【ニッポン歴史探訪】江戸のインフラ整備と物資流通

 

上水  …家康は、関東入国の際、井の頭池を主要水源とし、善福寺池や妙正寺池からの流水をも集めて「神田上水」を整備させました。落合から2km下流に関口(文京区) を設け、後楽園を抜け、水道橋を通し、その後は木管で配水しました。給水地域は、ほぼ江戸下町の北半分に及びました。しかし、水の需要が更に増えたので、幕府は新たに多摩川から水を引くことにしました。これが「玉川上水」です。

 

河川改修… 利根川 (とねがわ   “坂東 太郎(ばんどう たろう) ” と愛称) は、かって埼玉県羽生(はにゅう)あたりから南下し、途中で荒川、入間川を合流して江戸湾に流れ込んでいました。その上、栃木県足尾銅山(あしおどうざん) を水源とする渡良瀬川 (わたらせがわ) もそのまま南下して江戸湾に注ぎ込んでいました。そのため肥沃な関東平野はいったん大雨が降ると水浸しとなりました。そこで、利根川と渡良瀬川を途中で折り曲げて銚子で太平洋に流れ込むようにしました。この利根川・渡良瀬川の流路変更に加えて江戸川上流や鬼怒川 (きぬがわ) の開削・分離を進める一連の土木事業を行ない、ほぼ現在の利根川本流の流路が完成しました。その結果、江戸の水害が減り、流域の新田開発も進み、舟運路網も充実しました。こうして、利根川水系は交通の大動脈となりました。

 

物資の流通…庶民・武士 合わせて100万人を数える江戸は、一大消費地でした。物資の大きな集散地である上方 (かみがた 京・大坂) から主食の米を始め、各種食材、酒、味噌、醤油、木材などの物資が、廻船で江戸に運ばれてきました。 上方から江戸に向かう物資は、「下り(くだり)もの」と呼ばれました。江戸では、例えば、隅田川右岸の蔵前(くらまえ) に幕府の米倉が立ち並び物資を受け入れました。木材は、富岡八幡宮に近い「木場(きば)」に集められました。「下りもの」と言えば、紀伊国屋文左衛門 (きのくにやぶんざえもん) が、豊作の紀伊みかんを荒海をついて江戸に運び巨富を築き、後に幕府お抱えの材木問屋となった話が有名です。


また、「下りもの」だけでなく、利根川水系を経由して関東北部、東北各地などからも米、薪炭など生活必需品が江戸に送られてきました。
そのほか青梅街道(おうめかいどう  内藤新宿で甲州街道から分岐して青梅に達し、その先は多摩川に沿う山道を経て甲州に通じていました) は、日本古来の壁材料「しっくい」の原料であった石灰(せっかい)を運ぶ道として知られるほか、多摩地方から江戸への野菜、木綿織、絹織物などの流通ルートでした。現あきる野市に向かう五日市街道(いつかいちかいどう) も、江戸への薪炭輸送の重要ルートでした。
初めは、「下りもの」頼みであった醤油なども、時が経つと、江戸に近い銚子(ちょうし) や 野田(のだ) などから入荷できるようになりました。 

 
     参考資料…日本歴史大事典、徳川吉宗とその時代 など。   以上。黒瀬記
 

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