羽咋(はくい)伝習農場への夜行列車の旅

筆者:富田 博義

 

    昭和三十六年八月学移連は全国の連盟員が一堂に集まって学移連の在り方、方向性を話し合うには合宿がよいのではないかと考えてその実現にとりかかりました。

当時連盟(昔は学生移住連盟はこう略しました)は東京本部と関西支部がシックリいってないようでしたので、それではいけないので双方の連盟加盟校の学生が一堂に会して同じ釜のメシを食って話し合えば、必ず解決すると役員一同は考えました。夏期合宿を行おう、それも関東と関西の中間地点がよい、いずれにも偏らない日本のまん中がよい、そうすれば本州の学生はもちろん九州や北海道の人たちにも平等だし交通費負担も平等になるということで候補地を探しました。そして合宿経費は連盟持ちにして学生の負担を減らして一人でも多くの学生の参加を図りました。しかし余り多くても大変なので一校二名に制限しました。(結局二十七校五十八名が参加しました)

 

しょせん我々学生には候補地が浮かばないので当時千葉県茂原市の東農大分校にいらした杉野先生にご相談に伺いました。幸運にも先生がかつて作られた石川県羽咋市にある経営伝習農場がよい。教え子が場長だから頼んでやるしワシも行くと先生はおっしゃって下さったのです。それは杉野理論を全国の連盟加盟員の目の前で話して下さるということです。謦咳に接するとはまさにこのことです。そして我々は杉野先生の拓殖理論を聞かせていただきさらに我々の日頃の人生、学問、将来、の疑問にご教示をいただくという最高の場が得られることになったのです。私事で恐縮ですが自分の通う学校の教授と杉野先生とのような心の通った会話をしたことはありませんでした。(もっともまともに学校に通ってなかったから?)

   ここで当時の連盟役員の一人神奈川大OB大久保政孝氏に書いてもらいます。

〔茂原での実習ご指導〕

千葉県茂原での実習ご指導時のお言葉

*「ワーク ビフォア スタデイー」

*「フロンテイアはどこを探してもない、自らの内にあるもの」

移住理論のご指導で海外移住史、今日的海外移住のあるべき姿を熱く語るなかでの心にしみるご指導でした。

〔賛助金集めの杉野先生の姿〕

第一次調査団の賛助金集めに生保協会、銀行協会訪問時での杉野先生の寄付金にたいして礼をのべるお言葉。

「有難うございました。この学生派遣団は今後の日本の海外移住行政に必ず貢献できることを確信します。衷心よりお礼申し上げます。」と背筋を伸ばし深々と頭を下げられた姿は我々同席していた学生に感動と杉野先生への感謝の気持ちで背筋に熱いものが流れ立ちつくしました。

 

いよいよ合宿へ出発する日が来ました。

上野発信越線夜行普通三等車です。杉野先生には寝台車に乗っていただきたかったのですがガンとして受け入れて下さいません。君たちと一緒に行きたいとおっしゃるのでした。

十人位の学生がいっしょでした。汽車は上野駅を出発しやがて夜も更け十二時過ぎでしたか先生は皆に聞くのです。今汽車は倶梨伽羅峠という所を通過しているのだがここがどういう所か知ってるかというのです。さー誰も知りません。先生はいささか寂しそうな声で君たちは何も知らないのだなとおっしゃり、木曽義仲が三〇〇頭の牛の角に松明をくくりつけて夜襲で平維盛を破ったという平家物語にでてくる有名な所だよ。と話してくれました。恥ずかしかった。帰ってすぐ吉川英治の新平家物語を読みました。それ以来倶梨伽羅峠は忘れられない地名でこの地名を聞くと杉野先生を思い出します。当時の夜行列車は現在では信じてもらえないでしょうが満員列車ですから網棚に寝るもの、通路に新聞紙を敷いて寝るものと通路は足の踏み場もない有様でした。やがて朝になりました。そして杉野先生はこんなことを言って通路に寝ていた者たちを悔しがらせたのでした。君たちが寝ている上を女の子が沢山またいで通ったのだぞ、薄目を開けて見なかったのか君たちはついてないな。というのでした。

まさか杉野先生からこんな話がでるとは思いもよらず先生の楽しいお人柄が偲ばれました。

 

 ここで再び大久保氏に書いてもらいます。

 〔羽咋合宿〕

 学移連第一回全国合宿、女性会員参加

 羽咋駅に大阪府大の福永都さん登場。合宿担当者(大久保)の驚き。これは合宿参加者の申し込み受け付けを担当していた役員の水産大の梅野君が都という名前が女性とは気がつかなかったことによりました。もっとも参加は一応男子のみにしていたので無理もなく、彼女は山登りのついでにブラッと寄ってみたというような山登りの恰好でした。大慌てで委員長に報告、さらにこれまた大慌てで杉野先生に相談し合宿参加を了承、寝るところ、トイレ等などを準備しようやく受け入れ準備完了。

合宿中に庶務役員の日大の四方君が熱を出し福永さんが看病しました。これを杉野先生は大変喜ばれ、麗しい光景だと後々まで話していました。後に二人は第四次南米学生実習調査団で渡伯、卒業後結婚しパラグアイへ移住しました。二〇〇八年六月大久保は四方君宅を訪問、ザル碁で語り合う。奥様都さんはお子さん達と孫に囲まれ幸せそうでした。(二〇〇九年七月四方君は病を得て物故されました。合掌)

合宿中役員連を中心に参加者全員で杉野先生を囲み学移連の理念作りに夜を徹して語り論議し、杉野先生は穏やかな顔で我々の議論を聞いておられ時折熱いアドバイスをいただきました。これを期にその後の学移連活動の基礎構築がスタートしたと考えられます。国家予算獲得、調査団派遣継続、国内移住啓蒙活動等などその基礎作りに杉野先生のご指導と相まって当時の委員長の活躍は忘れられない事となりました。

 

そもそも羽咋合宿を計画したいわれは前述の通り当時の学移連にあった東京本部と関西支部の対立でそれは実習調査団結成の動きの中で具体的には団員構成での人数の割り振りが一因でした。

合宿で役員から選考委員会による調査団員の選出方針はどうかと提案され討議の結果決まりました。早速年末から細部の検討に入り翌三十七年から実習調査団選考委員会による選考制度を採用して公平に連盟員から優秀な人材を登用することになり、全国の連盟員は一つにまとまったのです。

選考委員会は連盟委員長、連盟顧問杉野忠夫先生、経団連花村仁八郎事務局長、外務省福田孝三郎業務課長、連盟OBより葛西清忠元委員長の諸氏で構成し、先ず時事問題や南米関係知識の筆記試験を行い次いで委員諸氏により面接選考をしていただきました。

そして第三次南米学生実習調査団は前年の役員経験者はただ一人総務役員だった須貝吉彦君を団長とし送りこみ他は全て選考委員会によって選考された全国の会員の中から十三名が送り出されたのでした。

杉野先生はこれを大変喜ばれ御手紙で身に余る君は珠玉の人だというお言葉をいただきこれは私の生涯の宝となりました。

 

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