岡井二郎 「ブラジルのアメリカ移民」 

<良書紹介>

「ブラジルのアメリカ移民」 岡井二郎著

著者の岡井二郎さんを紹介しましょう。
岡井さんは、8歳の時、小学2年生の時、リオ・デ・ジャネイロ丸で、1935年10月3日、サントスに着きました。
 チエテ移住地に入植し、農業をし、マンジョカ粉工場を経営し、後に、測量事務所を開設、現在は翻訳を業とされています(「のうそん」永田久)

 


 

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【筆者プロフィール】  岡井 二郎  (おかい じろう)

 1935年両親に連れられて一家6人兄弟4人の次男として8歳でサンパウロ州ペレイラバレット(チエテ移住地。サンパウロから400KM)に入植した。出身は吉野に近い大阪府。父親は都会人で農業経験はなかった。コーヒー農場の労働者ではなく日本で移民会社によって販売された植民地にはいった。そこは千古不斧のジャングルであったがブラジル人カマラーダ(労働者)の開拓請負人の手によって開拓された。土地が低地のため長男がマラリアで死んだので兄に代わり若年から20歳までエンシャーダ(鍬)を持ち綿作に従事。

そのころ母の死を期に農業の傍ら隣家の牛の牛乳を販売配達をした。次いでブラジル人の食事に欠せないマンジョカ粉の製造工場をブラジル銀行からの融資を得て経営した。43歳で4人の子供の教育のためにサンパウロへ出ることにし測量士をめざして長男と一緒に促成中学へ入った。次いで専門学校に入り測量士のCREA(公認資格)を得て測量事務所を経営。サンパウロへ出て10年前まで働いたが不慮の事故により脊髄を手術し歩行に難儀するようになりやめた。現在は翻訳家。(富田記)
 


 


はじめに

 ブラジルは移民大国である。遠く遡って1824年のドイツ移民に始まって、1870年以後のイタリア人、1908年からの日本人、その他、ポルトガル、 スペイン、ポーランド人など、その数は幾百万にものぼる。 その中にあって、1866年からのアメリカ移民は、その数は2千とも4千とも言われるが定かで はない。これは他から見ると、比較にならない程の少数であった。しかし、彼らが当国に与えた社会的、文化的影響は決して少ないとは言えないと思う。 当 時、ブラジルは1850年の奴隷輸入禁止令の影響で、労働力の不足を感じ始めていたので、アメリカからの移民と言えば大歓迎であった。

 我々日系人にとっては、アメリカ合衆国からの人間は全て一律にアメリカ人である。ところが、ブラジルに移住して来たのは、概ねアメリカ南部の人であっ て、当時、北部の人間をヤンキーと呼び、確然と一線を画していた。 南部は大自然に恵まれ、気候も比較的温暖で、その広大な土地は棉作に適し、多くの奴隷 を使って大規模な農業を営む者が多かった。従って南部の社会は比較的に裕福だった。 その上、発展しようと思えば、広い北米のことである。西部には計り知 れない程の広大な土地がその開発を待っていた。 

 では何故、こうした楽園とも言うべき住み慣れた南部の土地を棄ててわざわざ8千キロも隔たった未開の国ブラジルへ移住しようとしたのか。それをここに解明したいと思う。

 何と言ってもアメリカ移民は我々日本移民よりも40数年も早く、当時ブラジルはまだ奴隷制度下の帝政国家であり、移民受け入れ態勢は整っていなかった。その上,彼等には母国からの支援はまったくなかったので、皆個人的な有志の奔走で移住が実現したものであった。

かように時代も違い、異なった状況の下で行われたアメリカ移民は、我々とは違った苦労もあったことと思う。

 日本移民もあと数年で100年を迎えようとしている。この時に当たって、先人たるアメリカ移民の歴史を探って見るのもあながち無駄ではあるまいと思い, この度、アメリカーナ図書館蔵書の中の移民に関する数冊を参考に、その内容を大まかにまとめて見たのがこれであって、決して正確な歴史的記述ではないかも しれないことの了解乞う。
 

 南北戦争とブラジルへの移民

 アメリカ合衆国は1776年建国以来、順調に発展して行った。

 在来からの13州の外に、イギリスやフランス、スペイン、メキシコ等から買収、合併などで、領土拡張を続け、終に19世紀の半ばには太平洋岸まで達し、 今日の51州が形成されるまでになった。 その開発は地理的関係上、1番ヨーロッパに近い東北部から始まったが、数々の領土拡張や大陸横断鉄道の進展にう ともない、次第に西南部へ広がっていった。

 南北戦争は丁度この時代に起こった。この戦争の直接的な原因は、奴隷及び関税問題の二つからであった。 もともと北部地方は早くから開かれ、それに人口 も稠密で、小農、商業、手工業など携わる者が多かったが、産業革命の影響を受けたこの地方は、その恵まれた地理的、人的資源を利用して急激な工業化が始ま り、たちまちにして全米市場を制覇するに至った。
 


  これに引き換え、南部の主な産物はタバコと綿花であって、その大農形態の生産は膨大な数の奴隷の労働力に依存していた。 その生産形態上、必ずしも奴隷 を必要としない北部では、当時、世を風靡しつつあった人道主義に則って奴隷解放を要望したが、これは南部の人にとっては、生きるか死ぬかの切実な問題だっ た。

 もう1つは関税についてであった。ヨーロッパから性能の良い安い製品がふんだんに入ってきた。それに対して、生まれたばかりで歴史の浅いアメリカの工業 界は到底太刀打ちできなかった。工業家たちは合衆国の政府に輸入品に対して関税をかけることを申請した。これは農業で生きる南部の者には大打撃であった。 即ち売る物は安く、買う物は高くなり、全ての点で南北の利害が相反するようになった。北部の人は改革を、南部の者は現状維持を望んだ。この時点で、もはや 政治的に解決することは難しかった。

 即ち、人口2000万を基盤する共和党相手に、わずか1100万の南部人を基とする民主党では国会でも勝負にならなかった。 残る道はただ1つ、即ち合衆国から独立して、南部州のみで、独自の国家を形成することであった。

  1860年、リンカーンが共和党から大統領に選出されると、これで望みなしと見た南部7州は、1861年2月、合衆国から独立、新たに「アメリカ連邦」 の名称の下に、新国家を形成することを宣言した。4月には新たに4州が加わり、全部で11州となった。国会はゼファソンを大統領に選出し、この時、独自の 貨幣や国旗も制定された。 これを見た合衆国政府は。この上は武力で制圧するのみ、とグラント将軍を司令官に任命、また南部では、リー将軍をもってこれに 立ち向かわせた。

 北部軍は、数においては勝っていたが、南 部軍の兵士は勇猛果敢で戦争慣れしていた。戦闘は1861年4月から始まり、両軍それぞれ一進一退の戦闘を繰り返していたが、1863年になって、南部軍 の進撃が強まり、一時はワシントン府まで脅かすまでなった。その後、北部軍の強い反撃にあって抵抗ままならず、そのうち、優勢な北部の海軍に大西洋岸を閉 鎖された上、物資の補給路だった主な陸路も押さえられた。かくて南部地方は困窮の極みに達し、戦争の継続はおろか一般民の生死の問題になるまでになった。

 リー将軍は、1865年4月、終にグラント将軍に対して和を講うた。その5日後、リンカーン大統領は南部の一刺客によって暗殺された。 戦争は終わった ものの、後が大変だった。一国の内戦とは言え、4年間、それもお互い死力を尽くして戦ったので、その犠牲者も両軍合わせて60万人を数えたと言う。

 それだけに傷痕も深く、物質的な被害はもとより、精神的な面で両陣営はお互いに深く憎しみ合うようになった。特に負けた南部側の惨状はひどく、この戦争 で失った身内のいない家族はなく、ある者は家を焼かれ、ある者は耕地を荒らされるなど、みる陰もなかった。 又、戦争後半になって、北部軍の中の軍紀の乱 れた兵士たちが、その勝ち戦に乗じて民家を襲い、略奪暴行などほしいままして歩くこともあったが、戦に負けた南部の人にはどうする術もなかった。

  講和後、北部人の南部人に対する報復が始まった。議会の主だった責任者への罰は勿論のこと、350万人の一般人に対しても、何らかの形で戦争責任を追及し た。その中の主だったもの15万人対して、何の査定もなく市民権を剥奪した。また行政面でも、政府派遣の税吏が南部へ来ると、些細なことで法外な罰金を課 したり、抵当権を乱用して、無法な安価で抵当物件を売却させて、南部人を泣かせた。

 南部全域に絶望がみなぎった。生産は零に近く、銀行は扉を降ろし、鉄道は不通、教会や学校さえも開かれなかった。人々はともすれば、生きる望さえ失いそうになった。 

 この時であった。ブラジル移民の話が南部一帯に広がった。絶望の淵にあった南部人はこれに飛びついた。このまま北部人の屈辱の下に生きて行くことは、南 部人にとって耐えられぬことだった。と言って、西部に移動してまた一から苦労を試みても、所詮、あの嫌なヤンキーの勢力下のことだ。同じ苦労をするなら と、既に南部の一部の指導者が視察していたブラジルへ渡って、新天地を切り開いて見てはどうかと考えたに相違ない。 10指にもあまる調査団が、ブラジル へ派遣された。その報告は、概ね「ブラジルは広大な国であって、土地は比較的平坦、気候は温暖、農業、特に綿作には適していると思われる。何よりも、未 だ、奴隷制度の下にあり、土地の価格も安く、人種偏見は少なく、総じて寛大な国柄であり、その皇帝ドン・ペードロにいたっては、アメリカ移民を心から歓迎 していて、あらゆる点で有望な国である」であった。

 アメリカ人の主なる入植地

 <その1>

 イグアッペ地方。この地方に入った入植者は3つに別れている。ニュー・テキサス植民地、リッジランド植民地、シシリカ植民地であった。

3個所とも同じような時期と経路を経て入植したので、ここではその代表的なニュー・テキサス植民地についてだけ述べる。 リベイラ地方への約150人の移 民が送り出された。しかし、途中、暴風雨に出合い、乗った船は、キューバのハバナ沿岸で、座礁するなどの困難があった。

  リオに着くと、今度は、リオ港の美しさに驚き、移民用の宿舎も立派なもので、食事も良かった。更に、ドン・ペードロ帝の来臨などあって、大いに気を良く した。しかし、サントス、イグアッペ、ジュキアーと進むと、段々と困難が増え、最後は丸木船に分乗することになり、大雨に合い、やっと、政府が立てたと言 うサッペ小屋に着いた。 入植と同時に移民達は失望した。その上、唯一の指導者が死亡した。指導者を失った移民達は惨めなものであった。 最初、彼等はア メリカの農業を真似て、雑作を試みたが、種々の悪条件に災いされて順調にはいかなかった。 先ず、第一に入植した地域は、低地が大部分でマラリア、その他 の疫病に犯されやすい不健康地であった。それに輪をかけたのが極度の交通不便なことだった。航路の終点までカノアで、3、4日かかる僻地での生活は、想像 に絶するものがあった。医薬品はなく、生活必需品は不足、生産物の価格は無いに等しく、移民達は如何にして生きていくか、その術を知らなかった。 それで も、中には最後までこの地方に居残った者があったとみえ、今でも当時の移民の後裔が数家族繁栄していると言う。

 <その2>

 リオ・ドーセ(エスピリト・サント州)向けの移民団の中には、医師、弁護士、農場主等が多かった。全員おおよそ200名であった。もとより彼等の先祖が 開拓したときの苦労や困難は覚悟の上であった。 リオ・ドーセ植民地の風景は、懐かしい美しい故郷にそっくりであった。そして、日常生活は快適であった。 年中寒さを知らず、着物は不自由しなかった。 然し、この平和な生活も長続きしなかった。1年後、悪性のマラリアが蔓延した。その上、30年来と言う旱魃 が襲って来て、農産物に甚大な被害を与えた。多くの人々が植民地を見放して退散していった。手に職をもつ者は町へ、そうでない者は他の植民地か、大都会へ と移って行った。

 その時代、リオは首府として、南米有数の繁栄を誇っていた。そこでは、腕の良い医者や歯医者の需要は無限であった。疫病と旱魃に痛め付けられたリオ・ ドーセの医者達が、このリオへ移転したのは無理からぬことであった。彼等がその才能を発揮して、多くの成功者を出したことと思う。 然し、その反面、リ オ・ドーセに居残った者は、悪戦苦闘、ほとんど数年のうちに四散してしまった。もっとも、中には最後まで頑張った者もいた。

 <その3>

 サンタレン植民地。アマゾン河、大西洋岸から、500マイル隔たった所にあった。109名が入植したが、入植6カ月経った頃、はや、多くの移民達が幻滅 を感じ、不服を述べ始めた。彼らは早速、ベレンのアメリカ領事館に、その援助を要請した。その理由の主なものとしては、ブラジル政府が約束した入植の際の 収容所はおろか、サンタレンまでの必要な道路の工事まで投げやりだったことであった。

 その外に州の副知事の経営になる売店がけた違いの暴利をむさぼって、移民の買う生活必需品の値がべらぼうに高く、反対に売るべき生産物は極度に買いたた かれた。これでは農民は立つ瀬がなく、働けど働けど、食うか食わずの状態だった。彼らに言わせれば、大体、植民地の選定からして間違っている。かような不 便な山奥で希望を持てず、一年中猛獣や風土病にさいなまれて、やせ衰えながら暮らすことに何の意味があるのだ。土地の肥沃だけでは解決しない。ここでは人 間の生きて行く最低限度の条件さえもあり得ないのである。とにかく、こうした要望に応えて、領事やバラー州知事は出来る限りの善後策を講じたが、一度浮足 立った入植者のベレンへの流出は引き留めることはできず、最初の200人が1874年にはわずか50人に減ってしまった。それは、見るに見かねる悲惨な状 態だったと言う。 それでも例外はどこにでもあるもので、郷里から十分の資金を持って来た人で、大々的にタバコ、甘藷、綿、ミーリョその他を栽培して成功 したと言う。サンタレンには、数人の南部人の後裔が盛業していると言う。

  ところが、これとは別に、アメリカのデトロイトから、一風変わったグループがアマゾンへ乗り込んできた。 それは当時の自動車王のフォードがこの地帯でゴ ム栽培をして、世界のゴム市場を制覇しようとした。 彼は、アマゾンも、アメリカ人のノウハウを持ってすれば、開発不可能なはずはないと思い込んでいた。

 植民地より80キロの地点に選定した。もちろん、ブラジル政府は、コネチカット州に匹敵するような広大な土地を無償で提供した。

 フォードは、この原始林の真っただ中にデトロイトを再現しようとした。ありとあらゆる資材がアマゾン向けに積み出された。密林の中に近代的な病院、薬 局、レストラン、宿舎、大倉庫、カラージ、修理工場などおよそ生産工程に必要な一切の設備が整えられた。その他に発電装置、水道設備、野球場、テニス・ コート、シネマ館、集会所など一応文化生活に必要な全てのものが整った。

 会社の幹部は、3千人余りの全従業員に対し、全てアメリカ式に行動することを要求した。大部分が無知蒙昧な土着人に住居を提供し、労働時間の厳守、制服の着用、果ては食堂のマナーに至るまで指導を怠らなかった。

 生来、はだしで育ったような地元の労働者には大迷惑であった。彼らにとって、戸締りが厳重で蒸し暑い住居よりも、開けっ放しの掘立小屋の方がよかった。 ナプキンやフォークの食卓よりも、風通しのよい戸外で、切り株にでも腰掛けて、手づかみで食べる方が性にあっていた。 その上メニューが問題だった。労働 者の健康を考慮した栄養満点の野菜や缶詰類は、彼らの口には合わなかった。

  終にある日、暴動が起こった。暴動と言っても、「フォード出て行け、ヤンキー帰れ」と言った類のものでなく、単に何十人かの労働者が、それぞれ棍棒を持っ て「エスピナフレを止めろ。缶詰はもうたくさんだ」などと叫びながら、食堂や事務所を荒らし回った。 経営者のフォードは、、機械の組み立てについての理 解はあったが、アマゾンのカボクロの心理状態を理解することは無理であった。 フォードはかような労働者を使うことの困難さや、アマゾンでゴム栽培に関す る技術的な問題もあって、1940年代の半ばころ、アマゾンから撤退した。

 <その4>

 パラナグァ植民地はパラナ州の海岸地帯である。

 然し、総体にパラナに入植したアメリカ人は、その数、数百を超えたであろうが、皆ちりぢりばらばらで、各自がそれぞれ遠距離に住んでいたので、連絡が緊 密を欠き、又、その地理的関係もあって、あの地方に多いヨーロッパ系移民と親しくなりやすく、彼らと雑婚したりして、次第に他民族との融合を速めて行っ た。 1870年以後になって、この地方の主だった有力者が次々と亡くなると、経済的に恵まれなかった者の中では、祖国の顕著な復興の状態を聞き伝える と、望郷の念絶ちがたく、再び帰国に踏み切る者が増えていった。

 <その5>

 サンタ・バルバラ・ド・オエステ植民地(アメリカーナ植民地)。

 アメリカ人が入ってくる前に、この1帯は、概ね、ボルトガル系の人で占められていた。 1830年代、この地には数多の製糖工場があって、それぞれ多く の奴隷を使って栄えていた。ところが1837年の砂糖価格の暴落以来、製糖業は一気に奮わなくなって、地主たちは廃業するか、新産業のコーヒー栽培に転換 するかの瀬戸際に立たされていた。 その折であった。1866年ころになると、ポツポツ、アメリカ南部の白人が入ってきた。彼らの中で資力のあるものは、 早速土地を買い始め、そうでない者は借地するか、農場の使用人になった。

 彼らにとって、幸いなことは、当時、甘蔗が不況で、コーヒー栽培への転換期であった為、比較的に地価が安く、中には農業に見切りをつけた耕主などが、その農場を居抜きのまま格安に手放す者もあったりして、本国から十分な資金を携えてきた者などは.多いに幸いした。

 1872年から1876年の間に、サントス・ジュンジアイ鉄道がカンピーナス経由、リオ・クラーロまで達したとき、周辺に350家族が集まっていた。

  19世紀末になって、それまでの主な農産物、特に棉、コーヒー、甘蔗などが思わしくなくなると、それに取って代わったのが西瓜であった。だれが、何時、 何処からその種を持ち込んだのか分からないが、すこぶる美味な上に皮が強靭だったので長距離輸送に耐え、その販路は広く、サントス、サンパウロ、その他の 地方都市にまで送られた。 その栽培が盛んになって行き、数年にして、この地方の農産物としての王座を占めるようになった。

 然し、一時的ではあったが、巷に黄熱病が発生した時など、その原因が西瓜にあるのではないか、と言うことになって、ぴたりとその売れ行きが止まってし まった。生産者は困窮してアメリカ領事館に駆け込んでその救済方を依頼してみたが、領事も別に為す術もなく、せいぜい、公衆の面前で、これ見よがしに西瓜 を頬張って見せると言った喜悲劇の一こまもあったという。 こうして、サンタ・バルバラの西瓜はアメリカ人によって始められ、又、大量生産されたが、不思 議なことに、一般にはイタリア移民の手によって生産されたことになっている。

 サンタ・バルバラ駅はビーラ・アメリカと呼ばれるようになり、1904年以後は、アメリカーナと称される様になった。

 1902年にサンタカタリーナ州からドイツ系のミラーがアメリカーナにやって来て、それまで閉鎖されていた紡績工場を再生させた。この工場の再生は近隣の労働力を吸収し、大いに町の活性化につながった。

 また、ジョーンスは、スイスから絹織機を取り寄せて絹織物工場を作った。最初は紡績機2、3台で、一家全員で経営に当たったが、次第に発展、大工場を持 つまでになった。 こうした例は彼一人ではなく、その後同じようなケースで、続々独立する者が出てきて、アメリカーナ市はブラジル有数の織物工業の町と称 されるようになった。

 こうしてアメリカ人の入植した、数ある植民地の中の唯一つ、アメリカーナだけが生き残って繁栄の道を歩んだ。

 アメリカ移民のブラジルに残した功績              

 <その1 宗 教>

 ブラジルにおけるアメリカ人の宗教活動は遠く1859年、即ちアメリカ移民の来伯以前から始まった。この年の8月、プレスビテラーノ派のシモントン牧師 がリオ・デ・ジャネイロに到着、その2年後の1861年から、ポルトガル語で説教を始めた。 初めは3、4人の聴衆だったが、1862年1月、彼らはリオ に教会を建設、現在では数百人の信者によって支えられている。

 さて南部人が実際にブラジルに移住して見て、直ちに切実な問題にぶつかったことは、死者の埋葬であった。イグァッペ、リオ・ドーセ、サンタレンのような 原始林の中では問題はなかったが、既に開けていたサンタ・バルバラ地区では、彼らはプロテスタントであったため、旧教を奉じるブラジル人の墓地に埋葬する ことは許されなかった。

  この墓地のことは、臨時にアメリカ人から土地の提供を受けて解決したが、もともと彼らは信仰に厚かった。開拓という過酷な仕事の決行に信仰生活は欠くべ からざるものの一つであった。彼らは本国へ宗教家を急遽派遣してくれるよう要請した。 それによって1870年6月、サン・ルイス農場にエマーソン,バイ アード両牧師、その他11人の信者によってプレスビテラーノ教会が設立された。

 その後、1870年になって、メソジスト教会が、サンタ・バルバラのカンポ地区に建てられ、その責任者にニューマン牧師が任命された。この時の主だった メンバーは47人であった。 こうして年と共に、陸続とアメリカから伝道者がやってくるようになり、また彼らの大半がブラジルに居着いて主だった大都会で 大いに新教の伝道に努めた結果、相当数のブラジル人までが、改宗していったことは、やはり宗教界における貢献の一つであろうか。

 当時、アメリカ人がこのカトリックの国ブラジルであまり大きな抵抗にもあわず、新教の布教ができたことは、むろん、この国民が穏健であったこともあるが、もう一つはその時期が良かったからである。 当時、ブラジルでは、盛んに政治と宗教との分離が唱えられていた。

 宗教的立場から権威を主張する教会側と政治的見地から行政を重んずる官僚との間の争いで、両方とも疲れ果てて、些細なプロテスタントの布教のことなどは 大目に見るような状態だった。又、ドン・ペドロ帝も、アメリカ移民に対しても信教の自由を保障していたからでもあった。

 

<その2 教 育>

 アメリカ移民はその子弟教育にも熱心であった。彼らにとって、宗教と教育とは1つのものであり、子供たちは幼い頃から教会の日曜学校へ通い始め、長じては、小学、中学、高等学校などと、ほとんどが教会付属の学校で教育を受けるのが慣わしだった。

 学校のない所では、親、兄弟が教師の役目を果たすこともあったが、とにかく、彼らにとって学校の有無は真に切実な問題だった。従って、彼らは入植後、落 ち着くや否や、早速、子弟の教育のことを考え、教師として必ず最初に保母、尼、修道女などを求めたが、それでも尚、不足する時は、本国から伝道者などと一 緒に呼び寄せることもあった。

  その結果、最初は初等学校、次に中等学校、そして高等学校と、年を追ってアメリカ系の学校は増えて行った。特に中学校、高等学校などにいたっては、ただ に彼らの植民地のみならず、サンパウロ、カンピーナス、リオ・デ・ジャネイロ、クリチーバ、ベロ・オリゾンテなど移民の存在に関係なく、すべからく、プロ テスタントの行く所、その信教的信念に燃えて、着々と理想を実現していった。

 学校名(所在地)               創立年度

マッケンジ大学(サンパウロ)          1870

インターナショナル高校(カンピーナス)    1868  

ピラシカーバ高校(ピラシカーバ)        1818

モートン高校(サンパウロ)            1880

ベンネット高校(リオ・デ・ジャネイロ)      1888

グランベリー高校(ジュイス・デ・フオラ)     1889

アメリカーノ高校(タウバテ)            1890

インターナショナル高校(ラプラス)        1892

ペトロポリス高校(ペトロポリス)         1898

ヘンドリック高校(ベロ・オリゾンテ)       1900

エスコーラ・アメリカーナ(クリチーバ)      1909

 

その中の主だった高校とその所在地、及び創立年度をあげると上記のごとくである。

この外にあの有名なピラシカーバのルイス・ケイロース農科大学は元アメリカ人の1農場だったし、工科で有名なサンパウロのマッケンジー総合大学の前身はエ スコーラ・アメリカーナであった。今でこそ、幾多の優秀な公立大学が存在するが、帝政時代のブラジルでマッケンジーと言うアメリカ人の篤志家が当時の金で 5万ドル、ポンと投げ出して建設が始まったと言うが、誠に当時としては稀有なことであったであろう。あれから時は流れて130年、その間どれだけ多くの人 材がここから輩出されたことか、それだけでも彼等のこの国に対する貢献は小さいとは言えない。

 <その3 農業、その他>

 アメリカ移民はサンタ・バルバラ地方の農業耕作方法を一変させた。彼等は母国から持ってきた犂を馬に引かせて、畑を耕しだした。在来のエンシャーダ方式と違って、数倍の能率があがる上に、土を深く掘り起こすので、作物にも好影響を与えた。

 それを知った付近のブラジル人農家は驚いた。彼らはそれまで馬耕と言うものを見たことがなかったので、競ってアメリカ人の許へやって来てその教えを請うた。 その結果、この地方に馬耕ブームが広がり、アメリカ式の犂製作所が繁盛して大儲けする者まで出てきた。

  一方、アメリカ人の中には、南北戦争で疲弊してしまった農場主などもいてそれらの中、自立する資金のない者は、その経験を買われて、土地のブラジル人の農 場の支配人,又は管理人として雇われて行くこともあった。 ある南部人はポツカツ方面で、当時のサンパウロ市内の重要な交通機関であった、鉄道馬車を引く 馬の欠くべからざる飼料であったアルファッフアを大量生産し、関係者に喜ばれていた者もあった。

  又、アメリカ人は、都会で使う大掛かりな四輪馬車の代わりに、田舎で使うこぐ手軽な二輪馬車を考案して大いに普及させた。 一方、移民の中には、医者や 歯医者も相当数いたので、これらの大部分はリオやサンパウロなどの大都会へ出て活躍したものだと言う。 その他、後世になって、有名な歌手リタ・リーヤ、 イギリス系ではあるが、蔵相になったジョ・マリア・ウイタケルなど、芸術や政治方面で傑出した人物も出たが、もっと綿密に調べれば相当数のアメリカ系人物 が、上流階級に存在してると思う。

 むすび

 ブラジルのアメリカ移民は、数の上では成功したとは言えないかもしれないが、少数にしては意外に良い結果をもたらしている。これを日本移民に比較して見ると、彼らにも利点、不利点があったことが分かる。

 先ず、不利点は、彼らは入植に際し、国の後押しがなかったことである。これが他の国、たとえば日本やイタリアなどの移民と根本的に違う所であった。こう言った国では、国土は矮小、人口は稠密、国策として移民を奨励させていた。

  これに対し、アメリカは大国であって、むしろ移民受け入れ側とも言えた。当時は長期にわたった南北戦争の直後だったこともあって、政府にも移民問題に介 入する余裕もなかったこともある。 又、当時は、急速な大陸横断鉄道の発達によって、広大な西部の原野が、その開発をいまや遅しと待っていたのである。  現に南部の有識者がブラジル熱に浮かれていた最中、ただ一人、もと南部軍総帥だった、リー将軍だけは、他国への移民に激しく反対し、この荒廃した郷土の再 建こそが南部人の義務であると叫びつづけた。ここに南部人のブラジル移民が永続しなかった理由があった。 成る程、彼らのブラジル移民計画も一時的な気持 ちで実行しようとしたことで無かったことは、内戦終了と同時に、10指に余る調査団が派遣されたのを見てもわかる。

  これをわずか2、3人の見聞記を基に、水野竜によって始められた日本の移民から見ると、如何に彼らが慎重であったかが理解できよう。

 誠に一時は南部人の中にもブラジルへの移民の数を、少なくとも5万、あるいは10万を想定した者もいたと言うが、それがわずか2、3年のうちに中絶、そ の後はかえって帰国する者が増えたということは、種々の原因からだったであろうが、1つには矢張り、ブラジルの国情が彼らの郷土とは雲泥の差があり、予想 以上の困難に遭遇したためと思われる。

  それが証拠に、イグァッペ、リオ・ドーセ、サンタレンなどの原始林地帯に入った連中は、極く少数を除き、退散している。辛うじてアメリカーナ地方が後世 まで姿を止め、発展もしたが、これは、この地が他の植民地に比して、極めて有利な点があったせいである。この地帯に彼らが入ってきた時には、既に原住民が 居って、その中へ割り込んで行ったようなもので、好条件がそろっていた。

 即ち、交通は至便、生産物の消費市場の存在、肥沃な地味、健康地、多民族との交流んなどであった。 反面、他の植民地の不成功の原因の一つにブラジル政 府による公約条件の不履行ということもあったが、これも政府にして見れば、アメリカ移民に対する期待外れがその1つではなかったかと思う、最初1867年 に少数ながら、陸続とリオ・デ・ジャネイロに入ってきた時、ドン・ペードロ帝が彼らを異常なまでに歓待したと言うが、この時分、政府筋では、アメリカ移民 導入に少なくとも、何万という数字を期待していたのではなかったかと思われる。

  1850年の奴隷輸入禁止以来、ブラジルは労働力不足に悩まされてきたが、ヨーロッパ移民の導入が不成績で、最後の望みをアメリカ移民にかけていた。そ のわずか数年で中絶、大半が不成績で終わったとなると、政府も拍子抜けである。つい公約も滞り勝ちになったのもむべなるかなであったろう。 一方、南部人 にしてみれば、敗戦で一時的に気が立って、ヤンキーの風下には立つまいと、しゃにむにブラジル落ちまでして見たが、やはり異国の風は厳しかった。

 予想外の悪条件の下での生活で苦しみながら故郷を偲んでいるうちに風の便りに、母国ではヤンキーの圧迫も薄らぎ、南部地方の復興や西部方面の開拓などの うわさが伝わってくると、矢も楯もたまらず、次第に帰国する者が増えてくるようになった。その時、少しでも資力のあった者は、自力で帰国して行ったが、そ うでなかった者たちは、自国の領事館に苦情を訴え、その周旋の下にアメリカ海軍差し回しの軍艦に分乗などして、帰国して行ったと言う。

  どうしてこう言う結果になったか?色々原因はあろうが、一つには南部人のブラジル移民についての認識不足からだった。彼らは4年間、死力を尽くして戦っ てきた戦争に敗れて逆上した、それに輪をかけたのが、北部人の南部人いじめだった。 両軍ともに多くの犠牲を出し、その恨みは深刻にのこった。勝者は敗者 を故なく裁く、数年間いじめられ、虐げられた南部人は居たたまれず、そこから逃避しようとした。同じ逃避するなら思い切って、全然ヤンキーの息のかからな い外国へ行こう。開拓の苦労は昔祖先もやったことだ。我々がもう一度それをやれば良いのだ。そう言った軽い気持ちで彼らはブラジルを選んだものと思う。こ れが間違いのもとだった。

  そのことはアメリカ開拓時代のファロエステ映画を見ても分かる。彼らは、概ね集団的に幌かけの大馬車で移動しながら、お互いに助け合って開拓していく シーンがあるが、国情の違ったブラジル、とくに千古斧を知らぬ密林相手ではそれは不可能なことで、勢い孤立した形態を取らざるを得なかった。 このこと は、実際に入植した彼ら自身も気付いていた。アメリカ南部で開拓した時のように、各地で部落を作ると同時に、その中心部に売店様のものを設けてお互いの便 宜を計ったと言うが、これがブラジルでは行われず、結局、道もない奥地で孤立してしまったため失敗したと述べている。

  翻って、彼らが持っていた利点ということを考えると、勿論この国への同化を前提としての話だが、第一に人種的に有利であった。彼らは日本人と違って、同 じ西洋民族のポルトガル系のブラジル人とはあらゆる点で似通うところがあった。 言葉にしても、根本的に異なった日本の象形文字に対し、ポ語と同じ流れの 音標文字の英語はこの国の人たちに親しみやすかった。当時から世界語だった英語は、むしろブラジル人の方から進んで習得しようとした。

 又、食生活にしろ、風俗習慣にしろ、似通った所があって、根本的に異なった東洋民族の日本人から見ると、比較にならない程の利点があった。彼らの離農の際、あるいは第2の発展を目論んで都会へ志した時など、これらの要素が大きく幸いした。

  次に、彼らは渡伯の際、相当な資本を携えて来たものが多かった。農民でない、元軍人、医者と言った階級の者が、ただ経済的な理由からではなく、ヤンキーか ら逃げ出すようにしてブラジルにやって来た彼らであったから、資力のある者が多かった。 ただし、これが入植の際、果たして有利になったか、不利になった かは別問題で、若し原始林に入った場合、不慣れな労働に耐え切れず、短所になったが、反対にアメリカーナのような半開地では、この資力で既成農場を買うこ とができ、今日のアメリカーナ市が出現したのである。

  アメリカ移民の残した功績の主なものにその学校教育がある、彼らは入植後わすか三十数年の間に、10の高校と1つの総合大学を建設した。 南米1と言わ れたマッケンジー大学の創立は素晴らしい。特に、その工科は有名である。 これを我が日本移民と比べると忸怩たる思いがする。彼らの100倍以上の移民が 入植してはや100年近くになるが、その間、大学どころか、気の利いた日本語学校一つ建てられないでいる。 宗教方面にしても、彼らは入植と同時に母国か ら牧師を呼び寄せて布教活動を始めたのに対し、日本移民は帰国する場合のことを優先して、宗教面では何十年もの間なおざりにして置いた。戦後になってよう やく日本から種々の宗派の仏教が渡来するようになった。 最近に至っては、半世紀以上も存続した地元の唯一の日系銀行が身売りし、生え抜きの複数の日系産 業組合も破産した。残ったものは非生産的な文化協会だけである。それも何時まで続くか危うい限りである。

  思うに、民族性の相違とはどうしようもないことである。このことはアメリカ移民の場合にも当てはまる。彼らは日本移民と違い、政府の後援もなく、自発的 に渡伯したにも拘わらず、いざ入植して理想通りでなかったと知るや、直ちに本国の出先官憲に助けを求めたことだ。たかが西瓜が売れなくなったと言って、領 事館に駆け込んだサンタ・バルバラや、不便な山奥だからと、総領事館に訴えたアマゾンのサンタレン、又、困窮だからと言って帰国を要望し、本国の軍艦まで 動員させたなど、到底、日本移民の場合では考えられないことだった。  (完)
 


この記事は 「のうそん247号」(日伯農村文化振興会発刊)より、同誌と筆者の許可を得て転載しました。  ( Trabras )  

 

 

 

                                    


 

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