西富 文博「実話 ウビンの森」

 

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【筆者プロフィール】

 

 西富 文博 (にしとみ ふみひろ)

 

1937年7月14日、熊本市健軍町新外に生まれる。
1954年9月アメリカ丸にて渡伯、同11月1日着伯。
パラ―州モンテアレグレ移住地に辻計画移民として入植。
二年後にサンパウロ州ミランドポリス市へ移転。
1958年にアリアンサ移住地の産業組合の従業員として勤める。
1976年9月車の事故で退職。現在に至る。
 

 

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  ここは大アマゾンの昼間でも薄暗い原始林のド真ん中、青い大空と何処まで続く原始の森の奥で、あるものは文明から遠ざかった野生だけの不気味な世界だ。
夜明けが始まったので、辺りがまだ薄暗い内に起きて、鉄砲を片手に家を飛び出した。ファコン(山刀)と弾丸五発持って逸る心をおさえて、隣りとの境のジャングル内に一歩一歩、静かに足を踏み入れたのである。森の内部はまだ暗くて、不気味さが漂い空気だけが新鮮で身が引き締まる。十八歳になったばかりの俺の冒険の第一歩が始まった。
 鉄砲は、昨日の夕方、第一次移住地の曾木さんという青年宅で、中古の二十四番口径を格安で、分けて貰って来たのだった。彼は日頃から、我が家に二丁あるが、一丁もよう使わんし、中古でよかったら、分けてやってもいいよ、ということで相談が決まった。

 俺より十歳近くも年上で、十四歳位の弟もいるし、両親と四人で、福島県の片田舎から移住してきているという、おとなしい青年だ。
 昨日の夕方、見に行ったついでに買ってきたのである。何も知らぬ素人の俺に火薬とか鉛の散弾、薬莢を十本ほど呉れた上に、弾の詰め方まで教えてくれたのである。その教わった順序をしっかり頭に詰め込んで、暗くならない内に道を急いで帰ってきた。
 そして我が家に辿り着くと、夕食もそこそこに、ランプの灯りを少し遠ざけてから、教えられた通りの弾つめが始まった。
 それにしても、こんなやり方で、果して弾が飛び出るのだろうか、と半信半疑であった。なにしろ生まれてこの方これまでに、一発も撃ったことのない俺にしてみれば、疑うのも無理もないことだった。
 その翌朝の今だ。十メートルも森に入り込むと、その奥はまだ夜明け前の別世界だ。だから、その範囲内で我が耕地の周囲をそって静かに迂回してみることにした。露草なんかありやしない、枯れ葉と小枝の散らかったのを、やたらに踏まないようにしてと前進する身に、スリル満点の緊張感がピリピリと漂い続けている。かすかな物音とか、どんな匂いにも即応できる玄人並みの仕草が恥ずかしい。だから鼠一匹とか小鳥一羽でもいたら、その緊張感が解けるのにと感じた。
 北側の小高い丘から東側の低い森へ降りて来ても緊張感は解けない。しかし、少しずつ夜が明けだしたので、森の中は明るくなり出した。その六百メートル位を三十分以上かけて来たのだろう。我が家が百メートルばかり先に見え出してきてから心なしか、その緊張感が解け出した。足元も明るくなりだした。今まさに太陽が顔を出す寸前である。そこから我が家の下へ向かって流れる小川(一メートルばかりの幅)に来て、吠え猿が夜明けを告げる長いハーモニーを奏で、オオムや山鳩達が勝手な声を出して飛び交いだした。
 我が家の方角を見ると母が起きて,コーヒーでも沸かしているのか、一条の煙が長閑かで平和な空へ向かって静かに上っている。朝風も何も発生しない森の中、これから三百メートルばかり進んだら終わりにしようと思った。樹木も北側と違って低い灌木の他に、アサイ椰子とか、毒を持った大木が何本もある。だから、普段は滅多にこんなところに来ないし、来ることがあっても、家の材料を切りに来る位の時だけである。

 その南側の森を半分進んだ時だった。隣の三宅氏宅との土地境界はすぐ近くであるし、潅木林の薄暗い中を油断なく見つめていると、どう見ても鹿の耳に思えるものが二つピンと立っているのが見える。枯葉や木の皮のいたずらにしては、あまりにも、二つの耳らしきものは整っているし、だからといって、その下が見えない可笑しいものだった。それはすぐ手前にある一本の大木が倒れて横になっているが、地形の関係で、そこが三十センチばかり浮き上がっているから、人間のヘソから下にあたる部分は、全然見えないという誠に残念な場所だった。相手はヒクッとも、身動きしない不動の姿勢は天晴だ。こちらも、その正体を確認せずには居れない性分だし、その緊急を要する一瞬の時だ勝負を決める大事な場面、そっと三歩ばかり前進しながら背を高くして、両眼をそこに集中させ、耳の下に頭らしきものを確認したものの、八メートルばかりの前方の藪の中はまだ薄暗さが残っていた。もう一歩も進めないぎりぎりの線上に立っている俺は、撃鉄を起こして狙いを定めて、引き金を引くより他に考える余裕はなかった。
 「ターン」
夜明けの森一帯が、この銃声で突然目覚めたのである。と同時に俺の肩は銃床の反動がガツンときて、後方へ仰け反りそうになった。なんとも強いショックではないか。
その直後、前方の畑の中から「オーイ、どうした。何かいたのか」と三宅氏の声。目と鼻の先である七十メートル前方の所で稲刈りが始まろうとしていたのである。向こうも吃驚したろうが、此方もびっくりした。
丁度、その時、白煙が去って、目前に馬の仔みたいな大きい鹿がバタバタもがいているし、おれ自身が吃驚してしまった。「やったァー」信じようと、信じまいと、この現実、夢見ているような錯覚を受けたのは、生まれて初めて撃った一発だからである。
鉄砲の威力が、これほど、激しく強いとは思いもしなかった。そして、また、とんでもない事をしてしまったと、自分ひとりで、あわてていた。真実は異なり奇なりだ。
俺は倒れている木を飛び越えてファッカ(小刀)を腰から引き抜くと、鹿の心臓と思わる辺りへ突き刺した。鹿は最後のもがきを二度ほど繰り返して息絶えた。「バンザーイ。やったぜ!!」と大声を出して叫びたかったが、そこはグッと堪えて、じっくりとその鹿を見つめていた。「鹿を撃ったよ!!」三宅氏達がいる畑と我が家の中間へ向かって大声を張り上げていた。「鹿を撃ったといってるよ。あんた、すぐ、行ってみてくれんかい」母が坂口に向かって言っているのが聞こえた。そして畑にいる三宅氏も「鹿を撃ったんだって、今、そこに行くよ」
こうなると俄かに、人の声があっちこっちで起こり、パニック状態である。一分もしない内に三宅氏と長男次男の三人が来て、そして、又、坂口もやって来た。「イヤア、やったね。これはでっかいぞ。こんなところに隠れていたんだね。よくも薄暗いのに見つけたもんだよ」
長崎は五島出身の船員上がりの三宅氏は短気な性格で、何を言い出すか気をつけないと危ないと思う人だ。「吃驚はしたけど、これは凄いぞ。八十キロは充分にあるぞ。おい、信行、みんな手伝ってやれよ」彼はそう言うと、長男を残して、やって来た藪の中を次男とともに去って行った。だから坂口と二人で担いで行く事になったので、それからの用意も大変であった。その辺にある細い蔦かずらを二本も切って、一本は前の両足、もう一本は後ろ足をそれぞれ、幾重にもして縛る。そして一本の手頃な木を切って、天秤棒にして、二人が前後して担いで歩き出した。
森の中だから道もない。ブラブラと横に揺れ出した百キロ近くもある鹿の胴体、二人の歩調が合わないからであったが、小川を目前にして、小休止してから、何とか我が家に辿り着いた。母も、また、それを見て吃驚するやら、頓狂な声をあげて、喜ぶやらで賑やかになった。五、六十メートル先にある姉の家から、子供を抱いた姉も見に来て驚いている。
それから三人で、ゆっくりコーヒーを飲んでから、いよいよ、皮を剥ぎ取り、肉を切る仕事が残っている。
愚痴を言うようだけど、猟をする人は、撃った獲物を持ち帰るだけでなく、それを如何に始末するかも、個人もモラルにかかっていると感じた。
肉を切り、それを三つに分けて、それを「好きなやつをもっていきなさい」というと、二人は喜んで持って帰った。
内臓物を土中に埋めたり、小さな生木を切って来て、皮をはるのに利用する仕事が残っていた。冷蔵庫なんてありやしない森の奥、母はその肉を塩漬けにして、二十リットル入りの石油缶の中に入れたり、乾したりして一人で食べていた。俺は野獣の肉の匂いが嫌いで食べられなかった。

 

 畑の作物は、順境に育ち、草がないから、収穫を待つだけの悠長な百姓。これでよいとは言わないが、初めての森の奥の生活。前から実行しようと思っていたことを思いだして、よし、今日こそ、やってみようと、母には下の小川に居るから、といって土手を降りていった。
一メートル位の幅しかないが、この真清水は三家族にとって、炊事の水補給と水浴の場でもある大切な所だ。二十センチ前後の深みがあって、冷たくておいしい。時々、豪雨や猪の群れが上流で遊んだりすると、水が濁ったりするから、自然の成り行きに任せるしかないのだから困る。家から小川へ降りる坂は、すごく立派な石段を母と二人で創り上げた。
この石は、我が家を中心に百メートル四方にしかない。鍬で耕すとカチンときて、土を掘ることすらできない。この移住地の何処にも、こんな石のある土地はないらしい。どうも昔から自然にあるものではなく、どこからか城を作るために、集めてきたように思われて、四角に割れたりして、角のついたものばかりである。だから、わが家では、これを四つ並べて、立派な竈ができて便利だ。この土地を掘り返せたら、マヤ文明の跡とか、それに似た遺跡が出現しないともかぎらない。俺達はそんな悠長なことは出来なかった。
母は、魚を食べるのが好きで、俺が釣りに行くのを楽しみにしていた。

 文明より遠ざかった最果ての森の中では、娯楽といえば、釣りをするとか狩猟をするか、あるいは誰かと酒を飲みながら、昔話をするだけだ。電気も電話も新聞も車もないし、十八歳になったばかりの俺にしてみれば、血気旺盛でもあり、毎日マッシャードを振って、大木を伐り、フォイセやファッコンで枝を片付けて焼く。雑誌、レコード、トランプ、囲碁なんてものは、誰も持ってきていないし、この山奥では相応しくない。するとホーム・シックとストレスがたまってこない様に何か変わった事をやるのがよいと思っていた。
下に降りるときにバケツとペネーラとスコップを用意して行った。
 この小川は、我が家で行水する所の下流十メートル程から、急に右側に曲がっていて、それが十メートルも行くと、再びこちらへ戻っているのである。その二つの曲がった上下の交錯する所は、たったの三メートル程しかないので、願ったり叶ったりの地形だ。だが曲がった所の土手の高さが二メートル以上もあり、再生しつつある繁った木がビッシリと覆っていて薄気味悪い。スクリューとかワニや毒蛇が居ても不思議ではないと思う。
俺は、早速、工事を始めた。まず上下の川を交錯させる為の溝を掘るのだが、その土を曲り角に投げて堰き止めるから、一石一鳥で、二十分もすると上と下の川が一直線につながり、上下の曲がり角も完全に堰き止めてしまった。一休みしてから、ぐずぐずしている場合ではないので、溜まり水となった曲がり角の水をバケツで汲んで下側へ投げ落とす。ピチャリともしない水面を眺めても、魚がいるのか、いないのか見当がつかない.その為にかなり水量があるのだと感じた。休んでは汲みだし、休んでは汲み出していると、半分以下になった水面に魚がピチピチと動き出すのが見えた。水が濁っているので、見えないが、かなりの小魚がいるに違いない。いよいよ水の量が少なくなってきたので。次は、ペネーラの出番であった。右に左にペネイラを掻き混ぜて、すくってみると、いるわいるわで、ランバリ、トライーラ、なまず、そしてエビまですくい上げた。この小さな範囲の場所でバケツ一杯に小魚が獲れたのだから、もうこれで止めておかないと、あとの魚が増えないでは困ると思った。
こんなことをして、魚をとる人はいないようであるが、きっと誰かがこの話を聞きつけて、真似するかもしれないが、活気ある若者だったら、誰にでもできることだと思っている。
再び、元の曲がった小川に戻すには、時間を要しなかった。以外に早く片付けて、我が家に帰るまで、疲れが出なかったのだから、不思議なものだった。
母は、このバケツ一杯のランバリをみて吃驚するどころか大騒ぎしている。
「すごいじゃないか。本当に、この下で獲ったのかい?」
「すごいだろう。後で下に見に行ったら良いよ」
「お前のことだ。嘘は言わんと思うが、どこへ行って、何をしているかと思っていたんだが…」
「曲り角を堰き止めて、水を汲み出し、ペネーラで掬ったのだが、普通の釣りじゃあ、こんなに獲れないからね。前から沢山いるような気がしていたから、いつかやろうと狙っていたのだ。曲り角でもこんな時には役に立つもんだ」
「そうかい。それじゃこれからも時々やってくれよ」
全く、その通りである。密林の奥には、野菜なんてものはないし、小魚を食べることによって、ある程度、栄養のバランスがとれて、スタミナの活力につながる大切なものである。この次にやる時は、母にも現場に行って、手伝ってもらおうと思った。
そう言えば、今から三年ばかり前の日本でのことだ。熊本市内の水前寺公園の源として湧き出る水が、かなりの水流となって、江津湖へと流れ込んでいる。江津湖より下方は一面の田圃と化して、川幅も十メートル以上にもなり、澄みきった水は、濁流と化し南方へ流れていく。その江津川へ俺は、気が向くと、いつも一人で魚獲りに行っていた。
ところが何時もバケツ一杯のフナやドジョウを獲ってくるから、近所の人が驚いていたのである。と言うのは、釣具を一切持っていかなかったからであるが、誰にも内密にして言わなかった。ところが母が、どうして獲るのかが見てみたいと言ったので、自転車の前に母を乗せて、後方にはバケツを積んで、あの現場へ行った。
川岸に母を立たせて、俺は裸になると,水の中へ飛び込んだ。水深が一メートル半程度あって、丁度よい条件である。水中だけど土手には、幾つもの大小の穴がある。俺は恐れることもなく、その穴の中へ手を突っ込む。するとどうだろう。俺が飛び込んだので、それに吃驚して、魚は穴に隠れるのだった。それを掴み出すと、土手の道へ投げ上げる。母は喜んで、それをバケツに入れる。いるわいるわで、一時間もすると、バケツが一杯になった。ドジョウ、ナマズ、ウナギと色とりどりだが、ある日は、浅い穴で蛇を掴んだことがあった。慌てて、それを放したので大事には至らなかった。こうして母は、俺の魚獲りの秘訣を知ったが、常道ではないので、他人には、あまり言わないでいた。

 このウビンの森の小川でとれたランバリの始末は、大変なものになった。それでも半分ちかくを坂口と三宅家に配ってから、その残りを塩漬けにしたり、細い木の枝の棒を探してきて、一本の棒に、五,六匹のランバリを刺す。それを日干しにすると、三十本ばかり、目刺しが出来上がった。母はいつもアサイザルへ用事で行く時、五,六本の目刺しを紙に包んで持っていく。妊婦がいる家とか、知り合いの家へ配ってくるのである。必ず人々は、こんな珍しいものをどうして、手に入れたのかと聞くので、息子がこうやって獲ってくれたのだと説明していた。

 

 そう言えば、この移住地には、いつも二,三人の妊婦がいる。ところが産婆がいなくて困っていた。俺の母がそれをやると、何処で知ったのか、どこの人も、それを頼みに来て、遂に、産婆にさせられてしまった。きっと俺の姉が長女を産んだ時に、母がうまく処理したのが、人々の耳に入って、広がったのだろう。だから、それから先は、この移住地での只一人の産婆として重宝がられる。産婆というものは妊婦の腹具合とか、胎児の発育具合をかなり察知していないと、お産の時に大変な結果を招く恐れがある。そんなことが起きないように、母は、いつも行っては妊婦の具合を見ていた。
しかるに、移住者は皆、貧乏である。お産の手助けをしてやっても、謝礼を誰一人として包んでくれる人は、いない。こちらからも要求したこともない、その代わりに、子豚一頭とか、鶏三羽とかを持ってきてくれるのだが、鶏の場合は、その場で放したら、他の鶏と仲良くなって、居着くけど、豚の場合は、入れる囲いをちゃんと作ってやらないと、逃げ出して、作物を荒らす。毎日、餌と水をやらなければならない。我が家には、豚小屋があって、いつも一頭は入っているか、その辺で、撃ってきたコチアや鹿の内臓を投げ込んでやるから、気性が荒くなって、母を困らせていた。だから豚小屋を高くしてやる他になかった。
そんなこんなで、移住地の人々は助け合って生きて行くより道はない。この頃である。どの家庭も日本から持参した味噌とか醤油が底をついて困っていた。しかし、わが家では、母が麹菌を用意して持ってきたので、味噌や醤油や甘酒なんかを作ったりして、欲しい人には少しずつ配っていたので、皆から喜ばれていた、
昭和二十九年前後といえば、日本のインフレが最高に達していた時だが、生活苦で、どうにもならずにいた人々は、南米の別天地という甘い言葉に騙されてきた人が多い。真の百姓一筋に生きてきた人は、余程のことがない限り其処を去らないが、俺達みたいに分家するのが目的だったら、また違う。

 

 俺は、この日、度胸試しと思って、この小川を上流へと一人で猟に向かった。三キロも上流へ行くと水源がなくなって、野生のバナナが密生している。人間の背丈より高く伸びているが、実も付かず、向こう側が見えないが、二十メートル向こうには、なくなっていて、自然の面白さがそこにある。
その近くへと静かに歩を進めた時だった。恐怖に近い胸騒ぎを覚えた。それが予感というものにしては、あまりにも、突然、やってきた。危険を予告するインスピレーションと言うものか、堪えられなくなる程に、強力なものになってきた。これはいかん。なんとかしないと、胸騒ぎが収まらない。幸いにも、すぐ目の前に幹周りの大きくない、俺一人が三メートル程、登っても大丈夫そうな木があった。それには太い枝が二本ばかり、うまい具合にあって、座り易くなっている。そこへ大急ぎで登り上がった。日本製の地下足袋は、こういう時に便利である。

 不思議なものである。あれ程、胸騒ぎと恐怖を覚えていたのに、木の上の枝に上って座ると、それが不思議にも収まってしまった。この先は、ベネズエラとギアナがある前人未踏の密林、インジォだって、住んでいないだろうが、よくもこんな密林の奥へ一人で度胸試しに来たものだと思う。その時である。バナナ林の方角で、かすかな物音がしてくる。「ブ、ブ、ブブ」とかすかな声が聞こえてきた。俺はジーッと、その一点に、素早く照準を合わせると、息を殺して「これだったのか、ようし、来るなら来てみろ、赤トンボ…」そっと微笑みをしてみる。二十メートルも向だろうか、小さな木の枝が揺れたりしているが、相手は急を要しないらしく、俺が、すぐ近くの木の上で待っているのも知らずに、遊んでいる様子である。だが、それは確実に進んできているし、やがて四列ばかりに、分かれて来ているもが分かった。なんとそれは猪の群れだったのである。十メートルから十五メートルに近づいた。先頭の奴は、汚い色をしているが、少し大きい。これだと思って頭を狙うと引き金を引いた。
「ターン!!」
静かで平和だった森の奥が、この一発の銃声で、にわかに変化すると同時に、刹那的に状況が変わった。
もんどり打って倒れた猪は、そこから当たりの土を懸命に搔きだしてこと切れた。その始終を見ていた他の猪達は十メートルも吹っ飛んで逃げると、ガチガチ、ガチガチと、これまで、聞いた事もない猛烈な歯音を立てて、一目散に後退して逃げ散ってしまった。五十頭ばかりは、いただろうが、遠く去るまで、凄まじい牙の音が聞こえていたのには驚いた。親分が失われた群れの連鎖反応で、逃げ散るのだ。
俺は、次の弾を装填して、木を下りると、恐る恐る猪の横に近づいた。ところがである。死んだはずだとばかり思い込んでいた奴が、再び首を持ち上げて、形相錯乱していながら、少しでも遠くへ逃げようと必死だった。腰からファッコンを引き抜いた俺は、そのファッコンの背で、猪の頭と首を力一杯に叩いた。今度こそ、見事にお陀仏だ。
生まれて初めて、猪達との劇的な出会いに深い感動と恐怖を感じた。鉄砲の威力が、この危機を制したことは、何よりも嬉しいし、これから先はこの鉄砲を信じて、行動しようと思った。あの胸騒ぎを覚えた時の恐怖心、まさに、ピシャリと当った霊感は、ただごとではないと思う。ただ一人で森の奥へ狩猟にでるということ自体が無茶であるのは分かっているが、俺は一人ぼっちが好きだから、仕方ないのだ。
猪の大将の胸には、たすきを掛けた様に白い毛が生えている。これがそうだった。だから、他の猪よりも、ひと回り大きくて、先頭を歩きながら、誘導しているのだった。六十キロ以上は、どう見てもある雄の猪で、毛並が荒くて薄気味悪い。
この不細工な猪の死体に驚いている場合ではなかった。というのも猪の群れが歩く後方を二頭の豹がついて歩いている場合があると聞いていた。
だから、急いでこの場を去らないと、次に何が起こるか分からない。不測の場合が生じる可能性があるジャングルの奥で、素人の俺にも、その位の推察はできた。
前足二本を縛ってから、後足二本を大急ぎで縛る。そしてその上下の綱に別の綱を通じて、幾重に巻いて縛った。ところが、肩に当たるようにして担げるように工夫をした。やってみると分かるが、六十キロ以上の、まだ、死亡したばかりの、柔らかい奴を容易に担げるものじゃない。だから、近くの大木の根に何とか立てかけて、腕を通してから立ち上がってみた。それが精一杯であったし、まだ、鉄砲もあるから、その先が思いやられた。
九州男児の意地にかけてもなんとかしたい一心だ。「我が物と思えば軽し背なの猪」にしたいのだ。担いで帰って皆に見せたい気持ちが大きかった。だから、気迫が生じ驚異的な力が湧いてきた。皆んなが見に来て、俺の心を疼かせるような誉め言葉を呉れたら、それで報われるじゃないかと思った。
三キロメートルはあったかも知れない。兎に角、我が家に帰った時は、汗びっしょりになり、身も心もくたくたに疲れて、言葉も出ない程だ。途中で何回も休み、水を飲み、そうしている時でも、外敵の襲撃に備えて、一刻たりとも油断はしていなかった。
今度も、また母は吃驚するやら、大騒ぎするやらで、隣りの坂口と三宅家にも知らせたので、これも、又、大騒ぎとなってしまった。皆で十一人が集まって、このゴジラみたいな怪物を眺めて、それぞれの批評と論議が始まった。三宅老人は今回も、例にもれず「西富君、また、一人で凄い事をやらかしたね。君は、また、何かをやらかすだろうと思っていたんだ。やっぱり、勇気がなけりゃ、出来ない。この七十キロ近くもある猪を担いで来たのだから、天晴だよ」
矢張り、誉められると、嬉しいのである。しかし、俺は、それどころじゃないと思った。猪の体中に食いついていたダニが、俺の身体に移動してしまって、始末の悪い位に痒くて、一匹一匹取っていたんで間に合わず、下の小川に降りていって、裸になった。そして切れる包丁で削ぎ落とした。着物に着替えて、家に行くと、もう三人の男達が、猪の皮を剥ぎ取ってくれたばかりだった。
肉は、我が家と坂口で、後足一本ずつ、あとは、全部、三宅氏に持って行ってもらったので大喜びだった。(続く)

  

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 この記事は 「のうそん258号」(日伯農村文化振興会発刊)より、同誌と筆者の許可を得て転載しました。  ( Trabras )  
 

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 ◆ 筆者よりTrabras富田顧問への書簡 ◆

 

 拝啓

珍しいお方からのお便り4月26日に頂きました。
急ぐにご返事をと思っています内に、色々な事情が重なりまして、今日に至りましたことをお許しくださいませ。
永田様のご希望で何でも良いから書いてみてくれとの要望でしたが、一応お断りしたのですが重ねての注文に応じまして、書くなら実話で誰にも体験のないものが良いとしぶしぶ筆を取りました。車の事故で右手が効かなくなりまして左手で書いていますが、何とか読めるかと思いますので、その失礼をお許し下さいませ。

 富田様のご要望通りに、私の体験談“ウビン森”を一人でも多くの人に読ませてあげて下さいませ。御礼とか謝礼は頂くつもりはありません。此の実話を読まれた人々の中で一人でも感銘される人があれば、私の密かな願いが叶ったと思います。
 私の家にコンピュータはありますが、妻の一時的なゲーム遊びだけで、E-Mailとかそんなものは一切解らないのでやりません。
 
 私は仕事の都合上第二アリアンサに十年も住みました。其処で私は結婚しまして永田様のすぐ近くに住んでは行ったり来たりの交遊をさせて頂きました。野球をやる佐藤、箕輪、島崎、高木、新津は皆んな友達です。サンパウロに住む私の息子(長男)は幸夫と申しますが、ジガンテで野球をしているそうですが確かめて見て頂きますか。彼は釣りと野球が大好きで、金持ちの仲間とバスや飛行機でブラジル中を廻っています。

 私も小さい時から野球、水泳、陸上競技、のど自慢、絵画、俳句等やれるものは何でもやりました。野球は草野球でしたが箕輪の居る弓場チームと対戦しましてキリキリ舞いさせた経験があります。もちろんピッチャーをやったのですが、今では昔日のことが想い出されてなりません。富田様が新聞に投稿されたのを拝見致しまして、どうしてどうして私達が及ぶものではないと思いました。何事も懸命にやればきっと何時かは認められる人に成長できるものだと思います。どうか今後も若い人達への親愛なるご指導を陰ながらお願い致します。

 月日が経つのは早いもので、私も7月には77歳になります。よくもこんな年齢になるまで生きて来れたものだと、我ながらびっくりしています。ですが、まだまだ私の冒険談が沢山ありますので、これで消え去るのはちょっと残念ですので“のうそん”にもう少しの間寄稿させて頂くならと願っているのです。鹿54頭、猪7頭、スクリー2匹、綿蛇3匹、ワシ1羽、カピバーラ30頭等の話がまだあります。

お望み通りの返事になりましたかどうか、左手なのでこの辺でお別れを致します。富田様も今後益々ご健康にお過ごし下さいませ。
 敬具
2014年5月3日 

富田博義様へ    
                    西富文博

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