【ニッポン歴史探訪】前九年の役 概要

                                黒瀬 宏洋

 

 奥羽山脈東側、北上川中流域を中心とする 奥六郷 (おくろくごう )一帯で、アルテイたちが起こしたエミシの大反乱を、802年、坂上田村麻呂が鎮めてから 、東北地方には比較的穏やかで平和な時が流れていました。  都 では、為政者たちの間に、'東北のことは地元のエミシに任せよう'との気運が強まっておりました。有力エミシたちは、近隣の有力者や国の役人たちと子女の婚姻を進めて、親戚縁者を増やすことに熱心でした。また、武力を誇る武士団が生まれてきて、為政者たちは、政敵との争いや荘園のトラブルなどを解決するのに武士団を利用するようになりました。


11世紀を迎えると、東北地方では

(1) 奥六郷 (金や駿馬 (しゅんめ) の産地で有名) で安倍頼良・貞任(さだとう)父子を中心とした"安倍"一族が勢力をつけ、頼良は、奥六郷の郡司として、国から租税の徴収と国への納税などを任されていました。また、衣川関を本拠地とし、鳥海柵(とのみのさく)、厨川柵(くりやがわのさく)など12の砦を築き、半独立国を形成していました。
(2) 奥羽山脈西側の横手盆地・山北(せんぼく) 地方では、清原 武則 (たけのり) ・武貞父子を擁する"清原" 一族が力をつけていました。こうして、東北地方に、"安倍" "清原"という二大エミシ勢力が定着してきました。

 

前九年の役始まる ・・鬼切部 (おにきりべ) の戦い
    陸奥守 である藤原登任  (なるとう )は、部下の藤原経清 ( つねきよ  仙台平野南部の亘理 (わたり)を拠点とする国の有力役人)を安倍頼良の娘と結婚させるなどして"安倍"との友好関係を保っていましたが、自分の任期が終わりに近づいたとき、"安倍"からその豊かさを奪うとの誘惑にかられ、"安倍"が納税しないなどとケチをつけたうえで、1051年、ひそかに"安倍"に戦を仕掛けました。しかし、逆に '鬼切部 の戦い'  で"安倍"に完敗しました。都に戻された登任は、戦いの正当性を朝廷に 主張しましたが、終に認められませんでした。

 

大赦
  1051年 、その後任の陸奥守として、東国武士の信望厚い源頼義 が息子の義家を連れ多賀城に赴任してきました。陸奥守 となった頼義は、すぐに"安倍"を潰そうと考えていました。   ところが、頼義に思いがけない不運が襲いました。
   時の後冷泉 (ごれいぜん ) 天皇の祖母である藤原彰子 (しょうし  紫式部が仕えた中宮) の病気快癒祈願の大赦 (たいしゃ) が発せられたのです。"安倍"の国に反抗した罪が一切ご破算となり、5年間は "安倍" に手出しができません。これを機に、安倍頼良 (よりよし )、は、  自分の名が陸奥守の名 の頼義 (よりよし)  と同音であることを申し訳 ないとして、自分の名を頼時   (よりとき) と改名して、陸奥守(すぐ鎮守府将軍= 征夷大将軍を兼ねる)に恭順する態度を示しました。

 

阿久利川 (あくとがわ) 事件
  1056年、大赦は終わりましたが、源頼義の都への帰還も迫ってきました。頼義は、残務処理のため、鎮守府である胆沢城  (いさわじょう ) に入りました。"安倍"は、頼義に仕え、全てに下手にでて、徹底した贈賄作戦にでました。頼義は、どこかに"安倍"の落ち度はないかとくまなく探させましたが、何も見つかりません。仕方なく、多賀城に向かって引き揚げる途中のことです。「阿久利川(宮城県栗原市志波姫町) の将軍側野営地が夜襲を受けたが、安倍貞任の仕業に違いない。源頼義の前に貞任を差し出せ」という謎の事件が起こりました。安倍頼時は、息子の貞任をみすみす見殺しには出来ないと、その要求を断り、再び戦さとなりました。

 

 藤原経清 (つねきよ)の安倍陣営への鞍替え
     都では、新任の陸奥守が決まっていましたが、戦地と化した陸奥に行くのを嫌い辞任しました。そこで、源頼義がすんなり陸奥守・征夷大将軍に再任されました。合戦が始まると、藤原経清は、国の役人として、将軍のもとにすぐ駆けつました。ところが、安倍頼時の娘と結婚している同僚が、"安倍"に味方していると判断され、将軍に殺されました。同じ立場の藤原経清は、次は自分が殺される番だと察して、一計を図り将軍側を混乱させ、その隙に部下約800人をひき連れて安倍側に逃れました。その後、知勇を備えた経清は、官軍を戦場で大いに苦しめました。

  

 安倍頼時の死 
     将軍は、膠着した戦況を打破するため、安倍勢力の団結を切り崩す作戦にでました。"奥地のもう一つの安部"と言われる安部富忠も彼のターゲットの一人でした。富忠の挙動を案じた安部頼時は、自ら奥地にでかけて説得を試みました。しかし、頼時は、富忠の兵の待ち伏せを受け、流れ矢で重傷を負い、鳥海柵にたどり着いてあえなく死にました。1057年7月のことでした。    頼時の死後は、貞任を中心の集団指導体制となりました。

 

 黄海(きのみ)の戦い
     1057年11月、源頼義は、国の援軍を待ちくたびれ、約1800人の手勢で、安倍軍に決戦を挑みました。貞任は、河崎柵  (一関市川崎) に約4000人の兵力を集め、黄海 ( きのみ  一関市藤沢町黄海) で官軍を迎えました。官軍は、冬の遠征で疲弊し、兵糧が乏しく、兵力も劣っていたので、安倍軍が大勝しました。頼義は、義家を含むわずか7騎で辛うじて戦場から脱出しました。頼義は、有力な武士を多数失う大打撃を蒙りました。頼義は自軍の立て直しに時間をかけざるを得なくなりました。  数年が経ち、安倍勢は「奥六郷」の南にまで進出する有り様となりました。

 

頼義再任
    1062年春、任期切れの頼義の後任の陸奥守が着任しましたが、新任に従う兵がいなく、新任は虚しく都に戻り、解任されました。再び頼義が陸奥守となりました。

 

清原勢力の参戦と「前九年の役」の終結
     頼義は、官軍の兵力不足をみて、横手盆地を拠点とする清原勢力の加勢を得るためにあらゆる手を尽くしました。1062年7月、安倍勢力のさらなる勢力強大化を怖れて、清原勢力は、結局、官軍の応援に踏み切り、 清原武則  (たけのり) が乗りだしました。
     これで、清原勢 1万人余、将軍勢 3千人 に対して 安倍勢 4千人と安倍勢は、一転して、劣勢になりました。
     1062年7月の小松柵に始まり、9月11日には胆沢(いさわ) 城のすぐ北方にある鳥海柵(とのみのさく  金ヶ崎町) が落城し、9月17日には、難攻と言われた厨川柵 (くりやがわのさく  盛岡市天昌寺町?) も火攻めを受け、激戦の果てに落城しました。貞任は、深い傷を受け、楯に乗せられ、頼義の面前に引き出されましたが、頼義をちらりと見て息絶えました。また、経清は錆び刀で苦しめられて首を切られました。それだけ知勇兼備の経清は、頼義にとって自分を裏切った憎らしい相手だったのです。二人の首は丸太に打ち付けられ朝廷に送られました。こうして清原勢が本格的に参加してから僅か1ヶ月で安倍の最後の拠点厨川柵を落城させ、「前九年の役」は終わりました。
      こうして、「1062年九月十七日厨川」は、源氏栄光の出発点となりました。しかし、本当の手柄は、源氏ではないことを朝廷はご存知でした。前九年の役の大功で清原武則が、鎮守府将軍となりました。地元の人間として破格の大抜擢でした。他方、頼義は、伊予守となり東国から引き離され、義家は出羽守となりました。

   ところで、意外なことに経清の妻と一人息子 (清衡 きよひら) は、命を助けられているのです。この話しは、次稿「後三年の役」 に続きます。
 
参考  奥州藤原氏五代  大矢邦宣  河出書房新書

 

 

 

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