「ララ物資」の周辺と「憩の園」

 

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<筆者プロフィール>    相田 祐弘
・ 早稲田大学理工学部建築学科1954年卒、1957年渡伯
・1953年、第2回サンパウロ・ビエンナーレ展の

 建築学生コンクールで優勝(早大    建築学部作品参加)
・元エキッペ・クアトロ設計事務所経営
・サンパウロ社会福祉法人救済会理事(第1副会長)、
・日系老人ホーム「憩の園」運営に関与
・早稲田大学ブラジル稲門会会長
 ブラジル サンパウロ在住

・ 「特定非営利活動法人NGOブラジル人労働者支援センター相談役就任

 

加藤仁紀氏がこのNGO TRABRASを創立する契機の一つとなった「ララ物資」のエピソードが設立の「ご挨拶」のなかに述べられておりますが、私は彼の母堂が受け取られたブラジルからの救援物資の、送り出した側の当時の状況を調べた範囲で書いてみたいと思います。

 

「ララ物資」は1946年、第二次大戦が終わって直ぐに、戦後の日本の混乱と窮状を救うべく、サンフランシスコ在住の日系人が中心となって、「日本戦災同胞救援会」を組織し、救援物資を送る運動を始めたものでした。   
    ララ Laraとは Licensed Agencies for Relief in Asia からきた名前です。 

    私も終戦時、焼け野原になった東京で「ララ物資」の恩恵を受けた一人でした。  長い行列を作ったあとにもらった、バターをぬった一片の食パンの“外国の 味”は今でも忘れることは出来ませんし、その後、衣服の配給で当たった藍と黒のツイードの素敵な“舶来”のオーバー・コートを、冬の新制高校時代に得意に なって着ていた記憶が残っています。

    「日本戦災同胞救援会」の活動はその後アメリカからカナダ、メキシコ、ブラジル、チリー、アルゼンチン、ペルー等南北アメリカ大陸に拡大しました。
    ブラジルでは 1947年3月に サンパウロの宮腰千葉太氏宅に有志が集まって、この「救援会」が組織され、1950年9月まで、続けられました。    
    宮腰氏は外交官から国策移民会社”海興“に招かれ、サンパウロ支店長として活躍し、開戦時日本政府の要人が殆ど交換船で帰国した時もブラジルに唯独り留まった人でした。
    この運動を受け入れようとした背景には、日本の敗戦を信じようとしない所謂“勝ち組”が多数いた当時の国内事情がありました。  敗戦の認識運動を推進す るには、母国日本の役に立つことをすることによって国粋的考えの勝ち組リーダーに幾分の説得力を与えたいということでした。

    本部はリオ・デ・ジャネイロ(当時は首都だった)に置かれましたが、主な活動はサンパウロの菅山鷲造氏が幹事長となり、彼を中心としてこれからお話しする   ドナ・マルガリーダ・渡辺 (1996年没) 等の有志が救援物資の送り出しに活躍しました。 サンパウロ州や他州の各地から集まって来る救援物資は 日系のエスぺランサ婦人会の会館やドナ・マルガリーダの家で、纏められ、梱包してアメリカへ送り出されたということです。  日本とブラジルが未だ国交を 回復していない時期で、「ララ物資」はアメリカに集結され、それから日本に送られていました。

    ドナ・マルガリーダ・渡辺 は、この「ララ物資」に関わる以前、第二次大戦がはじまった時点から「救済会」の活動に生涯を捧げた方でした。 その辺の事情を語った前山 隆氏はその著書 「ドナ・マルガリーダ・渡辺」 の まえがき で次のように書いています。

     『九州南端のカツオ漁の町で生まれ育った十一歳の少女が、明治四五年、破産した父の借金を返済しようと独り出稼ぎ移民となってブラジルに渡った。  ブ ラジル人家庭での女中奉公のなかで、貯蓄して郷里送金するかたわら、困窮するする隣人に愛の手を差し伸べる心を教えられ、日系人へのカトリック布教の活動 に入る。 結婚し、三児の母になったばかりの頃、日米開戦のためブラジルの日本移民リーダー達が多数収監され、また数千名の日本人が強制立ち退きを課せら れて半難民化すると、若い主婦の渡辺マルガリーダは突然困窮する移民の救済活動に身を投じ、家庭と福祉活動のはざまで苦悩しながらも、移民福祉・老人福祉 の実践にその生涯を激しく燃焼し尽くしていった。

    マルガリーダがカトリック日本人救済会、社会福祉法人救済会、日系老人ホーム憩の園を通して築き上げてきた社会福祉の形態は、個人的ネットワークを動員 し、隣人の力と財によって、他の困窮する隣人に慈しみの心をそそぎ込むもの、そのための草の根的組織を移民の日本人会や婦人会、カトリック聖母婦人会など の民間のインフォーマルな人脈をたどって自分の足でひとつひとつ積み上げていくというものである。

    今日のボランティアや NGO活動の原型のようなものである。 それは聖女の活動ではなく、主婦であり、母であり、未亡人であるものの福祉の実践である。
    十一歳で日本を離れた少女出稼ぎ移民がその後八十数年にわたって彫り刻んだ生涯の軌跡は、限りなくユニークであり、限りなくブラジル的・移民的でもある。  それだけにまた汗臭く、人間的であり、同時に独創的で美しくもある。  この一女性移民の生涯は、それ自体、ブラジル日系人のもちえたひとつの誇りうべ き「文化」であるといえるだろう。』 (後部 略)

    私は現在、この ドナ・マルガリーダ・渡辺 らが創立した社会福祉法人「救済会」の一理事として日系老人福祉ホーム「憩の園」の運営に関与しています。
    前掲の宮腰千葉太氏や菅山鷲造氏等はドナ・マルガリーダ・渡辺と共に「救済会」を組織した有力者のリーダー達でもありました。

    ここで気付いたことは、「救済会」初期の活動と、現在のTRABRAS の活動との接点についてです。
    日本への出稼ぎが30万人といわれ、最近の日本の不況で帰国者が増え、23,4万人になったとはいえ、それは戦前の「先祖」が移民した25万人に匹敵する 数であり、しかも今後とも日本へ定住化の傾向を強めていることは、単なる出稼ぎ現象ではなく、立派な日本に於ける日系移民社会の形成であり、その新移民社 会の中での困窮者の支援をするTRABRASの活動は、日米の開戦時にブラジルで困った立場に陥った移民者を救援する「救済会」の活動と同じことだという ことです。

    「救済会」はカトリック教会のサン・フランシスコ教団から寄贈された10アルケール(25万平方米)の広大な土地に、1958年に老人ホーム「憩の園」を開園しました。
    その直後、日本政府からの補助金を基に 日本移民援護協会 がサンパウロに設立されたのを機会に、それまで続けてきた救済事業をこの援護協会に引き受けていただき、「救済会」は老人福祉事業に専念することになりました。

    現在の「憩の園」の入園者は約90名、その大半が要介護者のため、お世話をする職員の数が事務職員も含め、105名と入園者数を上回っています。

 

 

憩の園-運営状況分析表(下図)・解説

赤線-支援会員数

青線-入園者数 

・緑線-職員数

 ピンク帯   -年間支出総額(2008年では最低給料の551.63倍=226.925、23レイアス)

・黄緑帯-その内入園者が負担した額(2008年では最低給料224.44倍=支出総額の40.69% に相等)

・ブルー帯-支援会員からの会費総額(2008年では最低給料の85.24倍=支出総額の15.45%に相等)

これにより、ピンク部分が運営費の不足分を示す。(支出総額から入園者負担総額と会費総額を差し引いた額で、2008年度では43.83%にあたり、この部分はバザーや寄付等によって賄われている。

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 時代背景

① 1953 救済会発足                    ⑩ 1986 インフレ始まる

② 1958 老人ホーム「憩の園」開園             ⑪ 1988 移民80周年

③ 1967 第一期増築工事完成                ⑫ 1990 第三期増築工事完成

④ 1970 本部を Cons. Furtado街に移設                ⑬ 1994 インフレ終息

⑤ 1974 地区協力委員会(会費収集)結成             ⑭ 1998 移民90周年

⑥ 1975 本部を Sao Joaquim街 に移転               ⑮ 2004 ドナ・マルガリータ伝記
                                                                                                                    ポ語版完成

⑦ 1978 第二期増築工事完成                ⑯ 2006 在日協力会発足10周年

⑧ 1978  日本人移民70周年                  ⑰ 2008  移民100周年

⑨ 1984 ”出稼ぎ”現象顕著化                ⑱ 2008 「憩の園」開園50周年 

上の図でご覧になるように初期の段階から支援して下さった会員数は、1986年に8244名に達していたものが、その後一世会員の減少や日本への出稼ぎ現象、インフレ等の影響を受けて最近では950名までに落ち込みました。

私は「救済会」の窮状を訴える目的でこれを書いているのではありません。
唯、TRABRAS にアクセスする在日本の日系人の皆様に先代の歩んだ歴史の一端を知って頂きたいと思ったことと、それと同じ様な活動をされているTRABRAS の皆様に声援をお送りしたかったためでした。

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