ブラジルを知りましょう
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ブラジル連邦共和国(ブラジルれんぽうきょうわこく)、通称ブラジル(漢字表記:伯剌西爾)は、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を誇り、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ(つまりチリとエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2(コロンビア程度)小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きい。首都はブラジリア。
南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。
国名
正式名称は、ポルトガル語で República Federativa do Brasil。IPAでは、[xeˈpublika fedeɾaˈtʃiva du bɾaˈziw]。通称 Brasil。
公式の英語表記は Federative Republic of Brazil。通称 Brazil。ポルトガル語では “Brasil” と綴られるが、英語では “Brazil” と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Brasília と表記される。
日本語の表記はブラジル連邦共和国。通称ブラジル。漢字表記では伯剌西爾となり、伯と略される。
国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。元々この土地は1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名された。
その後あまりにもキリスト教的すぎる名前への反発や、ポルトガル人がこの地方でヨーロッパで染料に用いられていたブラジル(ブラジルスオウ、ブラジルはポルトガル語で燃えるように赤いの意)に似た木を発見すると、それもまた同様に染料に使われていたことから、木をポルトガル語で「赤い木」を意味する「ブラジル」と呼ぶようになり、ブラジルの木のポルトガルへの輸出が盛んになったこともあり、16世紀中にこの地はブラジルと呼ばれるようになった。
「ブラジル」という読みはポルトガル本国などで使われるイベリアポルトガル語での発音であり、ブラジル・ポルトガル語での発音に最も近いカタカナ表記は「ブラズィウ」である。
歴史
詳細は「ブラジルの歴史」を参照
先コロンブス期
ブラジルの最初の住民は、紀元前11,000年[1]にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年頃、現在のブラジルの領域に到達した[2]。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営む、トゥピー・グアラニー系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブルジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。ブラジルの先住民には、トゥピー語系のほか、ジェー語系やヌ=アルアーク語系、カリブ語系の集団があった。 ポルトガル人が最初に接触したのは、トゥピー語系先住民であった。そこでポルトガル人は、トゥピー語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、先住民はそれぞれ部族の言葉をもっているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。それは信仰も同様として仕向けられた。[3]
ポルトガル植民地時代
「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
1492年にクリストーバル・コロンがヨーロッパ人として始めてアメリカ大陸に到達した後、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリコ・ヴェスプッチがリオ・デ・ジャネイロ(1月の川)を命名。
初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主な産業となり、このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメー・デ・ソウザがサルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。
1580年にポルトガルがスペインのハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受け、北東部の一部がネーデルラント連邦共和国(オランダ)に占領された。オランダが撤退したのは1661年のことだった。
一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェンニョ(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された後、インディオの数が足りなくなると西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。
ブラジル内陸部の探検は、サン・パウロのバンデイランテ(奴隷狩りの探検隊)により、17世紀に始まった。バンデイランテは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部やパラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねた黒人奴隷の中には逃亡して奥地にキロンボと呼ばれる独立国家を築くものもあり、その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレスはパルマーレスのズンビーによって指導され、バンデイランテスに1696年に征服されるまで独立国家として存続した。
一方、1680年にポルトガル植民地政府は、トルデジーリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設したため、以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けてガウーショ(スペイン語ではガウチョ)と呼ばれる牧童の集団が生まれた。
その後、18世紀にはミナス・ジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部から南西部に移動し、1763年にはリオ・デ・ジャネイロが植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレットでは独自のバロック文化が栄えた。
バンダ・オリエンタルを巡るスペインとの衝突の後、18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命やアメリカ合衆国の独立の影響もあり、1789年にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀」が発覚し、首謀者のチラデンテスが処刑された。
その後、ハイチ革命の影響もあってクリオーロによる独立運動が進むが、植民地時代にブラジルに大学が設立されなかったなど知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。
ブラジルの独立
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
ナポレオン戦争により、1807年にジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオ・デ・ジャネイロに遷都し、以降リオの開発が進んだ。1815年にリオ・デ・ジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。
ポルトガル政府はバンダ・オリエンタルのホセ・ヘルバシオ・アルティーガス率いる連邦同盟との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。
1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオ・デ・ジャネイロのジョアン6世に帰国を要請した。 1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還したが、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペードロをジョゼー・ボニファシオを代表とするブラジル人勢力が支持したこともあり、1822年9月7日に「イピランガの叫び」をあげて、ペードロが皇帝のペードロ1世(在位1823-1831)に即位する形でブラジル帝国がポルトガルから独立を宣言した。[4]
帝政時代
詳細は「ブラジル帝国」を参照
ブラジルの独立はブラガンサ家の皇帝という求心力があったために、解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらの掲げた共和制や立憲君主制の思想が求心力とならなかったイスパノアメリカ諸国が分裂したのとは異なり、広大なブラジル植民地は単一のまとまりとして新たな主権国家を形成した。しかし、このことは植民地時代からのエリート層が独立後もそのまま権力を握り続けることをも意味していた。
このため、帝政時代は当初から各地方の中央政府に対する反乱や、共和制を求める自由主義者の反乱が勃発し、1820年代には北東部のペルナンブッコ州では赤道連盟の反乱が、最南部のシスプラチナ州では東方州のリオ・デ・ラ・プラタ連合州復帰を求めた33人の東方人の潜入により、シスプラチナ州を巡ってシスプラチナ戦争が勃発した。シスプラチナ州はイギリスの仲介によって1828年にウルグアイ東方共和国として独立した。
1831年にペードロ1世が退位するとさらに地方の混乱は増し、最南部のリオ・グランデ・ド・スール州では牧場主とガウーショが反乱を起こし、ファラーポス戦争が勃発した。
1840年にペードロ2世が即位すると事態は落ち着きを見せ、1848年のプライエイラの反乱を鎮圧した後に、ブラジル史上初の安定期が訪れた。ペードロ2世は領土的野心を持っていたウルグアイ、パラグアイへの介入を進め、その結果として1864年にパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領はブラジルに宣戦布告し、パラグアイ戦争が勃発したが、カシアス公率いるブラジル帝国が主体となった三国同盟軍はパラグアイを破壊した。
一方、独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国の南北戦争後は西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コントの実証主義の影響を受けた知識人によって奴隷制批判がなされた。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校(テネンテ)達は実証主義思想に影響を受け、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれた。この運動により1888年に黄金法が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制が廃止されたが、ペードロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持をも失い、翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ元帥のクーデターによって帝政は崩壊した。
旧共和国時代
1889年の共和制革命により、ブラジルは帝政から共和制に移行した。この時期には カフェ・コン・レイテと呼ばれるサン・パウロ州とミナス・ジェライス州で相互に大統領を選出する慣行が生まれた。また、帝政時代からコーヒー・プランテーションでの労働力確保のためにヨーロッパよりイタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人をはじめとする移民を受け入れていたが、奴隷制廃止後はさらに移民の流入速度が速まり、1908年にはヨーロッパのみならずアジアからも笠戸丸で日本人移民が導入された。1919年にはパリ講和会議で日本が提出した人種差別撤廃案に賛成するなど人種差別撤廃に前向きであった。
第一次世界大戦に協商国側で参戦した後、1920年代にはカフェ・コン・レイテ体制への批判が高まり、ルイス・カルロス・プレステスをはじめとするテネンテ(青年将校)達が各地で反乱を起こした。このテネンチズモは直接は国政に大きな影響を与えなかったが、間接的に1930年代の政治状況を用意することになった。
ヴァルガス時代
詳細は「ヴァルガス時代」、「エスタード・ノーヴォ (ブラジル)」をそれぞれ参照
1930年にカフェ・コン・レイテ体制に対する反乱が各地で勃発し、リオ・グランデ・ド・スール州のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが1930年革命を起こし、独裁政治を行う。1932年には反ヴァルガス勢力によってサン・パウロ州で護憲革命が勃発したが、この反乱を鎮圧するとヴァルガスはブラジル全土に対する支配権を確立した。1937年にはヴァルガスはクーデターによってイタリア・ファシズムに影響を受けたエスタード・ノーヴォ体制を確立し、ヴァルガス時代には大学の整備、国家主導の工業化、ナショナリズムの称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進んだ。
1942年にヴァルガスは第二次世界大戦に連合国の一員としてイタリア戦線に参戦したが、独裁体制に対する不満が軍内部で強まり、第二次世界大戦終結後の1945年10月13日に軍事クーデターによって失脚した。
ポプリズモ時代
1946年に新憲法が制定された後、1950年にブラジル史上初の民主的選挙によってジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領に就任した。二度目のヴァルガスはファシズム色よりも左派ポプリズモ色を打ち出し、ブラジル経済の国民化が進められたが、軍の抵抗に遭ってヴァルガスは1954年に自殺した。
1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州に新首都ブラジリアを建設し、1960年にリオデジャネイロから遷都した。しかし、この開発政策によって生まれた債務が財政を圧迫し、インフレが加速した。
1961年に就任したジョン・ベウキオール・マルケス・ゴラール(通称・ジャンゴ)大統領はこのような困難な状況を乗り切ることが出来ず、1964年にアメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍のクーデターによって失脚した。
軍事独裁政権時代
1964年にクーデターを起こしたカステロ・ブランコ将軍は軍事独裁体制を確立し、親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策が推進された。この時期に「ブラジルの奇跡」と呼ばれたほどの高度経済成長が実現したが、1973年のオイルショック後に経済成長は失速し、さらに所得格差の増大により犯罪発生率が飛躍的に上昇した。また、軍事政権による人権侵害も大きな問題となった。この間、各地でカルロス・マリゲーラの民族解放行動(ALN)など都市ゲリラが武装闘争を展開し、外国大使の誘拐やハイジャックが複数にわたって発生した。
1974年に大統領に就任したエルネスト・ガイゼル将軍は国民的な不満を受けて軍政の路線転換を行い、1979年に大統領に就任したジョン・バチスタ・フィゲイレードは民政移管を公約した。1985年に行われた大統領選挙ではタンクレード・ネーヴェスが勝利した。
民政移管以降
1985年に民政移管が実現し、文民政権が復活したが、ネーヴェスが急死したために副大統領だったジョゼー・サルネイが大統領に昇格した。しかし、インフレの拡大により経済は悪化し、サルネイ政権は内政では大きな成果を残せなかった。しかし、ラウル・アルフォンシン政権との間でアルゼンチンとの関係はこの時期に大きく改善し、長らく続いた両国の敵対関係に終止符が打たれた。
1990年には国家再建党からフェルナンド・コーロルが大統領に就任したが、経済問題に対処できず、数々の汚職や様々な奇行のために1992年に罷免された。
副大統領のイタマール・フランコが昇格した後、1995年にブラジル社会民主党から就任したフェルナンド・エンリッケ・カルドーゾ政権下でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイにより、同年一月にメルコスール(南米南部共同市場)が発足した。
2003年には労働者党からルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが大統領に就任し、その後世界経済の好調を受けて経済が回復を見せた。
2010年10月、次期大統領選挙が行われる。与党・労働党は2月20日党大会を開き、次期大統領候補としてルセフ官房長官を決定した。同大統領選挙には現職のルラ大統領に敗れたセラ・サンパウロ州知事が野党・ブラジル社会民主党(PSDB) から出馬する公算が大きく、世論調査では優位に立っている。ブラジルの憲法では大統領の三選が禁止されているので、現ルラ大統領は再選しているため出馬できない。[5]
地理
国土は、流域を含めると400万km²にも及ぶアマゾン川と、その南に広がるブラジル高原に分けられるが、広大な国土を持つだけに様々な地形があり、北部は赤道が通る熱帯雨林気候で、大河アマゾン川が流れる。近年、環境破壊によるアマゾン川流域の砂漠化が問題となっている。
最高峰はベネズエラとの国境近く、北部ギアナ高地にあるピッコ・ダ・ネブリーナ山で、標高3,014メートルである。熱帯には「セラード」と呼ばれる広大な草原が広がり、エマス国立公園も含まれている。また、北東部は、沿岸部では大西洋岸森林が、内陸部では乾燥したセルトンが広がり、セルトンはしばしば旱魃に悩まされてきた。
南西部のパラグアイ、アルゼンチンとの国境付近には有名なイグアスーの滝のある、ラ・プラタ川水系の大河パラナ川が流れる。他にネグロ川、サン・フランシスコ川、シングー川、マデイラ川やタパジョス川がある。
ブラジル南部三州ではブラジル高原はウルグアイ、アルゼンチンへと続くパンパ(大平原)との移行地帯となり、伝統的に牧畜が盛んでガウーショ(ガウチョ)も存在する。南部はコーノ・スールの一部として扱われることもある。
また、日本の対蹠地に当たり南半球となるため、季節は時刻と共に日本とはおおよそ正反対になるが、熱帯ではない南部以外ではあまり意識されることはない。
気候
ケッペンの気候区分によると、国土の93%は熱帯地域に属す。気候は亜熱帯性気候、半砂漠型サバナ気候、熱帯雨林気候、熱帯モンスーン気候、高地の亜熱帯性気候、温帯夏雨気候、温暖湿潤気候に分類できる。大西洋沿岸は全体的に温暖なため、リオ・デ・ジャネイロやレシーフェなどのリゾート地が多い。南部三州では雪が降ることもある。
年間平均気温
- アマゾン地域:22~26℃
- 大西洋沿岸地域:23~27℃
- 内陸部高原地域:18~21℃
四季 緯度によって異なるが、一応は以下の通りである。
地方行政区分
詳細は「ブラジルの地方行政区分」を参照
ブラジルは五つの地域に別れ、それらの地域は26の州(Estado エスタード)と1つの連邦直轄区(首都ブラジリア)から構成されている。州はムニシピオ(市・郡に相当)に分けられ、全国で5,564のムニシピオが存在する。
- アクレ州
- アラゴアス州
- アマパー州
- アマゾナス州
- バイーア州
- セアラー州
- エスピリト・サント州
- ゴイアス州
- マラニョン州
- マット・グロッソ州
- マット・グロッソ・ド・スーウ州
- ミナス・ジェライス州
- パラー州
- パライバ州
- パラナ州
- ペルナンブコ州
- ピアウイー州
- リオ・デ・ジャネイロ州
- リオ・グランデ・ド・ノルテ州
- リオ・グランデ・ド・スーウ州
- ロンドニア州
- ロライマ州
- サンタ・カタリーナ州
- サン・パウロ州
- セルジッペ州
- トカンティンス州
- 連邦直轄区
主要都市
詳細は「ブラジルの都市の一覧」を参照
- サン・パウロ
- サントス
- モジ・ダス・クルーゼス
- クリチーバ
- パラナグアー
- フォス・ド・イグアス
- サルヴァドール(バイーア、サルヴァドール)
- ポルト・ヴェーリョ
- フォルタレーザ
- ブラジリア
- ベレン
- カンピーナス
- クイアバー
- イトゥ
- カンポ・グランデ(カンポ・グランデ)
- リオ・ブランコ(ヒオ・ブランコ)
- ポルト・アレグレ(ポルト・アレグレ)
- ブルメナウ
- ベロ・オリゾンテ(ベロ・オリゾンテ)
- マナウス
- リオ・デ・ジャネイロ(ヒオ・デ・ジャネイロ)
- ニテロイ
- レシーフェ(ヘシーフェ)
- ペトロポリス
- ナタール(ナタウ)
- ヴィトーリア
- フロリアノッポリス
- カンピナ・グランデ(カンピナ・グランジ)
- ジョン・ペソア
政治
大統領制を敷き、大統領を元首とする連邦共和制国家である。大統領および副大統領の任期は4年で、一度限りにおいて再選が認められている。つまり、3選は憲法で禁止されている。大統領は国会により弾劾されることが可能である。議会は上院(元老院)・下院(代議院)の二院制である。現在の大統領は、左派・労働党のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァである。現行憲法は1988年憲法である。
東西冷戦期の1964年から1985年まで親西側の軍事政権下にあった。軍事政権下の当時から現在にいたるまで、官僚や政治家、警察の腐敗や汚職が広まったままである。
政党
与党である労働者党(PT)の他に、同党と連立を組んでいたブラジル民主運動党(PMDB)と社会大衆党(PPS)などがある。与党首脳部の間における他党議員の買収、不正資金の調達、選挙での不正資金作りなどの疑惑が出て以来、与党の存在感が低下している。
投票権
投票は18歳から70歳までの読み書きができる全ての国民に義務付けられている(義務投票制)。希望すれば16歳以上、もしくは70歳を超える国民や読み書きのできない国民も投票することができる。
現政権
2003年1月にルーラ政権が発足した。元労働組合の指導者だったルーラは「飢餓ゼロ」計画を打ち上げ、貧困家庭向けの食料援助や援助金制度などを推進した。貧困家庭の生活水準改善を着実に進め、経済発展に取り残されていた内陸部へのインフラ整備も進みつつある。外交面では、南米統合へのリーダーシップも発揮した。2006年6月24日にルーラ大統領は、政権与党の労働党の全国大会で大統領候補指名を受託し、10月の大統領選挙で貧困層の圧倒的な支持を得て再選した。
国際関係
詳細は「ブラジルの国際関係」を参照
独立直後から旧宗主国だったポルトガルに代わって莫大なイギリスの投資を受け、「老いた母の代わりに金持ちの継母を得た」と表現される程の飛躍的な経済的発展を遂げた。また、独立直後からウルグアイを巡ってアルゼンチンとシスプラチナ戦争を起こし、バンダ・オリエンタル(シスプラチナ州)がウルグアイとして独立するなどの失敗もあったが、それでもウルグアイへの影響力は大きく、大戦争終結後は植民地時代のウルグアイの領域の大きな部分(ウルグアイ川左岸の東ミシオネスなど)をブラジルに併合することを認めさせた。
1860年代にパラグアイ戦争が勃発すると、親英政策の下にパラグアイを完膚なきまでに破壊し尽くした。戦争が終わるとパラグアイの領土は一部ブラジルに割譲され、パラグアイそのものも政治的にブラジルの強い影響に置かれることになった。その後はリオ・ブランコ男爵の尽力などもあり、ギアナ三国、ベネスエラ、コロンビア、ボリビアなどの周辺国からアマゾンの辺境地を獲得することに躍起となった。アメリカ合衆国の後ろ盾を得る形で併合されたアマゾンの現アクレ州を巡るボリビアとの争いでは、アクレ共和国のような傀儡政権が樹立されることもあった。
20世紀前後から周囲をスペイン語圏諸国に囲まれていることの孤立感、及び当時急速な発展を遂げていたアルゼンチンの勃興などに対処するために親米政策を採用し、アメリカ合衆国も遠交近攻政策に基づいて中央アメリカ・カリブ海のアメリカ合衆国による支配権確立のためにブラジルとの友好を望んだため、伯米両国の関係は非常に友好的なものとなった。この親米政策の背景には、1889年の共和制革命直後のバルボーザ案新国旗に見て取れるようなこの当時の実証主義知識人のアメリカ合衆国崇拝の激しさも要因となっていた。
アルゼンチンとの対立はチリを交えて二十世紀初頭から1980年代まで続く軍拡競争を招き、アルゼンチン・ブラジル・チリはABC三大国と呼ばれるようになった。一方で親米英政策は第一次世界大戦、第二次世界大戦に連合国側で参戦したように激しいものがあり(アルゼンチンが独自外交を標榜して両大戦でドイツに好意的な中立を続けようと努力したのとは対照的である)、第二次世界大戦後も暫くこの政策は続いた。なお、19世紀末より現在に至るまで友好関係を築いている日本との関係は、日本が連合国と交戦状態に入り、1950年代初頭に国交回復するまでの間はしばし途絶えることとなった。
第二次世界大戦後にイギリスが没落すると、左翼ポプリズモ政権によって親米政策から第三世界外交への転換がなされたが、1964年にアメリカ合衆国の内諾を得て起こされた軍事クーデターにより成立した官僚主義的権威主義体制は、露骨に積極的な親米を掲げてアメリカ合衆国に追従し、1965年のドミニカ内戦の際にはドミニカ共和国のボッシュ派政権を崩壊させるための軍隊を率先して送り、その後軍部は1971年のボリビアのウーゴ・バンセル政権をはじめとして多くのラテンアメリカ諸国の右翼反共軍事クーデターを支援した。
時系列的には前後するが、パラグアイのアルフレド・ストロエスネル政権の成立にもブラジル軍の支援があった。そしてこの露骨な親米政策は、エドゥアルド・ガレアーノをはじめとするラテンアメリカ諸国の知識人からは「裏切り」だとみなされた[6]。
しかし、1985年に民政移管すると、特に1980年代後半の冷戦終結後は南アメリカの大国としてアルゼンチンやパラグアイなどの近隣諸国のみならず、アジアやアフリカ、中近東諸国などとも全方面外交を行い、WTOやメルコスールなどを通して積極外交を行う他、没落したアルゼンチンに代わってラテンアメリカ諸国をまとめるリーダーとして国連改革を積極的に推進し、国連安全保障理事会の常任理事国入りを日本やインド、ドイツなどとともに狙っているとされる。また、ポルトガル語圏の一員として旧宗主国のポルトガルや、アンゴラ、モザンビーク、東ティモールとも強い絆を保っている。
ブラジルは主権の相互尊重の原則を根拠に対等な外交施策をとることで知られている。アメリカ政府がテロリスト対策の一つである新入国管理制度で、ブラジルを含む25ヵ国から入国する者に顔写真と指紋の登録を実施したのに対抗し、ブラジル政府は、2004年1月1日から報復として入国するアメリカ人を対象に、顔写真と指紋の登録を実施した。また、ブラジルは南米で唯一日本人が短期滞在のために入国するときにビザが必要な国である。これも、日本政府がブラジルからの入国に対してビザを求めていることに対する、相互尊重の原則を根拠にした対抗措置である。
日本との関係
詳細は「日伯関係」を参照
日本との外交関係は1895年の修好通商航海条約調印から始まり、1897年に両国内に公使館を開設。1908年6月には日本からの本格的移民が開始され、笠戸丸がサントスに入港した。その後第二次世界大戦中の断交状態(ブラジルは連合国として参戦)と1950年代初頭の国交回復を経て、常に活発な人的、経済的交流が行われており、その距離の遠さに反比例して世界各国の中でも特に日本との縁が非常に深い国である。
1908年に最初の本格的な集団移民、いわゆる「笠戸丸移民」が到着して以降、第一次世界大戦期や第二次世界大戦を経て、1950年代に日本政府の後援による移民が停止されるまでにブラジルに渡った日本人移民の子孫は5世、6世の世代になり、サンパウロの世界最大級の日本人街「リベルダーデ」を中心に、海外で最大の日系人社会(約140万人)を持つなどブラジル社会に完全に溶け込んでいる。
日系ブラジル人は政治や経済などで、高い地位につくものも多い他、特に長年の農業における高い貢献は非常に高い評価を得ている。2007年2月には、2世のジュンイチ・サイトウ空軍大将が空軍総司令官に任命され、ブラジル軍の最高位ポストに就いた初の日系人となった[7]。
また、1950年代以降、日本の高度経済成長期にかけて東芝やトヨタ自動車、東京海上日動、コマツ、ヤクルト本社、日本航空など、重工業から金融、サービス業や運送業にいたるまで、様々な業種の日本企業がサンパウロを中心に数百社進出しており、世界でも有数の規模の日本人学校、サンパウロ日本人学校など、ブラジル国内に複数の日本人学校がある他、日本においてもブラジルの音楽やスポーツ、料理などの文化が広く親しまれており、また、両国間の人的交流が活発にあるなどその関係は非常に深いものがある。
1962年に両国による合弁事業であるウジミナス製鉄所へのODAによる融資を行って以降、電気や港湾、衛生設備など、各種インフラの充実を中心としたODAが継続的に行われている。しかしながら、ブラジルが工業国であり比較的インフラが整っていることから、近年はインフラでも環境、衛生関係の技術的要素に特化されたものとなっている。
軍事
詳細は「ブラジル軍」を参照
1889年の共和制革命で主要な役割を果たしたことが主な理由となって軍は伝統的に政治に強い影響力を持ち、1920年代頃から「テネンチズモ」(テネンテ=中尉から転じて青年将校を指す)と呼ばれる、革新的な青年将校が強い影響力を持って政治を進めようとする傾向が生まれ、ヴァルガス体制の設立にも協力した。その後1964年から1985年まで軍政下にあった事もあり、民政移管に際しても大きな影響力を政界に残した。そのために未だに軍は「ブラジル最大の野党」と呼ばれている。
また、ブラジルは第一次世界大戦、第二次世界大戦共に連合国側で参戦し、第二次世界大戦に連合国として参戦した際には、ラテンアメリカで唯一陸軍をヨーロッパ戦線(イタリア戦線)に派遣した。その後1965年のドミニカ共和国の内戦の治安維持に派遣され、アメリカ合衆国主導による、ボッシュ派社会改革政権崩壊への積極的な協力を行った。
1982年のマルビーナス戦争(フォークランド紛争)の敗北によってアルゼンチンの軍事政権が崩壊した後は、長らく最大の仮想敵国と見ていたアルゼンチンとの融和政策が実現し、それまで続いていた軍拡競争が終わったために現在は周辺諸国との軍事的緊張関係は無くなった。ただし、国土が広大なために、依然として南アメリカで最大規模の軍事力をもつ。
12ヶ月の徴兵制を敷いており、総兵力は約320,000人程である。陸軍、海軍、空軍と軍警察が存在する。軍事政権期核開発計画を進めていたが、1988年アルゼンチンと共に核計画の放棄を宣言した。
近年は国連のPKOに積極的に派遣されている。また、各種軍用機や軍用車両の国産化が進んでおり、特に軍用機は南アメリカの周辺国のみならず、ヨーロッパや中東諸国、オセアニアにも輸出されている。
陸軍
詳細は「ブラジル陸軍」を参照
兵力189,000人を擁する。PKOのため、ハイチに展開している。
海軍
詳細は「ブラジル海軍」を参照
兵力32,900人を擁する。2008年現在ラテンアメリカで唯一の空母を保有する海軍である。2007年、原子力潜水艦建造計画が持ち上がった。
空軍
詳細は「ブラジル空軍」を参照
兵力65,300人を擁する。主要装備はAMX、エンブラエル EMB 110など。2007年2月、日系2世のジュンイチ・サイトウ大将が空軍総司令官に任命された。
経済
詳細は「ブラジルの経済」を参照
建国以来長らくイギリスやアメリカ合衆国、日本をはじめとする先進国からの重債務国であり、累積債務に苦しんでいたが、1990年代に入ってからはインフレも安定し、カルドーゾ政権下で安定成長を遂げた。ルーラ政権では発展途上国向けの貿易拡大が行われ、ブラジルは長く続いた累積債務問題の解消へ向かう。その後の経済の回復とともに2007年には国際通貨基金への債務を完済し、債務国から債権国に転じた。
メルコスール、南米共同体の加盟国で、現在ではロシア、中華人民共和国、インドと並んで「BRICs」と呼ばれる新興経済国群の一角に挙げられるまでに経済状態が復活した。重工業、中でも航空産業が盛んで、1969年に設立された国策会社のエンブラエルは現在、小型ジェット機市場の半分近いシェアを誇り、一大市場である欧米諸国や日本をなどのアジア各国をはじめとする世界各国へ輸出されているなど、その技術力は高い評価を得ている。
公衆衛生・教育などの公共サービスの水準は先進諸国に比べ低く、沿岸部と大陸内部の経済的な格差や貧富の格差が大きいが、経済や財政の好転を背景に近年急速に改善されつつあり、貧困層の生活水準の底上げは内需の拡大にも貢献している。
また、GDPに於ける税の割合は30%を超えており、BRICs諸国で突出している。これは、貧困層への援助(食糧配給)のために課税が行われているが、高い税率に嫌気がさしている富裕層からは現政権に対して不満の声があがり始めている。しかし、医療や福祉・教育水準の改善、地方への生活インフラの整備が着実に進んでおり、ルーラ大統領の支持率は高い。
工業
安価な労働力と豊富な天然資源により、ブラジルは2004年度の国民総生産(GNP)で世界第9位に位置し、南半球および南アメリカの国家における最大の経済規模を有する。
第二次世界大戦後の1950年代以降に、急速な工業化を推し進めるとともに経済発展を遂げ、軍事政権の外資導入政策によって1960年代後半から、毎年10%を超える成長率を見せ、「ブラジルブーム(安い人件費で腕の良い熟練の労働者が得られる、豊かな資源がある)」となる。
これにより日本やアメリカ、ドイツやフランスなどのヨーロッパ諸国などの先進工業国からの直接投資による現地生産や合弁企業の設立も急増し、自動車生産や造船、製鉄では常に世界のトップ10を占める程の工業国となったが、1950年代後半に当時のジュセリーノ・クビシェッキ大統領の「50年の成長を5年で」の号令下でスタートした首都ブラジリア建設の負担や、1970年代初頭のオイルショック、さらには外国資本の導入による大規模な資本の流出などで経済が破綻した。
これらの結果1970年代後半には経済が低迷し、同時に深刻な高インフレに悩まされるようになったため、これ以降グルジェル(自動車メーカー)のように業績が悪化・倒産する企業が相次いだ。また経済の悪化を受け、1980年代にかけてクライスラーや石川島播磨(現・IHI)、ヤオハンなど多数の外国企業が引き上げてしまい、同時に先進国からの負債も増大した。
しかし1990年代に入ってからはインフレも安定し、ルーラ政権では発展途上国向けの貿易拡大が行われ、ブラジルは長く続いた累積債務問題の解消へ向かう。2007年には国際通貨基金への債務を完済し債務国から債権国に転じた。現在ではロシア、中華人民共和国、インドと並んで「BRICs」と呼ばれる新興経済国群の一角に挙げられるまでに経済状態が復活し、地場資本による工業投資も活発に行われている。
農業
農業では、かつてはブラジルボクやゴムの生産を中心とした。ブラジルボクはポルトガル語でパウ・ブラジルと呼ばれ、赤茶色の木地を持つ、堅く重たい木である。当時、赤の染料が貴重であったことから、赤の染料の原料となるこの木の経済価値が高かった。乱伐により一時は枯渇しかかったが、その後植林が進められて現在でもパウ・ブラジルでできた土産物などが現地で売られている。
19世紀までブラジルはゴム栽培を独占し、アマゾン川中流域のマナウスは大繁栄し、アマゾンの中心にオペラハウスが建設された。しかしペルーのイキトスやボリビアのリベラルタをはじめとする周辺国へのゴム栽培の拡大があり、さらに19世紀後半のイギリスによるマレーシアへのゴムの密移入によりアマゾンのゴム栽培は大きく衰退した。
プロデセール
1970年代から21世紀初頭にかけては、日本によるナショナルプロジェクト「セラード農業開発プロジェクト」(プロデセール)が3期に渡って行われ、その結果、ブラジル内部のセラード地帯(セラードとは「閉ざされた」を意味する)を中心とする農業発展が急速に進んだ。その際、日本とブラジルは共同事業として日伯セラード開発公社(CAMPO社)を現地に設立してプロジェクトの進捗管理を行うとともに、開発面積と同規模の保留地を耕作地周辺に確保するなど、農業開発と環境保全の両立を率先して行った。
また同時に、現地に適した種子の開発や栽培方法の確立などについても、ブラジル国内に専門の研究所を設立して支援するなど、日本はハード面とソフト面の両面に渡って支援する壮大なものとなって成果を発揮した。現在では、ブラジルは大豆の生産ではアメリカに次ぐ世界第2位の地位を占めている。
牧畜
牧畜が盛んであり、近年まで「1ヘクタールに足1本」とまで言われていた。最近では都市近郊の農家の所得向上と相まって集約的な畜産業が行われるようになってきており、特にサンパウロ等大都市周辺の養鶏などは近代的システムの下で行われている。鶏肉については加工肉を中心に日本に相当輸入されているものの、牛肉については口蹄疫などの検疫上の問題が依然として存在している。
サトウキビとコーヒー
植民地から、独立後の帝政期にかけてのブラジルの北東部ではサトウキビのプランテーション栽培が盛んだった。カリブ海諸国と同様に、サトウキビを作る時は労働力としてアフリカから連れてきた奴隷を働かせた。しかし、米州でも最も遅い1888年にようやく奴隷制が廃止されると、栽培の主流作物もサトウキビからコーヒーへと移り、大量導入していたヨーロッパからの移民を労働力に主に南東部のサンパウロ州を中心にしてコーヒー豆の栽培が進んだ。その後ヨーロッパ諸国と移民の待遇を巡って対立すると、今度は日本人移民獲得のため、1908年に第一回目の日本人移民が行われた。サトウキビは砂糖の原料になるだけでなく、バイオエタノールに精製されてガソリンの代わりの燃料に使われている。
コーヒーの輸出量は、世界第1位である。これは、人的労働が重要なコーヒー生産において、なにより安い労働力を得やすいという事情に因るところが大きいが、霜の降りにくい高台地帯の広いことも幸いしている。しかし、コーヒーの過剰生産により、国際価格が暴落。コーヒーへの依存度を下げるために、とうもろこし・大豆・サトウキビなどの栽培が奨励された。
焼畑農法
未だに貧困層がアマゾンの熱帯雨林で焼畑農法を行い、それが自然環境の破壊につながるとして問題視されているが、むしろ同地域を大規模に焼き払うのは当地での農業生産を目指す企業家たちである場合が多い。一方、ブラジル東北部の乾燥地域では生活そのものが苦しく、政府が募った入植に応じた農業者が生活を行っているが、生活は極めて厳しく、都市部の生活者との経済的格差は極めて大きい。森林率の減少に歯止めが掛からない状況から、近年では人工衛星画像を使った監視網などが整いつつある。
日系移民者の貢献
かつて日本人が農業移民としてブラジルに入植して以来、日本人は「農業の神様」と呼ばれ、現在に至るまでブラジル社会における日系ブラジル人の高いステータスを確保する重要な礎になっている。ブラジルの首都ブラジリアが建設された際には、首都建設に必要な食料生産を日系人に任せる目的で、当時の政府はブラジリア周辺に日系人を入植させた。日本人の農業を通じたこうした功績に対し、ブラジリア建設40周年記念式典の際には、日系人に対して連邦区知事から特別に感謝の言葉が述べられた。
果実生産も日本の経済協力を契機に盛んになっており、特に南部サンタ・カタリーナ州におけるリンゴ栽培等への協力は、ブラジルにおける日本のプレゼンス向上に大いに役立った。リンゴ栽培に関するブラジル側研究施設の所長に日系人が抜擢されたこともある上、同協力に殉じた日本人研究者の胸像まで設置されているなど、日本の農業協力の一つの象徴として位置付けられる。また、2005年9月29日解禁のマンゴーの対日輸出は、両国政府の間で20年以上に渡る懸案となっていたものである。
エネルギー
ペトロブラスは、1953年に経済的独立のための国営企業として成立した。その後民営化プロセスに成功し、企業は急拡大し、カナダのオイルメジャーを買収。欧米のオイルメジャーと張り合える存在となっている。ペトロブラスには、深海での石油開発能力、技術力において他メジャーよりも先行しており、未開発な箇所が多い深海油田をめぐり優位な立場で開発をおこなうと見られる。他、サトウキビ栽培によるバイオエタノール生産では2007年現在唯一、内需より生産量に余裕があり、輸出を行える状況にある。バイオエタノールの世界市場において、ブラジルが占める割合は7割以上に達する。エネルギー資源の確保について世界的に問題が深刻化するであろう今後、ブラジルのエネルギー市場での存在感が2000年代初頭より、急激に大きくなっている。
ブラジルは水資源が豊富なので、水力発電が占める割合は大きい。パラグアイと共同建設した同国国境地帯のパラナ川流域に位置する世界最大のイタイプー・ダムから電力を買っている他、国内各地にダムがある。
交通
詳細は「ブラジルの交通」を参照
旅客および貨物輸送の約85%を道路輸送に依存しているが、国土が広大なことより古くから航空運送が盛んな上、長い海岸線や豊富な河川を元にした水上輸送も盛んに行われている。
陸運
第二次世界大戦後は自動車の一般層への普及が進むとともに、高速道路網が急速に発達した。自動車の燃料として1970年代後半より政府主導の下アルコールが普及しており、多くの自動車メーカーがアルコール燃料車を用意しており、大抵のガソリンスタンドでアルコール燃料車にアルコールを入れることができる。最近ではフレックス燃料車(ガソリンや、アルコールを入れても動かせる車、混入可)が注目されている。
なお現在はヨーロッパや日本などと比べて排気ガス規制が甘いこともあり、都市部を中心に排気ガスによる大気汚染が深刻化しており、渋滞とともに大気汚染の緩和を目指して様々な対策が試されている。
現在の道路の総延長距離は165万kmであり、旅客および貨物輸送の約85%が道路輸送に依存している。サンパウロやリオデジャネイロ、ブラジリアなど都市部近郊の道路、および幹線道路の殆どが舗装整備されており、また、第二次世界大戦後の自動車産業の発達と自動車産業保護の観点から道路網の整備に重点が置かれていたこともあり、一般層への普及に併せて沿岸都市部を中心に高速道路網が急速に発達した。
しかし、大気汚染や渋滞削減などの観点から、近年は鉄道への注目が高まっており、都市圏における地下鉄や通勤電車の整備が進められているだけでなく、サンパウロリオデジャネイロ間の高速鉄道の整備も計画されており、日本の新幹線の導入も検討されている。
バス
高速道路網の発展とともに、寝台設備やトイレ、エアコン完備した長距離バスによる路線網が国中に張り巡らされ、手軽で安価な交通手段として重宝されている。また、アルゼンチンやウルグアイ、パラグアイなどの近隣諸国との間の長距離定期バスが、両国の主要都市の間で運行されている。
多くの都市では市内鉄道や地下鉄路線網が整備されていないことから、主な市内交通手段として市バスが使用されている他、サンパウロをはじめとするいくつかの大都市ではトロリーバスも運行されている。殆どのバスは外国資本や民族資本の企業によってブラジルで自国生産されており、連接バスや二階建てバス、歩道側だけでなく運転席側にも客用ドアを設置したバスなど多彩な車種が走っている。またその多くが国外へ輸出されている。
鉄道
航空機やバスによる長距離移動網が古くから整えられていた事や、自動車業界保護の観点から道路網の整備に重点が置かれていたこともあり、鉄道の総延長は2000年現在で29,283kmとその広大な国土に比べて少ない上、その殆どが沿岸部に集中している。なお、鉄道による貨物輸送のシェアは20パーセント強となっている。
上記のような理由から都市間を結ぶ長距離鉄道網だけでなく、都市近郊の鉄道網の整備も遅れていたが、サンパウロやリオデジャネイロなどの大都市では1970年代以降、交通渋滞解消や省エネルギー、排気ガスによる大気汚染の解消などの目的から、地下鉄や郊外との通勤電車の整備が進んでいる。なお多くの車両は国産ではなく日本やドイツなどの鉄道先進国からの輸入となっている。
航空
国土が広大なために古くから航空網が国中に張り巡らされており、現在国内に2000を超える空港を有しており、アメリカやロシアなどと並ぶ航空大国として知られている。特にサン・パウロ~リオ・デ・ジャネイロ間のシャトル便は世界有数の運送量を誇る。近年では元々はローカル線専門であったTAMブラジル航空と、元々はフラッグ・キャリアであった老舗のヴァリグ・ブラジル航空を傘下におさめた新興航空会社のゴル航空の二社を筆頭に、格安航空会社がその勢力を伸ばしている。
日本との航空便
日本との間には、現在日本航空が成田空港からニューヨーク経由の週3便とエミレーツ航空が関西国際空港からアラブ首長国連邦のドバイ経由(ただし現地での機材の乗換が必要)の週7便でサンパウロまで運行している。2005年1月まではヴァリグ・ブラジル航空も成田空港と名古屋空港にロサンゼルス経由の直行便を運行していたものの、アメリカ同時多発テロ後アメリカ政府がブラジル人に対してトランジット(乗継)ビザの取得を義務付けたことによる旅客の減少や、経営状況悪化を受け現在は運行を停止している。なお、ヨーロッパやアメリカ、カナダ、ソウルの主要都市で乗り継いで行く事も出来る。
国民
詳細は「ブラジルの国民」を参照
人種
ブラジル人は大きく4つのグループに分かれる。トゥピー・グアラニー語族の言葉を話す先住民( グアラニー人、アマゾン先住民など)、植民当時のポルトガル系、アフリカからの黒人奴隷の子孫(アフリカ系ブラジル人)、そして19世紀半ばからブラジルに定住するためにポルトガル以外のヨーロッパ、中近東、日本を中心としたアジア諸国からやってきた移民である。
ヨーロッパ系ブラジル人の多くは元ポルトガル人で、植民地時代はポルトガル人と原住民、黒人奴隷との雑婚が常態であった。独立後に続くイタリア人やスペイン人、ポルトガル人、ドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人、ロシア人、アシュケナジム系ユダヤ人などのヨーロッパ系や、日本人、アラブ人(シリア人、レバノン人)、中国人などのアジア系の移民の波や、独立後も続いた黒人奴隷の流入がブラジルの多様な民族と文化の形成に貢献し続けている。
ただし北東部はアフリカ系ブラジル人が多く、南部は主にドイツ系やポーランド系とする中東欧系住民が、南西部はイタリア系やスペイン系や日系をはじめとして、サンパウロ州のコーヒーブームにより現存するほぼ全てのエスニシティの移民が流入していたなど、地域差も見られる。
言語
公用語はポルトガル語(ブラジル・ポルトガル語)であり、ブラジル生まれの国民のほとんどにとっての母語でもある。ただし、ブラジルで使われるポルトガル語は語彙の面でアフリカやインディオの影響を強く受けているため、ブラジル・ポルトガル語と言われるほど本国ポルトガルのポルトガル語とは異なっている。しかし、日本はポルトガル語圏諸国の中ではブラジルとの交流関係が圧倒的に多いため、あえてポルトガルのポルトガル語と特記されていない限り、日本国内の語学教科書や語学講座で教えられているポルトガル語はブラジル・ポルトガル語であると考えて差し支えない。
1940年代のヴァルガス時代にブラジルのポルトガル語をブラジル語と呼ぶべきか否かを巡ってブラジル語論争があったが、結局ブラジル語なるものは存在せずに、ブラジルの言葉はポルトガル語の方言であることが確認された。ただし、ナショナリズムの観点からブラジル語という言葉を用いるブラジル人は今でも存在する。
なお、ブラジルにおける外国からの移民第1世代の中には、イタリア語やドイツ語、日本語や中国語なども使う者も多く、ブラジル生まれの2世以降においても家庭や各種教育機関においてこれらの言語を習得し、これらの言語に堪能な場合が少なくない。例えばドイツ語は南部のテウト・ブラジレイロ達に6世まで受け継がれて話されている。また北部イタリア移民の言語であるタリアンと呼ばれる北イタリア語がパラナ及びサンタ・カタリーナ東部からリオ・グランデ・ド・スーウ(以下南大河州)にかけて強く残り、北部ドイツからポーランドにおけるポメラノ語は、エスピリト・サント、サンタ・カタリーナ、南大河州で使用されている。ドイツ西部のフランス国境付近の言語であるフンスルキッシュ語は、南大河州のサン・レオポルドやサンタ・クルス・ド・スーウ、ベナンシオ・アイレスといった各市に残る。リオ・グランデ・ド・スーウ州最南部のウルグアイ国境で、ウルグアイのリベラ市と繋がっているサンターナ・ド・リヴラメントでは、リオプラテンセ・スペイン語とブラジル・ポルトガル語のクレオール言語であるポルトゥニョール・リヴェレンセが話されている。
また、インディオの言語は180近く存在すると見積もられており、トゥピナンバー系の言語の1つであるニェエンガツー語は、特にリオ・ネグロの上流、サンガブリエル・ダ・カショエイラでは日常語である。またグアラニー語はMBYA、NHANDEVA、KAIOWAの3語族に大別されるが、エスピリト・サント、リオ、サンパウロ、南部三州、マット・グロッソ・ド・スーウの各州において約3万人が話す言語である。
アフリカ系言語であるカフンド語は、ミナス・ジェライスの中西部のジラ・ダ・タバチンガの奴隷博物館、サンパ・ウロのサウト・デ・ピラポーラ市に残っており、ブラジル最北端のオヤポッケ地方ではインディオ語やアフリカ語、フランス語の交じり合ったカリプナ語などがある。
宗教
ブラジルは、世界で最も多くのカトリック人口を擁する国である。国民の約73%が、カトリックの信者で、これは1億1240万人に相当し、カルナヴァルなどをはじめとして現在も社会に強い影響を持つ。プロテスタント信者も1970年代より伝統的なルター派、プレスビテリアン、バプティストなどが増加し、近年はペンテコステ派やネオペンテコステ派も増加している。プロテスタントの信者は人口の15.4%となっている。
非キリスト教の少数宗教としてはマクンバ、バトゥーケ、カンドンブレ、ウンバンダなどアフリカの宗教に起原するアフロ・ブラジル宗教がある。ブラジルのイスラーム教はアフリカからの黒人奴隷のイスラーム教徒によってもたらされたが、現在では主にアラブ系ブラジル人の移民によって信仰されており、約55のモスクとムスリムの宗教センターがあると見積もられている。アジアからも仏教、神道、道教やさまざまな新興宗教などがもたらされている。日本発祥の宗教として創価学会の会員も存在している。他にも霊友会や生長の家や統一教会などが布教活動をしている。無宗教者は人口の7.3%である。
教育
詳細は「ブラジルの教育」を参照
初等および中等教育
初等教育と中等教育(日本における高校以上の教育)、高等教育(日本における大学)からなり、初等教育と前期中等教育を併せた義務教育は8年間、後期中等教育は3年間となっている。義務教育年齢の児童の中、学校に行っているものの率は約97%となっている[8]。また、1990年代から中等教育を受けるものが急増している。中等教育を終えると高等教育への道が開ける。主な問題としては初等、中等教育における落第率の高さや教室、校舎数の不足などが挙げられる。1930年代に国民の2/3が非識字者だったように、かつては初等教育に力は入れられてこなかったが、パウロ・フレイレらの活躍により初等、中等教育の見直しが行われて現在に至っている。2004年に推計された15歳以上の人口の識字率は88.6%(男性:88.4%、女性:88.8%)である[9]。
なお、サンパウロやリオデジャネイロなどの大都市には日本人学校(小学校、中学校)がある他、日本人子弟向けの幼稚園も存在する。
高等教育
植民地時代にはブラジルに大学は存在せず、エリート層はポルトガルのコインブラ大学や、ブラジル内の各種高等専門学校で教育を受けた。その後独立してから1827年にサンパウロとオリンダ(後にレシーフェに移転)に法科大学が設立され、ブラジルのエリートを養成する機関になった。正規の大学は20世紀になってからの1912年にクリチバのパラナ連邦大学がようやく建設されたために、高等教育の歴史は深くはない。大学の建設は1930年代のヴァルガス時代に既存の専門学校の改変を軸にして特に重点的に行われた。
主な高等教育機関としてはリオデジャネイロ連邦大学(1792年、1920年、1937年)、パラナ連邦大学(1912年)、サンパウロ連邦大学(1933年)、サンパウロ大学(1934年)などが挙げられる。
文化
詳細は「ブラジルの文化」を参照
ブラジルの文化は、インディオと呼ばれるトゥピ・グアラニー系の先住民や、ヨーロッパやアフリカ、アジアからの移民などが持ち込んだ様々な文化が織り成すモザイクだと評されることが多い。古くから音楽や建築、スポーツなどの分野で世界的に高い評価を受けることが多く、世界的に有名なミュージシャンやスポーツ選手、芸術家を多数送り出している。また、多彩な文化的な背景を持つ国民を対象にした広告表現などでも近年では高い評価を受けている。ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に「サウダージ」という言葉がある。
食文化
詳細は「ブラジル料理」を参照
アフリカからの奴隷の食事がルーツといわれるフェジョアーダや牧童の肉料理であったシュハスコ、バイーア地方のムケカ、ヴァタパ、カルルー、ミナス地方のトゥトゥ・ア・ミネイラほか、またロシア系のストロガノフもブラジル風にアレンジされてよく食される。
おつまみ程度のものはサウガジニョと呼ばれるが、これらにはブラジル風コロッケのコシーニャやアラブ系のキビ、パステウ(ブラジル風揚げ餃子)などがあり、豊富な肉や野菜、魚介類を基にしたブラジル料理が日常的に食べられている。南部三州では、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイといったラ・プラタ諸国と文化が近いため、グアラニー人起源のマテ茶を飲む伝統がある。
また、ヨーロッパなどからの移民や20世紀以降の日本人をはじめとするアジア系移民など、様々な人種が融合していることもあり、都市部を中心にイタリア料理やドイツ料理、中華料理や日本料理など様々な国の料理が味わえる。特にイタリア料理のレベルは高いとされている。
主にドイツ系移民がもたらしたビールの生産、輸出国としても知られている。ブラジル国内では加熱処理したセルヴェージャに加え、生ビールであるショッピが非常に好まれるが、地ビールのブランドもかなりの数がある。またブラーマやアンタルチカ、スコールといったブランドは日本やヨーロッパ、アメリカ諸国にも輸出されている。なお、これらは当初別会社であったが次第に合併により、現在はベルギーに本社を持つ世界最大の「InBev(インベブ)」社に属すブランドとなっている。
また、南部では同じくドイツ系の移民やイタリア系の移民を中心に、その気候を生かしてワインの生産も古くから行われている。ブラジル独自の酒としては、サトウキビを原料とした蒸留酒であるピンガ(カシャーサ)が有名である。このピンガを使用したカクテルであるカイピリーニャやバチーダもよく飲まれる。また、日系人が設立した現地企業が日本酒「東麒麟」を生産している。
コカ・コーラやペプシなどの他にガラナの実を使用したソフトドリンク(ガラナ飲料)が広く飲まれており、日本やアメリカなどの各国へ輸出もされている。また、ブラジルはフルーツも豊富な国として知られ、オレンジジュースやマラクジャ(パッションフルーツ)、カジュー(カシューナッツの実)、ココナッツなど多くの種類がある。またアマゾン原産のトロピカル・フルーツであるアサイーやアセロラ、グラヴィオラやクプアス、グアバなどもよく好まれており、近年日本でもそれらのジュースやバルブ(ピューレ)が輸入されている。
文学
詳細は「ブラジル文学」を参照
文字によるブラジル文学は、16世紀にブラジルに到達したポルトガル人のペロ・ヴァス・デ・カミーニャの『カミーニャの書簡』に起源を持つ。
1822年の独立後、当時の知識人はヨーロッパ、特にフランスに文化の範を求めた。1836年からゴンサルヴェス・ド・アルヴェスの『詩的吐息と感傷』によってロマン主義がヨーロッパからもたらされたことにより、インディオを理想的なブラジル人とみなすインディアニズモの潮流が生まれ、詩の分野ではムラートの詩人のゴンサルヴェス・ジアスが大成し、その他にも『イラセーマ』と『グアラニー』で知られるジョゼ・デ・アレンカールや、奴隷制廃止運動の第一人者となった詩人のカストロ・アルヴェスを生み出した。19世紀後半の第二帝政期には写実主義がヨーロッパからもたらされ、写実主義の作家としては『ドン・カズムーロ』(むっつり屋)で知られるマシャード・デ・アシスや、『コルチッソ』で知られる自然主義作家のアルイジオ・アゼヴェドなどが挙げられる。
1889年の共和制革命後、1897年にはブラジル文学アカデミーが設立され、初代会長にはマシャード・デ・アシスが就任した。この時代にはカヌードスの反乱を取材した『奥地』で知られるエウクリデス・ダ・クーニャや、リマ・バレット、モンテイロ・ロバートが活躍した。
第一次世界大戦によってブラジルのエリートが範としていたヨーロッパが没落すると、「ブラジルのブラジル化」が掲げられ、文化面でのヨーロッパの模倣からの脱却が模索された。それまでの文化潮流を背景に1922年から始まった近代主義運動においては、1920年代にはブラジル各地の伝承や神話を素材にした小説家のマリオ・デ・アンドラーデや、後にファシズム政党インテグラリスタ党を創始したプリニオ・サルガード、「食人運動」を称揚したオズヴァルド・アンドラーデが活躍した。続く1930年代、1940年代のヴァルガス時代にはヴァルガスによる中央集権体制に抗するかのように地方主義(レジオナリズモ)が発達し、グラシリアーノ・ラーモス、ジョルジェ・アマードなどの小説家や、カルロス・ドゥルモン・デ・アンドラーデなどの詩人が活躍した。
現在はマリオ・デ・アンドラーデやマヌエル・バンデイラなどが特に対外的にも有名であり、日本でもジョルジェ・アマードの『革命児プレステス 希望の騎士』、『カカオ』、『果てなき大地』、『砂の戦士たち』や、ジョゼー・デ・アレンカールの『イラセマ』など、またパウロ・コエーリョの『星の巡礼』や『ベロニカは死ぬことにした』など多くの著作が翻訳されている。
1988年にブラジル、ポルトガル両政府共同で、ポルトガル語圏の優れた文学者に贈られるカモンイス賞が創設された。
映画
詳細は「ブラジル映画」を参照
ブラジルはアルゼンチン、メキシコと共にラテンアメリカでも特に映画制作が盛んな国である。ブラジルに映画が伝えられたのは1896年7月で、リオでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。1905年ごろには短編作品が多く撮影され、各地に映画館が建てられた。1930年にマリオ・ペイショットの『リミッチ』が製作され、これはイギリスやソヴィエトでも上映された。
1950年代後半にはシネマ・ノーヴォという運動からカルロス・ヂエギス、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、グラウベル・ホーシャ、ルイ・ゲーハといった監督を輩出した。1964年に軍事政権が樹立されると表現の自由が制限され、検閲が行われた。1969年に発足した政府機関のブラジル映画公社(エンブラ・フィルメ)は、ほとんどの映画作品の製作に関与した。1976年にブルーノ・バヘットによる『未亡人ドナ・フロールの理想的再婚生活』(ドナ・フロールと二人の夫)が製作・公開されると、ブラジルで1300万人を動員し、観客動員数第一位を更新する空前の大ヒット作となった。また同監督の『ガブリエラ』、ヂエギスの『バイバイ・ブラジル』、『シッカ・ダ・シルヴァ』など、ブラジルの史実に基づいた多くの良心的な作品が製作された。またアルゼンチン出身のエクトール・バベンコも、ブラジル国籍を取得して活動拠点を移し『蜘蛛女のキス』、『カランジルー』(2003)などを製作した。1986年に軍事政権が終焉すると民主化が活発化し、低予算で製作される大衆的な作品も増加した。しかし、1990年代に入るとそれまでのブラジル映画公社を主体としたブラジル映画製作は行き詰まり、完全な破綻を迎えた。
現在のブラジル映画の再生は、1994年から始まった。1998年、ヴァルテル・サレスの『セントラル・ステーション』が多くの国際的な受賞を受けたことから、ブラジルの映画にも注目が集まるようになり、ヂエギスの『オルフェ』(1999)をはじめ、『トロパ・デ・エリーテ』、『デスムンド』などがブラジル国外でも公開されるようになった。特にファヴェーラの問題を描いたフェルナンド・メイレレスの『シティ・オブ・ゴッド』(2002)は、多くの映画祭で受賞、世界的にヒットした。このような成功により、ブラジル人監督による映画作品が世界的に注目されている。また他に『クアトロ・ディアス』、『スエリーの青空』、『モーターサイクル・ダイアリーズ』、『バス174』、『オイ・ビシクレッタ』、『私の小さな楽園』、『ビハインド・ザ・サン』、などの作品が国外でも公開され、これらは日本でもDVD化され販売されている。『フランシスコの2人の息子』(2005)は『ドナ・フロールと二人の夫』の記録を塗り替え、観客動員数歴代一位を更新した。また東京では、ブラジル映画祭が毎年開催されており、日本でも多くの作品が公開されている。
ブラジル国内においては、近年各地のショッピングセンターにおけるシネマコンプレックスが増加している一方で、いわゆる海賊盤と呼ばれる違法なDVDが販売されることも多い。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した『トロッパ・デ・エリーテ』は公開前から海賊盤が出回り、映画の内容を多少変更せざるを得なくなってしまったという事件が起こった。
音楽
詳細は「ブラジル音楽」を参照
ブラジルの音楽はトゥピー・グアラニー系のインディオ、アンゴラ、ナイジェリアをはじめとするアフリカ、ポルトガルやその他ヨーロッパの伝統が混じりあって発展した。したがってブラジルにおける音楽的文化は非常に高く、貧富の差を問わず多くの国民が音楽を好む傾向にある。また、それらの複合的なメロディーと独特なリズムやハーモニーの要素から、古くより世界的に高い評価を得ている。日本でも他の地域のワールドミュージック愛好者に比べれば、ブラジル音楽を愛好する人は非常に多い。
主な音楽のジャンルとしては、日本でも一般に知られるサンバやボサノヴァに加え、インストルメンタルではアメリカのジャズよりも古い歴史を持つといわれるショーロ、ポピュラー音楽であるMPB、あるいはフォホーをはじめとするノルデステ(北東部の音楽)、バイーアのアシェーなどが挙げられる。
ただし、ブラジルの若い世代は、こうしたブラジル音楽よりも、欧米のロックやポップス、ブレーガ(ブラジルの俗謡)を好む人も多い。また近年ではCSSのように世界的に人気を集める若い世代のバンドも現れている。
ブラジル音楽では、サンバなどで使われるパンデイロやスルド、タンボリン、ビリンバウなどブラジルで発展・発明された楽器が多い。このためパーカッションが比較的に多用される傾向があるため、ブラジルは打楽器の強い国、あるいは他の楽器が弱い国と思われやすい。しかし音楽自体が盛んな国であるため、ピアノ、あるいはヴィオラゥンやカヴァキーニョなどの弦楽器、フルートやオーボエなどの管楽器などもよく演奏される。また歌手や声楽家なども多く、有能な人材を世界に送り出している。
また、ポピュラー音楽のみならず、クラシック音楽やジャズの分野においても重要な音楽家を輩出しており、著名な音楽家としては19世紀に活躍したオペラ作曲家のカルロス・ゴーメスや、『ブラジル風バッハ』などで知られるエイトル・ヴィラ=ローボス、エルネスト・ナザレーといった作曲家のほか、演奏者としてはアサド兄弟などのギター奏者も世界的に知られている。
カーニバル
毎年2月頃の四旬節の前に、国中の市町村でカーニバル(ブラジルポルトガル語では"カルナヴァウ"と発音する)が祝われる。期間中は国中を挙げ、徹夜でサンバのリズムに乗って踊りまくる。リオのカーニバルといえば、一般的に死者が多いことで知られるが、これは酒に酔ったための喧嘩や飲酒運転による自動車事故、心臓麻痺などで毎年数百人規模の死者が出ることである、したがってカーニバル自体での死者が多いということではない。
リオデジャネイロで行われるカーニバルは世界的に有名で、世界各国から多くの観光客を呼び寄せている。エスコーラ・デ・サンバ(Escola de Samba、千人単位の大規模なサンバチーム、以下「エスコーラ」と略称)単位によるパレードがサンボードロモというコンテスト会場で行われ、一番高い評価を得たサンバチームが優勝する。いわゆるリオのカーニバルは、サンボードロモで行われるコンテストを指すことが多いが、それ以下の小規模なエスコーラやブロッコ・カルナヴァレスコ(Bloco Carnavalesco)などが、リオ・ブランコ通りなど街中やイパネマ海岸付近などをパレードすることも多い。
なお、リオのカーニバルはサンバだけだと思われがちであるが、マルシャ(ブラジル版3拍子のマーチ)やポルカなども演奏されている。
世界遺産
ブラジル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が10件、自然遺産が7件ある。詳細は、ブラジルの世界遺産を参照。