、これは身に余る光栄である。
1905年1月10日 東京小石川にて 新渡戸稲造

 

武士道とは何か
 武士道は、日本の象徴である桜花とおなじように、日本の国土に咲く固有の花である。それはわが国の歴史の標本室に保存されているような古めかしい道徳ではない。いまなお、私たちの心の中に生きている。
 武士道を生み、そして育てた封建制が失われてからすでに久しいが、封建制の所産である武士道の光は、その母体である封建制度よりも長く生き延びて、この国の人の倫のありようを照らしつづけているのだ。
 武士道は、騎士道よりも、もっと多くの意味合いを含んでいる。一言でいえば「武士の掟」すなわち「高き身分の者に伴う義務」のことである。
 武士道とは、このように武士の守るべき掟として求められ、あるいは教育された道徳的原理である。それは成文法ではない。せいぜい口伝で受け継がれたものか、著名な武士や学者の筆から生まれた、いくつかの格言によって成り立っていることが多い。いや、書かれざる掟であったというべきであろう。
 それだけに武士道は、いっそうサムライの心に刻み込まれ、強力な行動規範として拘束力を持ったのである。
 しかも、武士道は、一人の頭脳が創造したものではない。数十年、数百年もの長きにわたる日本の歴史の中で、武士の生き方として、自発的に醸成され発達を遂げたものなのである。
 それゆえに、明確な時と場所を指して「ここに武士道の源泉がある」などとは言えない。もし言えるとするなら、武士道の起源は封建制の時代の中で自覚され始めたもの、というだけである。したがって時期に関するかぎりは封建制の始まりと同じと見てよい。

 


 

 義    JUSTICA
 勇気  CORAGEM
 仁    BONEVOLENCIA
 礼    GENTILEZA
 信    CONFIANCA
 誠    SINCERIDADE
 名誉   HONRA
 忠誠   LEALDADE
 克己   SELF-CONTROL


●武士道の源をさぐる
まずは、仏教から論じよう。仏教は、武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心をあたえた。
 具体的にいうならそれは危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せず、死と親しむことであった。
 ある一流の剣術の師匠は、剣の極意を会得した弟子に「私が教えられるのはここまで。これより先は禅の教えに譲らねばならない」ことを告げた。
 仏教が武士道にあたえられなかったものは、日本古来の神道がそれを十分に補った。主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝心などの考え方は、神道の教義によって武士道へ伝えられた。
 それによって武士の傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植えつけられたのである。
 そして神道の自然崇拝は、われわれに心の底から国土を慕わせ、祖先崇拝は、それをたどっていくことで皇室を国民全体の祖としたのである。私たちにとって国土とは、金を採掘し、穀物を収穫する単なる土地以上のものである。つまり、そこは先祖の霊の神聖な住処なのである。それゆえに私たちにとって天皇とは、法治国家の長、あるいは文化国家の単なる保護者ではなく、それ以上の存在となる。
 神道は、武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだのだ。
 武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えがもっとも豊かな源泉となった。君臣、親子、夫婦、長幼、朋友についての「五倫」は、儒教の書物が中国からもたらされる以前から、日本人の民族的本能が認めていたものであって、それを確認したにすぎなかった。冷静で穏和な、しかも世故に長けた孔子の政治道徳の教えは、支配階級の武士にとってはとりわけふさわしいものであった。孔子の貴族的で保守的な教訓は、武士階級の要求に著しく適合したのだった。
 加えて孔子についで孟子の教えは、さらに武士道に大いなる権威をもたらした。
 孟子の強烈で、ときには極めて民主的な理論は、気概や思いやりのある性質の人にはとくに好かれた。だがその理論は、一面、封建的な秩序社会を覆す危険思想とも受け取られ、彼の書物は長い間、禁書とされた。にもかかわらず、この優れた思想家の言葉は、武士の心の中に不変の位置を占めていったのである。
 孔子と孟子の著作は、若者にとっては主要な人生の教科書となり、大人の間では議論のときの最高の権威となった。

 

 だが、単にこの二人の古典を知っているだけでは、高い尊敬を受けることはできなかった。孔子を知識として知っているだけでは、「論語読みの論語知らず」との諺が生まれたように、それは冷笑の対象とされた。
 知識と言うものは、これを学ぶ者が心に同化させ、その人の品性に表れて初めて真の知識となる、ということである。要するに知性は行動として表れる道徳的行為に従属するものと考えられたのである。
 武士道は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である。したがって、知識はそれ自体が目的とはならず、あくまで智恵を得るための手段でなければならなかった。
 武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなけらばならないものと考えられた。知識と行動を一致させるという意味の「知行合一」なる言葉を生み出した。
 このように、その源泉が何であれ、武士道がそこから吸収し、わがものとした本質的原理は、単純で、決して数多いものではなかった。だが、たとえそうであったとしても、それはわが国の歴史上、もっとも不安定な時代の、もっとも危険な日々にあっても、武士にとっては十分に安息安全の処世訓となるものであったのだ。
 わが国の武士の祖先が持っていた健全で純朴な性質は、古代思想の本道や脇道から拾い集められた平凡で断片的な教えの束にすぎなかったが、それらは精神の十分な糧を引き出した。そして。これらの寄せ集めの束の中から、新しい独特な男らしい型の人間形成をなし得たのである。いわば、それが武士道の芽ばえだったのである。

 

●「義」・・ JUSTICA
 「義」は武士の掟の中で、もっとも厳格な徳目である。サムライにとって卑劣なる行動、不正なふるまいほど忌まわしいものはない。
 ある武士は、「武士の重んずるところは義である。義とは人の体にたとえれば骨に当たる。骨がなければ首も正しく上に載ってはいられない。手も動かず、足も立たない。だから人は才能や学問があったとしても、義がなければ武士ではない。義さえあれば社交の才など取るに足らないものだ」と述べている。
 義はいま一つの勇ましい徳である「勇」と双子の関係にある。

 

●「勇」・・CORAGEM
 勇気は、義のために行われるものでなければ、徳の中に数えられる価値はないとされた。
 孔子は「論語」において「勇」の定義を「義を見てせざるは勇なきなり」と説いた。これは「勇とは正しきことを為すこと」である。
 だが、あらゆる種類の危険を冒し、一命を投げ出し、死の淵に臨む、といったことは、しばしば勇気と同じにみられるが、猪突猛進の行為は賞賛には値しない。武士道では死に値しないもののために死ぬことは「犬死」とされた。
 西洋でいうところの道徳的勇気と肉体的勇気の区別は、わが国にあっても昔からあった。武士の少年で、「大義の勇」と「匹夫の勇」について聞いたことのない者がいたであろうか。
 勇気の精神的側面は沈着、すなわち、落ち着いた心の状態となって表れる。真に果敢な人間は常に穏やかである。決して驚かされず、何物にもその精神の均衡を乱されない。
 そのような者は戦場にあっても冷静である。破壊的な大惨事の中でも落ち着きを保つ。地震にも動揺せず、嵐にも笑うことができる。死の危険や恐怖にも冷静さを失わない人が偉大なる人と賞賛されるのだ。
 私たちはそれを「余裕」と呼んでいる。そうした人は慌てることも混乱することもなく、さらに多くのものを受け入れる余地を残している。

 

●「仁」・・BONEVOLENCIA
 愛、寛容、他者への情愛、哀れみの心、すなわち「仁」は、常に至高の徳として、人間の魂がもつあらゆる性質の中で、もっとも気高きものとして認められてきた。孔子や孟子も、民を治める者が、必ず、持たねばならない最高の徳として、この「仁」を幾度となく説いている。
 仁は、優しく柔和で母のような徳である。高潔な義と厳しい正義が男子的である、とするなら、仁における慈悲は女性的な優しさと説得力を持つ。
 だが、武士達は正義や公正さを持つことなしに、むやみに慈悲に溺れることを戒められた。伊達正宗がいったと言う「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」との、有名な言葉は、この事を表している。

 

●「礼」・・GENTILEZA
 私は、礼を高く評価するが、かといって、数ある徳目の中で最高位に置いているわけではない。礼を分析してみると、礼はさらなる高位の徳と関係している事がわかるからだ。
 もともと徳というものは孤立して存在しているわけではない。孔子自身も「うわべだけの作法が礼儀ではない。心が籠っていなければ礼とは呼べない」と言っている。
 礼儀は、たとえ立ち居振る舞いに優美さを与えるだけとしても、大いに得るところがある。しかも、その作用はそれだけにとどまらない。礼儀は、仁と謙譲の動機から生まれでるように、常に優美な同情となって表れる。
 「真実を語る事と、礼儀正しくあるのと、どちらがより重要か」という問いに対して、礼は正直と誠実さについて語るまで、その批評はここでは差し控えておく。

 

●「誠」・・SINCERIDADE
 真実と誠実がなければ、礼は茶番であり芝居である。伊達正宗は「度が過ぎた礼は諂いとなる」という。
 嘘をついたり、ごまかしたりすることは、卑怯者とみなされた。武士の約束は通常、証文なしに決め、実行された。むしろ証文を書くことは武士の面子が汚されることであった。
 本物の武士は「誠」を命より重く見ていたので,誓いを立てるだけでも名誉を傷つけるものと考えていた。


●「名誉」・・HONRA
 今日、「名誉」と訳されている言葉は、その時代、頻繁に使われたものではない。その観念は「名」「面目」「外聞」といった言葉で表現されていた。名誉への感覚が、病的ともいえる過度の行為に陥ることに関しては、寛容と忍耐の教えがそれを食い止める働きをした。
 ささいな刺激で怒る者は「短気」として笑い者にされ、よく知られた諺にも「ならぬ堪忍、するが堪忍」というのがある。
 西郷隆盛の遺訓から引用しておこう。
 「天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり」「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
 これらの言葉にはキリスト教の教訓を思わせるものがあり、実践的な道徳のにおいがする。
 もし、名誉と名声が得られるのであれば、武士にとって生命は安いものだと思われた。
 
●「忠誠」・・LEALDADE
 武士道は、私達の良心が君主の奴隷になることなど要求しなかった。
 己の良心を君主の気まぐれや酔狂、あるいは道楽の犠牲にする者には、武士道はきわめて低い評価しか与えなかった。そのような者は無節操なごますりで機嫌をとる「佞臣」、あるいは奴隷のような卑屈な追従で主君に気に入られる「寵臣」として軽蔑された。
 君主と臣下が意見の分かれるとき、家来の取るべき忠義は、あらゆる可能な手段を尽くして、主君の過ちを正すことである。もし、その事がうまくいかないときは、武士は自分の血をもって己の言葉の誠実を示し、主君の叡智と良心に最後の訴えをするのが、極めて普通のやり方だった。

 

●武士の教育
 武士の教育において、第一に重んじられたのは、品格の形成であった。
 武士の教育において、数学的概念を育てることには熱心ではなかった。それは武士道が損得勘定を考えず、むしろ貧困を誇るからである。
 武士道が倹約の徳を説いたのは事実である。だがそれは経済的な理由からではなく、むしろ節制の訓練のたっめだった。贅沢は人間を堕落させる最大の敵とみなされ、生活を簡素化することこそ武士階級の慣わしであった。
 知性ではなく品格を、頭脳ではなく魂を教える教師の仕事は、神聖なる性質をおびる。教師の受けた尊敬はきわめて高かった。このような信頼と尊敬を若者から寄せられる教師は、当然のことだが、人より優れた人格を持ち、学識にも恵まれていなければならなかった。
 武士道は無報酬、無償であるところの仕事の価値があると信じていたからだ。精神的な価値にかかわる仕事の報酬は金銀で支払われるべきものではなく、金銭で計れない価値があったからである。
 もっとも一年の折々の季節に、弟子が師に金品を贈るという習慣は認められていた。だが、これとて支払うのではなく、感謝の気持ちを表す「捧げ物」であった。むろん、これらの捧げ物は喜ばれた。なぜなら彼らは通常、厳格さと清貧を誇り、労働するにもあまりにも威厳があり、人から物をもらうには自尊心が強すぎる、そんな人々であったからだ。
 教える者は、鍛練につぐ鍛練によって完成された克己に生きる模範であったのである。この克己心こそ武士の教育の根幹だったといえる。

 

●「克己」・・SELF-CONTROL
武士道は一方において不平不満をいわない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては、他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないと言う礼を重んじた。
 武士にとって、直ぐに感情を顔に出すのは男らしくないとされた。「喜怒を色に表さず」というのは、立派な人物を評するときに使われる常套句である。
 日本人にとって落ち着いた行動、静かな心は、いかなる熱情によっても乱される事があってはならなかった。
 日本人にとっての笑いは、逆境によって乱された心の平衡を取り戻そうとする努力をうまく隠す役目を果たしているからである。つまり笑いは悲しみや怒りとのバランスをとるためのものなのだ。
 こうした感情の抑制を常に要求されるために、日本人はその安全弁を詩歌に求めた。
 たとえば、子供を失った親が、トンボ取に出かけて留守なのだと想像することで自分の心を慰めようとした母親(加賀の千代女)は、『蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら』いう歌を詠んでいる。

 

●切腹と敵討ち
 時として切腹する武士が言う「私は己の魂が宿るところを開いて、その状態をお見せする。それが汚れているか、潔白であるか、とくと貴方の目で確かめよ」という台詞もうなずけよう。
 だからといって、私が宗教的にも道徳的にも自殺の正当性を認めていると、誤解しないでもらいたい。だが、名誉は何よりも重んじる武士にとっては、これだけでみずからの生命を棄てるに十分な理由であったのである。
 武士の切腹は法制度として一つの儀式だった。武士みずからの罪を償い、過ちを詫び、不名誉を免れ、朋友を救い、己の誠を証明するための方法だったのである。
 法律上の処罰として切腹が命じられるときは、荘厳なる儀式をもって執り行われた。それは洗練された自殺であり、冷静な心と沈着なる振る舞いを極めた者でなければ実行できなかった。それゆえに、切腹は武士にとってふさわしいものであったのだ。
 敵討ちの理論はこうである。「私の善良な父が死ぬいわれはまったくなかった。父を殺した者は大きな悪事を働いたのだ。もし父が生きていたら、このような行為をけっして許しはしないだろう。天もまた悪事を憎む。悪を行う者にその行為をやめさせることは父の意志であり、天の意志でもある。その悪人は私の手によって裁かなければならない。なぜなら、彼は私の父の血をながし、その父の肉であり血である私こそが、父を殺した者に血を流させなければならないからだ。私と彼とはともに天を戴くことはできない」
 ただし、敵討ちが正当化されるのは、目上の人や恩義ある人の為に行われる場合のみであった。

 

●刀・・武士の魂
 武士道にとって、刀は、魂と武勇の象徴であった。十五歳で元服すると刀を所持する事に誇りを覚え、自尊心と責任感を与えたのである。
 武士道は、適切正当な刀の使い方を重要視すると同時に、その誤った使用には厳しい非難を向け、それを嫌悪した。必要もないのに刀を振りまわす者は卑怯者とか臆病者といって蔑まれた。冷静なる人物は、当然、刀を使うべき時と所をわきまえていた。そして、そのような機会は実際のところ、稀にしかやってこなかった。
 「最善の勝利は血を流さずに得た勝利である」とも言われ、ほかにも類似した格言がある。要するにこれらの格言は、武士道の究極の理想は平和であることを意味している。

 

●女性の教育と地位
 そもそも武士道は、男性の為に作られた教えであった。
 しかし、武士道にもとづいた教えで、女性も教育された。そのため若い娘たちは、感情を抑制し、精神を鍛え、武器、とくに薙刀を使い、不慮の事態から身を守るように訓練された。
 少女は、成人に達すると短刀を与えられた。これは自分を襲う者の胸や、場合によっては自分の胸に突き刺すものであった。その亡骸は見られて恥ずかしくないよう、整然とした姿勢を要求された。
 女性には、音楽、舞踊、読書をする事もたしなみの一つであった。これはあくまでも、家庭の中の楽しみであった。または、客へのもてなしのものであった。
 女性が夫や家、そして家族のために身を犠牲にするのは、男性が主君と国のために身を犠牲にすることと同様、それは名誉ある立派なこととされた。
 とはいえ、男性が主君の奴隷ではなかったように、女性もまた男性の奴隷ではなかった。妻たちが果たした役割は「内助」として尊ばれた。妻は夫のために自分を捨て、夫は主君のために自分を捨てる。そして主君は天の命に従う奉仕者であった。
 私たち日本人は、自分の妻を誉めることは自分を誉めることだと考える。だから自画自賛は日本人にとっては礼儀を知らない者として映る。

 

●武士道の影響
 武士は社会的には民衆より高いところに存在した、民衆に道徳律の規範を示し、みずからその見本を示すことによって民衆を導いたのである。
 大衆の娯楽は、教育の手段であった。芝居、寄席、講談、浄瑠璃、小説などの主な題材はは、武士の話から取られていたのだ。
 武士道は、もともとは、エリートである武士階級の栄光として登場したものであったが、やがて国民全体の憧れとなり、その精神となったのである。もちろん大衆は武士の道徳的高みまでは到達できなかったが、武士道精神を表す「大和魂」(日本人の魂)という言葉は、ついこの島国の民族精神を象徴する言葉となったのだった。
 本居宣長は国民の声なき声を言葉にしてこう詠んでいる。

   敷島の大和心を人問はば
          朝日に匂ふ山桜花

 私たちの愛する桜は、その美しい装いの陰に、トゲや毒を隠し持ってはいない。自然のなすがままいつでもその生命を捨てる覚悟がある。その色はけっして派手さを誇らず、その淡い匂いは人を飽きさせない。草花の色彩や形は外観だけのもので固定的な性質である。だが、あたりに漂う芳香には揮発性があり、あたかも生命の息吹のように、はかなく天に昇る。香にはどこか霊的な働きがある。

 

●武士道は今も
 日本に荒波のように押し寄せてきた西洋文明は、すでにわが国古来のあらゆる教義の痕跡を拭い去ってしまったのだろか。
 古き日本の建設者であった武士道は、日本を指導する国民的原理である。
 明治維新の時、日本の舵を取った政治家達は、武士道以外の道徳的教えを全く知らない人々であったことがそれを証明する。
 今のところ、日本へのキリスト教の伝道は、新しい日本の特性を形成する上で、目立った影響はほとんど及ぼしていないといってよいだろう。
 日本の変貌はいまや全世界が知る歴然たる事実である。このような壮大な事業には、さまざまな動機が入り交っているが、その最大なものを挙げろといわれれば、私は躊躇なく武士道を挙げる。武士道こそ維新の原動力だったのである。
 われわれは毎日のように、ヨーロッパがいかに日本に影響をおよぼしたかを聞かされるが、日本の変化はまったく自発的なものだったことを忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではなく、日本人自らがヨーロッパの政治・軍事の制度を学んだのである。
 しかしながら、その反面、私たち日本人の欠点短所も、また、大いに武士道に責任があることも認めなければ、公平さを欠くであろう。
 たとえば、すでにわが国の若い人の中には、科学分野では国際的な名声を得ている人がいるというのに、深遠な哲学の分野では誰もまだ偉業を達成した人はいない。
 この原因は武士道の訓育にあたっては哲学的な思考訓練がおろそかにされていたからである。
 また、日本人の過度に感じやすく、激しやすい性質についても、私たちの名誉心にその責任がある。これもまた、名誉心の行き過ぎによる結果であるといえる。
 たぶんアングロ・サクソンの気まぐれや空想を含んでいるキリスト教は、武士道という幹に接ぎ木をするにはあまりに貧弱すぎる芽である。

 

●武士道の未来
 確かに武士道は、知性と文化を独占的に支えた武士という特権階級の精神だった。だが、民主主義はいかなる形式、いかなる形態の特権階級をも認めないのである。したがって現代の社会的勢力は、狭い階級精神の存在を容認しない。
 にほんが最近の中国との戦争(日清戦争)で勝ったのは、精神力といわれている。最良の設備も精神がなければ、殆ど役に立たない。事実、この半世紀の間に、この予言は確実に証明されてきた。武士道はあまねく国民全体の道徳となったのである。武士道は、あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹き散らされた後でも、その香りで人類を祝福し、人生を豊かにしてくれるであろう。何世代かの後に、武士道の香りは遠く離れた山の彼方から一陣の風によって運ばれて来るであろう。


この記事は 「のうそん248、249号」(日伯農村文化振興会発刊)より、同誌と筆者の許可を得て転載しました。  ( Trabras )  

 

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