【ニッポン歴史探訪】江戸の行楽地(1)

                                          

幕府は、庶民のための行楽地を整備しました。その多くは今なお都民に利用され親しまれています。
桜見では、隅田川堤 (すみだがわづつみ、夏は「両国の花火」で賑わいました)、品川の御殿山 (ごてんやま  )、上野寛永寺、近郊第一の桜の名所といわれた飛鳥山(あすかやま  JR王子駅至近) などが有名でした。なお、品川の御殿山には江戸初期、将軍が鷹狩りのとき休憩される御殿がありましたが、元禄時代火事で焼けたため、吉野山の桜を植え桜の名所としました。今では桜の名所とは言えません。ところで、現在の桜の本流である「ソメイヨシノ」は、吉野山とは無関係で、幕末に染井 (そめい  現在の東京都豊島区駒込) の植木屋が生み出したものです。


次に、五代将軍綱吉(つなよし)の出した「生類憐み(しょうるいあわれみ)の令」(= 犬などの生きものを可愛がるようにとの命令)の関(かか)わりで中野に広い敷地(今の中野区役所、中野駅一帯を含む広大地) を持つ「犬小屋」が作られました。しかし、評判がわるく、「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれた綱吉が亡くなるとすぐ廃止されました。そこで、あと地に桃の木を植え、築山(つきやま)のある「中野の桃園」に育て上げ、多くの桃見客を寄せ付けました。いまでは、ビルが建ち並び、その面影は残っていません。


江戸庶民にとって、日枝神社(ひえじんじゃ)の山王祭(さんのうまつり)、神田明神(かんだみょうじん  )の神田祭、浅草三社祭(さんじゃまつり)などは心を躍らせるものでした。勧進相撲(かんじんずもう)の両国の回向院 (えこういん)も皆の楽しみでした。
盛り場の両国広小路(りょうごくひろこうじ)、浅草寺(せんそうじ)奥山などでは見世物小屋や大道芸人(だいどうげいにん)がたくさん出て人集めに寄与(きよ) しました。
江戸四宿( 品川宿、板橋宿、内藤新宿、千住宿)の各宿場は江戸庶民にとって日本橋から比較的近距離(2里程度) にあるため旅の投宿地というよりは行楽地として大いに利用されました。                       つづく
                                    

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