【ニッポン歴史探訪】五街道と江戸四宿 その1

                                    

五街道・・・東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道
江戸四宿 (えどししゅく) ・・・品川宿、板橋宿、内藤新宿、千住宿

 

東海道(とうかいどう)は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ当時の幹線道路でした。東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)といわれ、途中に53の宿場が設けられていました。全長 約492km。1日 10里(約40 km) 歩いて13日近くの行程でした。各宿場には、一般の旅籠(はたご )の他に大名たちの行列一行のため格式の高い本陣、脇本陣が用意されていました。また、街道に沿って日本橋から何里かを示す一里塚(いちりづか 一里は約4km)が1里毎につくられていました。日本橋から京都に上るとき、最初の宿場は日本橋から二つ目の一里塚(品川1丁目辺りの「八つ山」という)がある品川宿でした。この宿場は、江戸町民の行楽地ともなり、東海道で一番賑やかな宿場でした。なお、東海道は、軍事上の理由で、大井川などの幾つかの川は、橋無し、渡し船も無しでしたので、大雨が降ると何日も足留めされました。それを嫌い、少し遠回りになっても下記する中山道を利用する人たちもいました。
とにかく、東海道は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)  弥次(やじ)さんと喜多(きた)さんが道中滑稽(こっけい)な失敗を仕出かします」とか広重(ひろしげ)が描いた浮世絵、幕末期にイギリス軍艦が鹿児島を砲撃するきっかけとなった「生麦事件(なまむぎじけん)」などで日本人の間でよく知られている街道です。

中山道(なかせんどう)は、中央部山脈の間を通る街道で、日本橋から琵琶湖南端にある草津(くさつ)までの129里で、 67の宿場がありました。日本橋から最初の宿場は「板橋宿(いたばししゅく)」でした。そして、67番目の 「草津宿」で東海道に合流していました。東海道との重なり部分2宿を含めて、全長約533kmとなります。
幕末期、皇女和宮(こうじょ かずのみや)が将軍家茂(しょうぐん いえもち)に嫁入りする時、この街道を利用しました。また、京都で反幕府勢力を弾圧(だんあつ)した新撰組(しんせんぐみ)局長の近藤勇(こんどういさみ)は甲斐勝沼で官軍(かんぐん)に敗れ、「板橋宿」に近い刑場で首をはねられました。
なお、庶民は、この中山道のうち木曽川沿いの11宿を通る山道を木曽路(きそじ)と呼んでいました。広重たちがそれを浮世絵で紹介しました。
ところで、律令時代(大化の改新から奈良時代・平安初期までの約3世紀)には、奈良・京都から東の内陸部に伸びる道路として東山道(とうさんどう)が整備されていましたが、中山道はだいたいそれと同じルートを辿ったようです。(その2へつづく)

 

参考
徹底図解  江戸時代  新星出版社
東京・江戸を歩く    実業之日本社
日本史のアーカイブ   とうほう
地図で訪ねる歴史の舞台 帝国書院
Wikipedia
 2013/12/10  黒瀬宏洋記

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