知花 真勲 「悲劇のカッペン移民」

 (1)

<出発>

 私のブラジル移住は、沖縄出発の時から平穏ではなかったように思う。
 先ず、神戸の移民斡旋所で出国手続きや移住者への講習を受けるために船倉荷物を那覇港に残して私達は、手荷物のみを持ってチチャレンカ号に乗り込み那覇港を出発した。
 ところが、出発してから数時間の航行中に暴風に巻き込まれ、奄美大島の名瀬港に寄港を余儀なくされた。神戸に到着したのは3日後であった。斡旋所で諸手続きや講習などに一週間を要し、いよいよブラジルに行く移民船チチャレンカ号に乗船して神戸港を後にした。
 荷物を乗せるため那覇港に寄港するはずであった移民船は、航行中再び強い暴風に見舞われ、とうとう寄港することもできずに、親戚や知人との最後の別れをなす術もなく、無言の別れを余儀なくされた。
 うしろ髪を引かれる思いを断ち切れないままに故郷を後にして、次の寄港地ホンコンに向け、南下せざるをえなかった。
 沖縄からの旅立ちと同時に暴風、そしてまた、暴風に遭遇し、暴風に吹き飛ばされた感じで心淋しい思いであった。
 更に、私達第4次移民者は、県や村から一銭たりとも支度金もなく、地球の正反対の位置にあるはるか南米ブラジルの地に少々の小遣い金を持参しての旅立ちだった。
 これから書き綴ることは、たとえ乗り越えてきた「私の過去」とはいえ、なんと「無謀」なことであったか。やり場のない怒りと悲しみがこみ上げ、苦渋をかみしめることなしには語り得ない、「私にとってのカッペン移民」である。
 家族は夫婦と子供5名の7名家族だった。
 港には、当時の在伯沖縄協会事務局長の屋比久孟清氏、移住者の先発隊々長比嘉徳行氏外、大勢の関係者の出迎えを受け、早速入国手続きをすませた。
 関係者とコーヒー店に足を運び、初めて見る真っ黒いコーヒーが小さいコップに注がれていて砂糖を小さじ2、3杯いれて飲むとハチミツのように濃く、しかも苦くて飲みにくかったことがブラジルの初印象だった。
 下船して時間がたち婦女、子供達は空腹をかかえておるところに、サントス在住の県人達がオニギリやパン、ソーセージなどを恵んでくださり、このご厚意がひとしお胸にしみた。
 同日の晩、いよいよ我々第4次隊は、用意された汽車で新天地に向け、サンパウロを出発、長い汽車の旅の末に最終駅のマット・グロッソ州カンポ・グランデ駅を中継地として、そこで下車することになった。
 サンパウロから約1300キロもあるこの地域には、沖縄県人の戦前移民の方々が大勢おられることを知らされた。移住荷物を乗せた貨車が2日遅れになるので、その間私達は、旧移民で恩納村仲泊出身の石川盛徳さんが経営しているペンソンにお世話になり、3日間宿泊した。

 

 

(2)

<カッペンへの道―過酷・辛苦な道のり>

 見ず知らずの他人でありながらの親切心に、「イチャリバチョーデー(一度会ったら皆兄弟)」のチムグクル(真心)に胸が熱くなったことが思い出される。
 駅で荷物を受け取り、次の目的地に向かった。3台のトラックを借り受け荷物も人間も一緒に乗り合わせて、約900キロの行程のでこぼこ道を、昼夜を通して3日2晩をかけて2番目の中継地・クィアバー市に到着することが出来た。
 このクィアバーの町が買い物の出来る最後の町であるとのことで、そこで二日間滞在して当分の食糧や必需品を買い求め、現地への出発準備を整えた。
 いよいよ三日目の朝、最後の移民隊として沖縄からの古い家財道具、荷馬車道具、農具類等、その大きな梱包に加え、買い求めた生活必需品等トラック三台の荷物を積み替え、満載した荷物の上にまたもや人間を乗せて目的地・カッペン植民地にむけて出発の途についた。
 しかし、カッペン移住地までは、更に600キロの道を走らなければならない。ところが150キロほどまでは難なく進んだが、その先に道らしい道はなく、風雨で倒れた大木がトラックの行く手をさえぎり、これをさけるため両側の大小の草木を鋸やオノを使って切り分け車道をつくって進む。
 しばらく進むと今度は、風雨で出来た砂の道が現れ、行き先を阻んだ。道の両側は、水の深い小川の流れとなっていて、砂道を越えるにはトラックの積荷が重くて、たちまちタイヤがのめり込み前進出来ない。
 今度は、鋸、オノを使って木を切り出し、タイヤの前に敷きつめ少しずつ前進させて、のめりから脱出していく悪戦苦闘が続く。その間老人や女、子供たちは手に汗をにぎりながら見守る有様。おまけにモスキット(シベー)にさされ、身を守るのに、まさに「苦闘」の連続であった。
 やっと砂道を脱出したかと思うと、今度は数十キロのカンポ(野原)道が続き、女、子供が用を足すのに数十分の休憩をとるため、ちょっと茂った木を利用しての用足しであったが、ブラジルのカンポは、血の気がする生き物にめがけて、血を吸う無数のムシケットが群がり、用をたすにも命がけであった。間もなくして前方に川幅150メートルぐらいある大きな川が見えた。
 この川にかけられたバルサといって、向岸に渡るため端から端に太いワイヤで、木造船二つを組み、その上にトラックや他のものを載せて渡すしくみになっている。このような危険このうえないバルサによる命がけの渡河作業を無事通過して胸をなでおろした矢先、またまた前方にこれまでと同じ川が二つも三つもあり、丸太棒大木で橋がなりたっており、そこを通過して目的地に到着するのであった。

 

 

(3)

振り返ってみて、自分達が夢にまで見た入植地カッペンが、こんなにも難関で遠隔の地とは思いもよらなかった。
 地図で見るブラジル大陸と、今辿ってきた現実の道程、その差はこれほどまでに予想に反するものかと、ブラジルの大陸の広大さを改めて実感せずにはおれなかった。

 

<幻の理想郷―地獄谷の苦しみ>

 入植地までの道程は、まだ程遠くあり、これから更に奥に入っていかねばならない。
 見渡す限り赤く低い雑木のカンポ(野原)には、モスキットが一面に生息しており、子供達に気をかけながら前進を続ける。
 しばらくして前に現れたのが、かつて日本人の入植者が住んだところで、カッペン移民の先発隊や、2次・3次移民の仲間達が休息地として、ここから40~50キロもある奥の入植地へ、測量や道造り・住宅建築、その他の作業にとって不可欠の中継地として利用した「旧カッペン」と称する所であった。
 先発隊移民の皆様は、本耕地手前5キロの地点に後続受け入れのため、仮住まいの家族ごとの小屋を作りここより耕地に通い、前記の諸作業を行った。私達4次隊は、やっとここで船倉荷物の大コンポーの縄を解くことができた。
 ここから、与えられた入植耕地まで、あと5キロの道のりだ。子供たちも連れ、徒歩で通い開墾作業に従事することを思い、いよいよ初期の目的である開拓に向けて改めて心が躍動し、情熱が湧き出たものだ。
 ところが、先発移住からすでに約3カ年が経過し、その間に測量はじめ開墾、家造り、そして自給農作物の米やマンジョーカ、いろいろな野菜が植えられ、また、永年作のゴムやコショウ等も植え付けられているものの、その作物の生育がままならず、移住者のほとんどが脱耕するようになっていたのだ。
 実は、作物が実らないのは、土地が酸性土壌のためで、植え付けても育たないのだ。将来に希望が持てず、永住に見切りをつけ、脱耕者が続出し、その殆どがカンポ・グランデ方面に後戻りして、退却したのであった。
 カッペンは、マット・グロッソ州の北に位置し、アマゾン上流の人跡未踏の遠隔地で、交通の便は、皆無といってよい。退耕するにもこれまた500キロ離れた、通ってきたクィアバー市まで行かなければトラックも借りることができない。
 それに往復の運賃、費用等も含み、手の負えない状況で私達4次移民を運んだトラックの帰りを利用し、私達と入れ替わりに退耕していく有様であった。
 当時の私達には高さ20メートル余の大木の原始林を目のあたりにして脱耕者がいることは不思議でならなかった。私たちは、石の上にも3年、と意志は固く、一日も早く仕事に励みたいという心境で、他のことは気にも止めなかった。いよいよ定着の構えができ、耕地の開墾に取りかかった。

 

 

(4)

ちょうど種蒔時期で寄せ焼きにいそしみ、初めての主食・米の種蒔で賑わい始めた。その意気込みは大きく期待に応えるかのように稲の発芽は思いのほか早やかった。
 ところが、稲はなかなか伸びず、生育がおもわしくない。一方、トウモロコシを種蒔してもこれまた同じで、発芽して20糎ほどのびると、そのまま生育せず紫色に変わり、枯れて行くありさまである。その時はじめて酸性土壌であることを知り、退耕者の続出に気が付いた次第であった。その頃の衝撃は、今も忘れることができない。
 残った先輩移住者(1次、2次の方々)と私達は、月日がたち食いつなぐ作物の植え付けがようやく済むころになり、ふと思い出し不安となった。この地に入植をして来た時の道のりのことであった。

 旧カッペンからここまでの道が5、6カ月の間に風雨により大木や草木に閉ざされるのではないか、と心配となり、皆の頭痛の種となった。そこで居残った総員の相談の結果、約40キロに及ぶ路の整理を共同作業として行こうことになった。
 年寄りと子供を家に残して、鋸やオノ、鍬、スコップなどを持ち、昼は薄暗い6、7時ころまで働き、夜は路上にテントを張って皆でゴロ寝した。夕食、昼食のすべてを共同炊事で、若いご婦人が担当、一晩中火をともして朝を迎える。このような日々の連続であった。
 この道路は、残された我々にとっては命をつなぐ大切な道路であり、雨期になると泥沼化と倒木で車が通れなくなる。そのためには、定期的に作業を続けなければならない。
 このような条件下にありながら、私達は、将来に夢をかけて一生懸命頑張った。留守をしている年寄りや子供達に気をかけながらの作業であったが、ようやくそれも終り急いで帰宅した。
 あくる日から、入植最初の作物、米の収穫が不作ながらも子供達も総出で始めた。ところが、3俵の種を植えた稲を刈り取って収穫した量は僅か12俵の籾で、しかも沖縄語で言う、シピジャーだらけだ。
 他の家族も大体同じである。仕方なく次年度の作付けに希望を繋ぎ、家族全員が精を出して頑張り通した。月日が経ち、1カ年余が過ぎた。途方にくれながら、しかたなく同じ作物の植え付けを繰り返すのみであった。
 やがて雨期が到来し、雨の日が続くようになり恐ろしい風土病・マラリアが蔓延し、その脅威の中で犠牲者が続出するに至った。
 私の家族の入植時の家族構成は、12、10、8歳の娘と、6、4歳の息子、それに私達夫婦、合わせて7名であった。他の入植家族も若者が多く、1カ年を経過するうちに二世の子供が誕生するようになり、目出度さが続くようになった。わが家族にも男の二世の子が誕生した。
 この目出度さの後に、マラリアが襲いかかってきた。毎日開墾作業のため疲れておる身に、食生活の不均衡、そのうえ体を酷使しているために体調に異常をきたすようになり、かつて経験したこともない高熱の風邪症状の病に襲われた。

 

 

(5)

他の家族の人々もこれに感染した。カッペンは、最初から医療施設もなく、無論医者は一人もいない。手の施しようも無く、日本から持参してきた少量のマラリア薬とか、熱さましなどを服用させ、その場しのぎの有様であった。
 数日がたって、若い18歳の又吉青年が危篤に瀕した。高熱と震えがとまらない。500キロもあるクィアバー市に、オンボロトラックに青年を父親とともに乗せ、医者に診てもらうために出発させた。
 ところが明朝になって、トラックが帰ってきた。道中で息を引き取ったのである。この青年がマラリア第1号の犠牲者となった。
 他の病人達も、日々を重ねるごとに体が弱るばかりで、見るに見かねる状態のままに、またしても犠牲者がでた。私達は、苦しみと悲しみにうちのめされて、悲痛な絶望感で押しつぶされそうになった。
 病人は弱るばかりで、家族は仕事も手につかず、その日その日を病人と過ごすばかりであった。犠牲者は相次ぎ、1カ月少々で6名が亡くなった。その中の一人に、私の子も含まれていた。
 このような中で、親、兄弟、子供を亡くした家族はもとより、ほとんどの仲間たちが病身となり、もはやこの地に居とどまる心地がしない、と口を揃えて話し合った。そして、いさぎよく退去することに総員が決意を固めた。そこで、元気な若い青年2、3名が組んで行先視察調査に出てもらった。彼らが一日も早く再移住地を探して、迎えにくることを神に拝むようにお願いするばかりであった。

撤退―無残を背負いつつ

 早速、青年たちは、クィアバー市とカンポ・グランデ市との中間地のCapim Brancoにあるブラジル人所有のファゼンダに行きついた。
 そこには1ヵ年前に退耕したカッペン移住者の方々が居られて、その方々を頼んで同じ耕地に入れて貰うように耕主に交渉してもらった。それが成功し、この外人ファゼンデイロが経営する大耕地に移住することになったのである。
 勿論、カッペンからは後戻りの約800キロの道のりで、皆が移動する資金も皆無で、移動費、食料費、農機具、生活費などを貸していただくようにと懇願した。そして、すべて願いが叶った。
 そして耕地主と相談し、トラックを3台ほど出してもらうことにして、これで残留の8家族が一緒に退耕することになったのである。
 ところで、いざ退耕となれば、先ず犠牲になった方々をそのまま置いて出るということもできないで、一緒に連れていくため、枯木を集めて火葬を行い、犠牲者の遺骨を整えた。
 皆疲れ果て、それでも移転入植の夢で、励まし合いながら、迎えのトラックを待ちわびた。幸いに人々は、病魔から脱し、元気を取り戻しており、新しい移転先の旅程は安心できた。

 

 

(6)

出迎えのトラックが、3名の青年と共にやって来てすぐに積荷を始めた。3日目に積荷を完了し、全員がカッペンを後にした。
 カッペン耕地を出て、入ってきたコースを悪戦苦闘しながら走り抜け、新しい耕地に入植した。この新開地もまた、最初から森林の開墾、掘立小屋の新築と、昼夜についで全力を尽くした。例のとおり、主食の米の植え付けが最優先作業だった。
 ところが、この年は旱魃が続き、植えつけた稲穂は、白くなり実を結ばないまま全滅し、そこでもまた泣かされた。一期作の米の収穫もしないうちに契約上で退耕する月日に近づき、おまけにこの一年の生活費等の借金は重なり、1カ年の苦労が水泡に帰した。
 その上、退耕するさいに借金を支払わねばならない。しかし、私達には、誰一人として、返済する金もなく、もはや、どん底においつめられた状態で、先は真っ暗であった。
 ここに来て、私達は救いを求める術もなく、とうとう恥をしのんで沖縄の親戚にSOSを発した。「この手紙がついたら1銭でも多くの金送れ」という手紙を送った。会ったこともないハワイの叔母にも窮状を訴えた。
 それが最後の手段であった。
 ようやく沖縄、ハワイからお金が届いた。そのお金をプールにして松田家、山内家などすべての家族に配分して借金を支払うことにした。のたれ死同然の自分達の身の上に、救いの手をさしのべてくれた沖縄、そしてハワイの親戚の愛の尊さに、ただただ感謝の涙がこぼれ落ちるばかりであった。
 ところが、無念にもその後がまた二の舞となる。全額を返済することができなかったので耕主は、「7月いっぱいに退耕せよ」と通告してきた。そこで、若者たちを移動先の「ファゼンダ」探しの「視察」に出したのだが、耕主は、「早く出て行け」と、草に火をつけるふりをして小屋も皆焼き払ってしまった。
 幸にもその日に移動のためのトラックが来たので、難を救われたようなものだった。
 移動先は、クィアバーの北方、カッペン植民地方面に200キロほど戻ったところにあるブラジル人所有のファゼンダで、原始林の伐採と牧場作りの仕事であった。トラックを出してもらい到着したものの、そこには住む小屋すらなかった。作物の植え付けもできないうちに雨期に入ってしまった。すがるところもなく、子供らも含めて7家族が一つのテントの中に身を寄せ合う状態が続いた。ここもまた安住の地ではなかった。
 偶然にも、このファゼンダから4キロほど離れたところに、本部町出身で戦前移民二世の上間テツオさんの耕地があることを知った。私達は、男4~5人連れ立って、「助けてください。あんたの土地の片隅でもよいから、野菜でも作って女・子供を養っていくだけでもしたいので、なんとか助けて下さい」と、頼み込んだ。
 上間氏の父親は、かつてカッペン植民地に関係したこともある人だったので、私達に理解を示してくれたが、土地を購入したばかりで、雇い入れる余裕がないということだった。そこを私達は拝み倒して受け入れてもらった。本当にワラをもつかむ思いだった。

 

 

(7)

この耕地は、まだ未整地だったが、土地は大変肥沃だった。若い連中は共同で住家を作り、山羊小屋作りにせいをだした。年寄りたちは荒地を耕し米を植え付けた。稲はたちまち育ち豊作であった。
 ところが、収穫直前になって40年ぶりといわれる大雨に襲われてしまった。この土地は盆地のように低い土地だったので、一挙に水害にみまわれ、滝から水が襲いかかるように流れ込み、豊作の稲穂は水に沈んだ。水はなかなか引かず、やがて泥にまみれた稲の無残な姿が浮かび出た。
 もはや声さえ出ず落胆し、疲れ果ててしまった。もう動けない。とうとう自分はマラリアに感染してしまった。妻子、老人をかかえている7家族が一丸とならなければならないのに、動けない。
 ドッと涙があふれて、シクシクと泣くばかりであった。妻子を「こうも哀れさせて」という思いに涙があふれてどうにもならなかった。

 闘病、そして再起―カンポ・グランデの県人と親族の恩愛に囲まれて

 しかし、いつまでもこうしてはいられない。
 そこで私は、耕主の上間さんに、「カンポ・グランデに行けば日本人の医者に診てもらえるかも知れないので、どうかバス賃を貸してください」と、たった9コントを貸してもらい、3日間かけて単身でカンポ・グランデ市に行った。
 ペンションに一人で宿泊、持金も何もなく、水ばかり飲んですごした。私は、カッペンに入植する前に世話になった恩納村山田出身の比嘉親繁さんと、同村仲泊出身の石川盛得さんを尋ねた。石川さんが比嘉さんのところに連れていった。
 比嘉さんには本当にお世話になった。病の身の私をわがことのように親切にして下さり、毎日玉子の食事で英気を養うように励まして下さった。約一ヶ月の療養生活であった。
 そこで私は、比嘉さんに、「持ち合わせの金も何もないが、自分は絵を画くことはできますので、健康が許すようになったら絵をカカチクミソーランナ(絵を画かせてくださいませんか)」と頼んだ。
 比嘉さんは、私を自家用のジープに乗せて街に連れていき、画具用品を買い揃えて下さった。私は絵を描きはじめた。
 これを比嘉さんが友人の家を一軒一軒訪ね歩き、「この絵を君たちに売るんじゃない。この人は、病気にかかっているが薬代もないので、その薬代のために助けてやってくれ」と、押し売りまでやって協力して下さった。
 そんなこんなして後、私は、わが村人で市営のメルカードにバンカを持って仕事をしている阿波根菊栄さん(屋良朝苗元沖縄県知事の姪)にもお世話になった。そこでも弱り切った体で何もすることもできないでいた自分は、意を決してハワイの奥原カマル叔母に今日に至る境遇について手紙を書き送った。すると叔母から100ドルと手紙が送られてきた。

 

 

(8)

私は、このお金を上間耕地に残したままの7家族を呼び寄せるための資金にした。本当にありがたい尊い救いのお金であった。
 この7家族の仕事口を比嘉真繁さん、石川盛得さんらカンポ・グランデ沖縄県人会の幹部であった方々が、あっちこっちのファゼンダに当たって借地農の仕事を見つけて下さった。比嘉さん、石川さん達の恩愛の情、そのチムグクル、志情の深さは忘れられないし、生涯自分の心に生き続けることであろう。
 このような中、1968年移民60周年の年に私の叔父にあたる喜友名徳太郎さんが突然訪ねてこられた。私達の様子を見に来たという。そして「オイ、真勳野菜作りも仕事だが、遊ぶことも一つの仕事だよ。リカ、サンパウロんかい」といって、サンパウロで親戚の者たちがどんな仕事をやっているのか、見聞を広めさせるために連れて行ってくれた。
 それは、ハワイの奥原カマル叔母から徳太郎叔父にたいして、「あんたは、ミーックヮの真勳がブラジルに渡り、こんなにも哀れしていることもわかっていないのか、早く行って会ってくれ」、と手紙で切々と訴えられて、所在を確かめて飛んで来て下さったのであった。徳太郎叔父は、私達7家族がブラジルに来ていることを叔母の手紙で初めて知ったのであった。
 サンパウロ市は、自分たちが今まで見たこともないような大きな店が立ち並び、見たことも無い品物が棚に並べられており、驚きの連続であった。叔父は、「君たちも子供が多く居るし、ビラ・カロンにくれば着物作りの職業の人達がいっぱいいるから、そこで仕事をやり、子供らを学校に行けるようにやったらどうか」、と言って下さった。
 こうした徳太郎叔父の助言があって私達はカンポ・グランデ市からビラ・カロンへと移転したわけである。
 そこで、すぐにクストゥラ(縫製業)をやり始めた。ミシン1台の1カ月の借り賃が20コントだった。2台借りて子供らは仕事を始めた。沖縄を出てからすでに8年が過ぎていた。
 私は、子供達の仕事を見届けてからカンポ・グランデ市に戻った。自分はカンポ・グランデで絵描きをはじめていたし、石川さんの紹介もあって、日系団体連合会の会館常設用の大きな絵を頼まれていた。私は、これを15日かけて描きあげた。
 全身を集中して描いたので、描き終わったとたんにまたしても病に倒れてしまった。
 しかし、その絵が話題になり、自分の名が知れるようになった。その絵の代金があったかどうかは全く記憶にないが、自分としては皆さんに大変お世話になったし、感謝の思いでいっぱいだったし、多分請求などしていなかったであろう。カンポ・グランデの皆さん、比嘉真繁、石川盛得さん達には感謝の思いで胸がいっぱいだった。
 サンパウロ市での仕事は、子供達だけではうまくいっていなかった。私は、喜友名の叔父に誘われてビラ・カロンに移ることにした。子供らが移ってから2年後の1970年であった。最初は、バール業に携わった。

 

 

(9)

しかし、言葉もうまくできないし、事情もつかめず、商売のやり方もままならず、結局やめて別の食品店に転業した。それもうまくいかず途方にくれているうちに、やはり自分は自分の「ティージェーク」で身を立てるしかない、ということで看板屋をはじめることにした。
 こうしてビラ・カロンのアベニーダに開店した。開店まもない頃、カンポ・グランデから転住してきた金城勇吉さんという人が沖縄県人会ビラ・カロン支部の会員になっていて、その人が前宣伝していることもあって、支部の役員選挙に当たって書記のなり手がないので「書記になってくれ」ときた。
 結局説得されて、「これも一つの勉強と思ってやってみよう」、と引き受けた。こうして沖縄県人会と出会いが始まり、仕事の最中でも県人会の用事や会議となると、ドアを閉めて出かけるという日々になってきたわけである。
 今では諸団体の「役員ブッター」になっている。1973年に書記となり、10年後には支部長も務めさせられるはめとなった。支部会館舞台の背景幕を7つも描いたことは今でも印象深い。

自分を省みて

 自分の来し方を振り返ってみると、この文章の冒頭に「沖縄出発の時から平穏ではなかったように思う」と書いたが、嵐の中に投げ出された船のように、カッペンに賭けた私達の希望と夢が、天と地の差の「地獄谷」につき落とされて血を吐くような日々を過ごしてきた。
 カッペンからカンポ・グランデ、そしてサンパウロ市ビラ・カロンに辿り着くまでの苦難の家族史は、とうてい言葉では語りつくせない。「運命の悪戯」とおもえるほどに最初から「平穏」ではなかった。
 しかし、この苦難の日々を私たちは、ハワイの奥原カマル叔母、喜友名徳太郎叔父ら親族と比嘉真繁、石川盛得さんらカンポ・グランデのウチナーンチュのチムグクルと志情に支えられ、助けられて乗り越えることができた。
 私は「イチャリバチョウデー」・「御万人の心」という言葉であらわされるウチナーンチュのチムグクルを、「カッペン移民」として夢と希望に敗れ、七転八倒の苦渋に満ちた人生史を通じて、身をもって体験し心に刻んだ。これは、私の大きな心の財産である。
 私は、いつの日からか三線を手習い始め、今では野村流古典音楽保存会の師範免許を授けられているけれど、「平穏」ではなかった日々が、哀調と志情の、そして荘重な調べを響かせる琉球音楽におのずと誘い入れたのではないか、と常々思っている。
 音楽仲間や沖縄県人会の心から語り合える友を得て、またわが生まり島・ユンタンザンの親族・郷友の親愛の情に包まれながら、今を生きている私は、つくづくブラジルに移民してよかったと思う。

 

 

(10)

そして、ブラジルのウチナーンチュであることを誇りに思っている。それにしても、「カッペン移民」は「無謀な移民であった」、と言い切って許されることなのか、と。
 確かに、「無謀」と言われても仕方がない面があったことは事実である。それでは、何故この「無謀」が許され、71人家族423名もの県人同胞が送りだされたのか。その原因と社会的責任は、現在でも明らかにされてはいない。
 敗戦後の50年代当時の沖縄は、人口増加と就職難、そして米軍による軍事基地拡張のための土地接収が続き、とくに読谷では村の半分以上の土地が取り上げられ、耕地は狭く、人々は生活に窮し、将来に不安を抱いていた。
 宜保三郎らが始めた「カッペン移民」計画に多くの同胞が「ワラをもつかむ思い」で参加し夢を託した。そして、彼の調査報告や土地の肥沃状況を示す写真などに全幅の信頼をおいた。実際1958年5月第一次隊が出発し、これに続いて2次・3次隊も次々と送り出された。
 第4次隊の私達もまた、すでに書いたように、何万キロの海と陸路を越えて、遥か裏アマゾンのカッペン植民地にたどり着いた。そこで見たものは、聞いたこととは全く違う天と地の差の「地獄谷」であった。そのことは、書いた通りそのままである。
 私達は、騙されたのか。それは、私達の「無知と無謀さ」がしからしめたものなのか。
 もう遠い昔のことではあるが、今も時に思い出し、無念さと怒りが胸に込み上げて来るのだ。
 ただの一介の移民者にすぎなかった私達にとって、カッペン会社との「契約」や宜保三郎の「調査報告」の真偽を検証することなど、思いもよらぬことであったし、また、できるはずもなかった。
 思うに、計画移民であれ、呼び寄せ移民であれ、そして民間組織による移民であれ、国民が同じく国外に移民することであり、国家あるいは行政当局は、「国民の生命と財産を守る」という点において、等しく義務と責任を負わなければならないはずである。
 けれども民間組織による移民である私達カッペン移民は、行政当局から一銭のお涙金さえも支給されず、また、移民団体にたいする責任体制(指導と監督)もないまま、移民が許可されて送り出されてしまったこともまた厳然たる事実である。
 このようなことを書き連ねていると、あの裏アマゾンの山の中で、尊い命を犠牲にした家族・親族や仲間たちの悲業の声が聞こえてくるようで心が痛み、鎮魂の合掌を捧げずにはいられない。そして、彼らの尊い犠牲とカッペン移民の真実を後世に伝えたい思いが込み上げて来るのである。この文章は、このような思いを込めて書いたのである。(終わり)

 

  


 この記事は「群星(むりぶし)」創刊号(ブラジル沖縄県人移民研究塾発刊)より、同誌の許可を得て転載しました。(Trabras )  

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