【ニッポン歴史探訪】後三年の役 概要

                                 黒瀬 宏洋

 

1062年に終わった前九年の役を生き残った七歳の藤原清衡とその美貌の母親 (名前は定かでなく、仮に  「ゆう」と呼びます) の運命は、果たしてどうなったでしょう?
 安倍貞任の妹で藤原経清(つねきよ)の妻であった「ゆう」は、鎮守府将軍・清原武則の嫡男である清原武貞 (たけさだ)と再婚します。武貞には既に前妻との間に嫡男・真衝 (さねひら) がいます。連れ子の清衡 (きよひら)も清原武貞の養子となります。また、まもなく、武貞と「ゆう」の間に家衡 (いえひら) が生まれます。これら父違い又は母違いの三兄弟は20年後には、真衝は四十歳前後、清衡が二十七歳、家衡は二十一歳前後になっています。
 鎮守府将軍の父・武貞は既に亡くなり、嫡男の真衝が、鎮守府将軍に任命され、清原本家の首長として清原グループを束ねています。真衝は本拠地を山北(せんぼく)から、奥六郡に移し、白鳥村(前沢町) の近くに館を建てました。同時に、清衡、家衝も移住してきました。真衝には嫡子がいないため、養子をとり、養子の成衝 に源と縁の深い嫁を迎えようとしています。しかし、グループの長老 や弟達の間では、自分達の存在を無視し、まるで「従者」扱いにする真衝のやり方に不満が強まっています。


<後三年の役の発端 (1083年)>
   前九年の役で大活躍した長老・吉彦(きみこ)秀武が、成衝の結婚祝いに真衝館にやってきました。真衝はちょうど碁に熱中しており、御祝いの大盛りの砂金を捧げもっていた秀武をそのまま 長時間放置しました。堪忍袋の緒を切らせた秀武は砂金を庭にぶち撒け、出羽の自分の領地に戻っていきました。それに怒った真衝は秀武を討伐するため出羽に兵をだしました。こうして後三年の役が始まりました。秀武は、あらかじめ、真衝に不満を抱く清衡と家衡をそそのかして、2人を味方に引き入れていました。 清衡と家衡は、兵を引き連れ真衝館に向かう途中、真衝が直轄する昔から経済的に重要な白鳥村を襲い民家四百余戸を焼き払いました。それを聞いて、真衝はすぐ出羽から引っ返しましたが、清衝・家衡も兵を引いたので、両すくみ状態になった真衝は身動きできません。そんな時、源義家が鎮守府将軍・陸奥守となって、にわかに、東北に下ってきました。
  真衝は、将軍のため早速大歓迎会を開き、将軍のご機嫌をとり、将軍を味方につけました。その上で、真衝は安心して成衝を館に残して、秀武の征伐に再び出羽に向かいました。その隙に清衡・家衡の方は真衝館を襲撃し、守備勢の一角を占める将軍の軍と戦うはめになりました。
  ところで、源義家は、前九年の役の直後、出羽守となりましたが、清原武則が自分より上位の鎮守府将軍に抜擢されたことに反発して、折角の出羽守の役職を蹴り、東北への未練を強く残しながら、陸奥を去り、下野守、白河天皇の警備役などを務めていました。そういう訳で、義家は清原家本流には強い憎しみを持っていました。ただし、清衡に対しては色々の局面で好意を示し援助しました。これは、前九年の役で母と共に死を免れたことなどと共に大きな疑問符のつく史実です。


<真衝の急死  >
  さて、話しを進めます。出羽に入った真衝が急に「頓死 とんし」するビックリする事態になりました。これに反応して清衡は素早く官軍と闘うことを止め、将軍に服従を誓いました。
これまで 真衝に 対し一緒に戦ってきた清衡と家衡ですが、真衝の急死で一転して二人は敵対することになります。
   将軍義家は、真衝が治めていた「  奥六郡 」を二分し、3郡ずつ清衡と家衡に分け与えました。家衡は、自分の分け前が、清衡の分け前より劣っていると将軍に不服を述べました。しかし、将軍は全く取り合わず、かえって清衡に恩賞を与え、家衡を清衡の館に同居させました。また、真衝の養子成衝は陸奥から去ることになりました。
   家衡は、自分は清原の血を引き、清衡や真衝の養子・成衝より清原の当主にふさわしいと考えていました。しかし、家衡は若さ故に、はやる独立心を抑えることができません。


<清衡の妻子悲惨 >
   家衡は、手下たちと計り、清衡の居所に不意打ちをかけて火を放ち、清衡を殺そうとしました。清衡は池の橋下に隠れ辛うじて難を逃れましたが、妻子や一族はことごとく殺されてしまいました。なお、家衡と清衡との共通の母「ゆう」については記録がなく、この事件の前に既に病死していたと思われます。
  家衡はホームグラウンドの出羽に戻り、沼柵 (ぬまのさく  秋田県 雄物川町) に籠(こもり)ました。一人残された清衡は、将軍義家を頼り保護を求めました。将軍は、数千騎を引き連れて沼柵を攻撃しました。しかし、苦戦を強いられ、やがて冬将軍が到来したため兵をひくことになりました。
  家衡の伯父・清原武衝は家衡の善戦振りを聞き、沼柵よりも一層堅固な金沢柵 (かなざわのさく  横手市) に移ることを家衡に勧め、自分も家衡側に加わりました。なお、源義家(=「八幡太郎  はちまんたろう」)のもとには弟の源義光(=「新羅三郎 しんらさぶろう」)が、官職を投げうって、駆けつけました。1086年のことでした。


<金沢柵の落城>
  さて、義家将軍は、金沢柵の近くで馬を止め、上空を眺めました。すると、空飛ぶ雁の群れが乱れるのが見えました。そこで義家は、敵兵が草むらに隠れていることに気づき、伏兵を残らず倒しました。「雁行(がんこう) の乱れ」として知られます。義家は、金澤柵を完全に包囲しました。  やがて金澤柵では食糧が少なくなりました。雪が降るころには、城中の蓄えが尽き始め、城から女や子供たちが出てきました。義家はそのまま逃がしてやろうとしましたが、吉彦秀武が、「皆殺しにすれば、城から出てくる者はいなくなり、食糧が早く尽きるでしょう」と義家に進言したため、城から出た女子供たちは無惨にも皆殺しにされました。1087年11月のある夜、ついに食糧が尽き、城から破れかぶれとなった城兵が打って出てきました。しかし、ことごとく討ち取られました。草むらに隠れた武衡も、変装して逃げ出した家衡も見つかって首をはねられました。こうして、長期戦の末、後三年の役は終わりました。
  この戦いは、朝廷から義家の私的な戦さと判断され、朝廷からの恩賞は一切なく、義家は部下に、自分の領地を分け与えて奮闘に応えました。そのためかえって義家は東国武士たちの信望を受けることになりました。
  義家が陸奥を去った後は、清衡は、藤原清衡を名乗り、安倍・清原の遺領を一手に収めて陸奥の覇権を握りました。

参考 奥州藤原氏五代  大矢邦宣
       岩手県の歴史
 

 
 

 

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