ペルーの日系人

                                                                                                                                                                                      眞砂 睦

 

  ペルーと日本は移民を通じて深い縁で結ばれています。1908年に始まったブラジル移住より9年前、南米最初の移民として1899年に日本人790人が初めてペルーに渡りました。以後、第二次世界大戦までに3万3千人ほどが移住し、現在およそ8万人の日系人が住んでいると言われています。

 しかし、初期のペルー移民は大変な苦労を強いられました。契約労務者として配属されたサトウキビや綿花の農場での労働は過酷を極めたうえに極端な低賃金のため、希望を失った日本人の大半は早々に農場を逃げ出します。多くはリマなどの都会に出て、小さな洗濯屋や食料品店などで生計をたてるようになります。一部の移民たちは、20世紀初頭に最盛期を迎えていたアマゾンのゴム・ブームにあやかろうと、峻嶮なアンデス山脈を越え、アマゾン河の支流をつたってブラジルに流れていきます。移民史上、「ペルー下り」として、その過酷な難民人生が今に語り継がれています。ペルーは平野が少なく、ブラジルのように新たに開拓できる広い土地が残されていなかったために、越境逃避をせざるを得ないような境遇に追いつめられてしまったのです。
 ペルーに残った移民たちの人生も波乱に満ちていました。働き者の日本人です。慣れない仕事でも順調に業績を伸ばして、次第にペルー人たちと商売上の競合関係になっていきます。それにつれて反日気運が高まって、ついには日本人の店の商品が略奪されたり、焼き討ちにあったりという事態まで発生しました。


 そんな折、第二次大戦が勃発しました。ペルーは連合国側についた為、日本は敵国になってしまいました。ここからまた新たな日本人移民の苦難が始まります。ペルー在の主だった日本人が強制的に米国に連行され、収容所に入れられたのです。日本人は家や財産を没収され、着の身着のままでした。米国は、太平洋の戦いで日本軍の捕虜となった米国人と捕虜交換をするための人質として、南米の移民に目をつけたのです。米国はペルー政府に経済援助を約束し、その引き換えに日本人を連れ去りました。日本人を金で買ったのです。米国はブラジルに対しても日系人を差し出すよう要請しましたが断られました。太平洋地域の戦場で、米国人捕虜の数が日本人捕虜の数を大きく上回っていましたので、捕虜交換のために米国はなんとしても日本人の人質を確保したかったのです。


 結局、ペルーから2300人を超す日本人が米国に連行されました。そのうち500人ほどが実際に交換捕虜として、戦時の日本に強制送還されたようです。その上、ペルーの日本人は連行される際、旅券も査証も発行されませんでしたので、戦争が終わると、なんと「米国への不法入国者」とされてしまいました。そのため大半のペルー移民は戦後日本に強制送還されました。米国の日系人も強制収容所に隔離されましたが、彼らは長年の法的な戦いの末、1988年米国議会で日系人の自由や財産を強制的に奪った蛮行に対して正式に謝罪させ、補償も勝ち取りました。しかし、ペルーの日系人に対しては、今日までなんの謝罪も補償もされていません。

国際社会は力がすべてです。ルールは勝った者に作られてしまいます。私たちがすぐ思い出すのは、終戦後連合国によって日本が犯罪国と断罪された、あの「極東国際軍事裁判」(東京裁判)でしょう。あの裁判では、「平和・人道に対する罪」を犯したという罪で一部の日本人が戦犯とされ、日本は戦争犯罪国とされてしまいました。ところが、この「平和・人道にたいする罪」などという国際法はどこにも存在していませんし、そもそも「戦争自体は法の外にある」というのが国際規範です。戦争というのは、そこに至るまでにさまざまな因果関係が複雑にいりくんでいるのが通常で、どの国が正しいかなどと簡単に決められるものではないからです。ナチスのようにユダヤ人(一般市民)を「計画的に」虐殺するといったような犯罪を犯さない限り、国際社会には特定の個人に戦争の罪を負わせるというルールもありません。にもかかわらず、法を無視した裁きで「A級戦犯」などという、無実の罪をきせられた日本人が死刑に処されました。


  「罪刑法定主義」といって、「裁判で罪を問うためには、それが罪だと定める法律がなければならない」というのが民主主義の鉄則です。「法のないところに犯罪はなく、従って刑罰もない」のです。その大原則が東京裁判では全く無視されました。日本が押し付けられた「平和に対する罪」は、なんと裁判の前に連合国がでっちあげたものだったのです。まことにこれは裁判などではなく、戦勝国による「リンチ」そのものです。事実、この裁判を主導したマッカーサーは、裁判の1年ほど後に、時のトルーマン大統領に「あの裁判は間違いだった」と告白しています。さすがに自ら犯した「文明を踏みにじる蛮行」に対する罪の意識にさいなまれたのでしょう。
それにしても、終戦から70年も経つというのに、「A級戦犯」という「でっちあげられた罪」が中国や韓国に政治的に利用されて、日本の指導者の靖国神社参拝にたいして、執拗な「内政干渉」が繰り返されています。日本はこうした近隣諸国の理不尽ないいがかりにたいしては、断固とした対応をしなければなりません。日本には「A級戦犯」など居なかったのですから。

 

 ともあれ、先の大戦では日本人もペルーの日系人も、戦勝国による国際規範を無視した理不尽な蛮行の犠牲となりました。
しかし戦後のペルーの日系人の活躍は目覚ましいものがあります。なかでも1990年、日系二世のアルベルト・フジモリ氏がペルー共和国大統領となり、世界で最初の日系大統領が誕生したのは特筆されます。フジモリ氏は当時頻発していたテロの撲滅と貧富の格差の是正を掲げて、国立農業大学総長から政治の世界に身を転じました。1996年、在ペルー日本大使館がテロリストに占拠され、大使はじめ日本の企業関係者などが人質となる大事件が発生しました。人質は126日間も拘束されますが、極秘のうちに大使館地下に掘ったトンネルから、機動隊を突入させてテロリスト全員を射殺、奇跡的に日本人人質全員を救出しました。この事件を解決した大統領の指導力が内外から称賛されました。氏は3期にわたり大統領に選出されますが、3期目のなかばに政争に敗れて下野を余儀なくされました。

 

  もちろん、大統領を輩出したことが全てではありませんが、8万人ほどしかいないマイノリテイ―集団のなかから、一国の大統領を出せたというのは、ペルーの日系人が国民から信頼されているからこそでしょう。
ペルーに限りませんが、現在では徐々に混血も進んで、どこまでが日系人なのかという線引きも難しくなってきました。それでも、正直で働き者で教育熱心といった日本人移民のDNAは、彼らの血のなかに隠し持たれているように思えます。派手なパフォーマンスは苦手ながら、日系人は堅実な社会の中間層となって地道に国の活動を支えているといえます。商品を略奪されたり店に火を放たりされた、戦前の暗い時代は遠い昔の物語となりました。 (2013.2.24掲載)        

 

 

  

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ペルーの日系人

 

 

  ペルーと日本は移民を通じて深い縁で結ばれています。1908年に始まったブラジル移住より9年前、南米最初の移民として1899年に日本人790人が初めてペルーに渡りました。以後、第二次世界大戦までに3万3千人ほどが移住し、現在およそ8万人の日系人が住んでいると言われています。

 しかし、初期のペルー移民は大変な苦労を強いられました。契約労務者として配属されたサトウキビや綿花の農場での労働は過酷を極めたうえに極端な低賃金のため、希望を失った日本人の大半は早々に農場を逃げ出します。多くはリマなどの都会に出て、小さな洗濯屋や食料品店などで生計をたてるようになります。一部の移民たちは、20世紀初頭に最盛期を迎えていたアマゾンのゴム・ブームにあやかろうと、峻嶮なアンデス山脈を越え、アマゾン河の支流をつたってブラジルに流れていきます。移民史上、「ペルー下り」として、その過酷な難民人生が今に語り継がれています。ペルーは平野が少なく、ブラジルのように新たに開拓できる広い土地が残されていなかったために、越境逃避をせざるを得ないような境遇に追いつめられてしまったのです。
 ペルーに残った移民たちの人生も波乱に満ちていました。働き者の日本人です。慣れない仕事でも順調に業績を伸ばして、次第にペルー人たちと商売上の競合関係になっていきます。それにつれて反日気運が高まって、ついには日本人の店の商品が略奪されたり、焼き討ちにあったりという事態まで発生しました。

 そんな折、第二次大戦が勃発しました。ペルーは連合国側についた為、日本は敵国になってしまいました。ここからまた新たな日本人移民の苦難が始まります。ペルー在の主だった日本人が強制的に米国に連行され、収容所に入れられたのです。日本人は家や財産を没収され、着の身着のままでした。米国は、太平洋の戦いで日本軍の捕虜となった米国人と捕虜交換をするための人質として、南米の移民に目をつけたのです。米国はペルー政府に経済援助を約束し、その引き換えに日本人を連れ去りました。日本人を金で買ったのです。米国はブラジルに対しても日系人を差し出すよう要請しましたが断られました。太平洋地域の戦場で、米国人捕虜の数が日本人捕虜の数を大きく上回っていましたので、捕虜交換のために米国はなんとしても日本人の人質を確保したかったのです。

 結局、ペルーから2300人を超す日本人が米国に連行されました。そのうち500人ほどが実際に交換捕虜として、戦時の日本に強制送還されたようです。その上、ペルーの日本人は連行される際、旅券も査証も発行されませんでしたので、戦争が終わると、なんと「米国への不法入国者」とされてしまいました。そのため大半のペルー移民は戦後日本に強制送還されました。米国の日系人も強制収容所に隔離されましたが、彼らは長年の法的な戦いの末、1988年米国議会で日系人の自由や財産を強制的に奪った蛮行に対して正式に謝罪させ、補償も勝ち取りました。しかし、ペルーの日系人に対しては、今日までなんの謝罪も補償もされていません。

国際社会は力がすべてです。ルールは勝った者に作られてしまいます。私たちがすぐ思い出すのは、終戦後連合国によって日本が犯罪国と断罪された、あの「極東国際軍事裁判」(東京裁判)でしょう。あの裁判では、「平和・人道に対する罪」を犯したという罪で一部の日本人が戦犯とされ、日本は戦争犯罪国とされてしまいました。ところが、この「平和・人道にたいする罪」などという国際法はどこにも存在していませんし、そもそも「戦争自体は法の外にある」というのが国際規範です。戦争というのは、そこに至るまでにさまざまな因果関係が複雑にいりくんでいるのが通常で、どの国が正しいかなどと簡単に決められるものではないからです。ナチスのようにユダヤ人(一般市民)を「計画的に」虐殺するといったような犯罪を犯さない限り、国際社会には特定の個人に戦争の罪を負わせるというルールもありません。にもかかわらず、法を無視した裁きで「A級戦犯」などという、無実の罪をきせられた日本人が死刑に処されました。

  「罪刑法定主義」といって、「裁判で罪を問うためには、それが罪だと定める法律がなければならない」というのが民主主義の鉄則です。「法のないところに犯罪はなく、従って刑罰もない」のです。その大原則が東京裁判では全く無視されました。日本が押し付けられた「平和に対する罪」は、なんと裁判の前に連合国がでっちあげたものだったのです。まことにこれは裁判などではなく、戦勝国による「リンチ」そのものです。事実、この裁判を主導したマッカーサーは、裁判の1年ほど後に、時のトルーマン大統領に「あの裁判は間違いだった」と告白しています。さすがに自ら犯した「文明を踏みにじる蛮行」に対する罪の意識にさいなまれたのでしょう。
それにしても、終戦から70年も経つというのに、「A級戦犯」という「でっちあげられた罪」が中国や韓国に政治的に利用されて、日本の指導者の靖国神社参拝にたいして、執拗な「内政干渉」が繰り返されています。日本はこうした近隣諸国の理不尽ないいがかりにたいしては、断固とした対応をしなければなりません。日本には「A級戦犯」など居なかったのですから。

 

 ともあれ、先の大戦では日本人もペルーの日系人も、戦勝国による国際規範を無視した理不尽な蛮行の犠牲となりました。
しかし戦後のペルーの日系人の活躍は目覚ましいものがあります。なかでも1990年、日系二世のアルベルト・フジモリ氏がペルー共和国大統領となり、世界で最初の日系大統領が誕生したのは特筆されます。フジモリ氏は当時頻発していたテロの撲滅と貧富の格差の是正を掲げて、国立農業大学総長から政治の世界に身を転じました。1996年、在ペルー日本大使館がテロリストに占拠され、大使はじめ日本の企業関係者などが人質となる大事件が発生しました。人質は126日間も拘束されますが、極秘のうちに大使館地下に掘ったトンネルから、機動隊を突入させてテロリスト全員を射殺、奇跡的に日本人人質全員を救出しました。この事件を解決した大統領の指導力が内外から称賛されました。氏は3期にわたり大統領に選出されますが、3期目のなかばに政争に敗れて下野を余儀なくされました。

 

  もちろん、大統領を輩出したことが全てではありませんが、8万人ほどしかいないマイノリテイ―集団のなかから、一国の大統領を出せたというのは、ペルーの日系人が国民から信頼されているからこそでしょう。
ペルーに限りませんが、現在では徐々に混血も進んで、どこまでが日系人なのかという線引きも難しくなってきました。それでも、正直で働き者で教育熱心といった日本人移民のDNAは、彼らの血のなかに隠し持たれているように思えます。派手なパフォーマンスは苦手ながら、日系人は堅実な社会の中間層となって地道に国の活動を支えているといえます。商品を略奪されたり店に火を放たりされた、戦前の暗い時代は遠い昔の物語となりました。 (2013.2.24掲載)        

 

 

  

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