やっと「社会の一員」として認められた日系人

 

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【筆者プロフィール】  眞砂 睦

 * 1695年 早稲田大学法学部卒業 * 1695年   野村貿易(株)入社、ブラジル(リオ デジャネイロ市、ベロオリゾンテ市)、 シンガポール、香港に駐在

 * 2003年   同社退社 *2003年~2006年 独立行政法人国際協力機構(JICA)派遣の 「日系社会シニア・ボランティア」 としてブラジル・サンパウロに滞在。

 

 紀南人材交流センター 運営委員

和歌山県中南米交流協会・紀南支部長

 著書「遠くて近い国」(無名舎出版)

 


 

 8月31日、政府は「日系定住外国人施策に関する基本指針」を公表した。その中で、日系ブラジル人など日系の外国人を「日本社会の一員」と初めて位置づけた。日系人が日本にやって来て、30年も経ってやっと政府が日系人の立場を明確にしたことになる。

 

1980年代後半に日本政府は3世までの日系人とその家族に日本での就労査証を発給、バブル経済の働き手として日本の労働市場の門戸を開いた。当時ブラジルなど南米の経済状況が思わしくなかったことから、またたく間に40万人近くの日系人が日本の労働現場で汗を流すようになり、日本の企業にとってなくては困る働き手となっていった。一方で、外国人労働者の受入に不慣れな日本の社会のなかで、彼ら日系人の雇用や労働条件、子弟の教育や社会福祉など、解決すべき問題が累積していった。しかし政府や中央官庁は正面から事態に向き合うことをせず、実質的な対応はすべて日系人が住む地方自治体やNPOなどのボランテイア団体、個別の企業などに押し付けていたのが実態だった。

  

バブル経済が破綻すると、派遣労働者であった日系人は真っ先に解雇された。日本語が不自由な多くの日系人は再就職が難しく、帰国を余儀なくされた。日本での生活が長い日系人家族は日本定住を決断するケースが多かった。日本に馴染んだ子供たちが日本に住むことを希望するからである。しかし失業は辛い。子供の授業料が払えないためブラジル人学校を退学させ日本の公教育を受けさせるが日本語が充分でないため落ちこぼれ、不登校が増える。行き場のない若者が犯罪にはしる。失業保険が充分ではなく、多言語で対応してくれる職業訓練所もない。病気になっても健康保険が適用されない。そしてなによりも、困った時に外国語で相談にのってくれる窓口がない。そうした問題が重なり合って、日本に残ったおよそ30万人ほどの日系人たちは苦しみぬいてきた。これまで日系人とまじめに向き合ってこなかった政府や中央省庁が犯した「不作為」の罪のためである。

 

世界は狭くなって、物も金も国境など苦もなく飛び越えて移動する。人の往来も頻繁だ。しかし生身の人間を物や金と同列に論じるわけにはいかない。就労査証を出して外国人を呼び寄せる以上、いわんや外国人に定住を認めるについては、国としての確固とした考え方に基づいて、長期的視野にたった統一的な施策を策定することが大前提であろう。人手不足の駒として呼び寄せておいて、景気が悪くなると真っ先に解雇、それでも定住を希望するなら勝手にどうぞ、というのでは国家の体をなしていない。そんないいかげんな日本のなかで、苦労したのは当事者たる日系人であることは申すまでもないが、彼らの生活現場となっている地方自治体も混乱続きであった筈。30年間もそんな状態が続いていたのである。品格のある法治国家がなすべきことではあるまい。

 

今般、日系人を「日本社会の一員」と位置づけたことを受けて、政府は定住外国人の処遇について国として統一した施策を策定するとしている。2012年度から外国人も住民基本台帳に登録されることになっているが、その登録が始まる2012年から施策を順次具体化していくという。しかしこれらの施策は、多くの省庁にまたがる事項が多いので、果たして政府の所期の方針が貫徹されるのか、疑問も残る。今後の推移に注目していきたい。

 

 


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