井口 原 美智子「思い出」

(桜)
うちの庭に、大人が三人くらいで大手を広げ、ひと回り出来る程太い幹のパイネイラの大木があった。その木は、毎年空が藍色になる程、深い青になって、風が葉をぜんぶ落としてしまうと、枝という枝にびっしりと丸いつぼみが出来、やがて,うす桃色の花が咲き出すのだ。高く高く重なって伸びている枝に、びっしり花が咲くと、それは、天に上るはしご段のように見える。特に、朝日がさし始めると、枝、枝に、ペリキットと言う緑色の小鳥が集まって、歌いながら,花やつぼみを、かじり出す。何かしら、ペリキットの歌は、天へのぼる道の音楽のように聞こえて来る。
 
 そう、あの歌を聞きながら、花の段を上って行けば、きっと天国に着くにちがいない。小さな私は、ふといパイネイラの根っこに座り、上を見上げて何時間でも飽きなかった。
 うちのパイネイラは、桜の花と同じ色に咲くと言って、父は大切にしていた。
「パイネイラは遠くから見ると、桜そっくりで美しいがなア、近くへ来るとがっかりだ。
ペタペタと花が落ちて腐るのがいやだなァ。桜はきれいだぞ。一度咲いて、さらさらと散って、いやなものは、何一つ残さない。そういうものを見ていると、人間もそのようになる。桜をお前達に見せることは出来ないが、日本人の良いところは失くすなよ」
 毎年、パイネイラが咲く度に、父は同じようなことを言った。
 桜は、どんなにか、美しいにちがいない。桜は、私にとっては、夢の国の花である。
 
(お砂糖)
 終戦後、すぐのことであった。日本にお砂糖を送る事ができるようになったのである。父は狂気したように,故郷にお砂糖を送った。ブラジルで採れる砂糖ではない。
 アメリカにずいぶん高いお金を送り、アメリカの砂糖を、送ってもらったのである。
 ぼつぼつ反抗期に入りつつあった私には、なぜ、そんな事をしなければならないのか、理解できなかった。私は、下宿代が無かったので、第一アリアンサの本校に行かせてもらえず、小学校の免状もないのだ。
 しかし、父は,そんな事には全くかまわず、「日本の子供達の身になってみろ」と言って、無いお金を一生けんめいにアメリカへ送った。
 父は、戦争で痛めつけられた故郷の人達を思うと、自分は土を食ってでも、手伝って上げたかったのであろう。
三十年後、私は舅様の指図で訪日した。
 ついでに訪ねた両親の里、どちらにも、隣近所の小父さん、小母さんがいっしょに待っていて、驚いた事に、あの時のお砂糖のお礼を言って下さったのである。
 当時、お砂糖を受け取った両親の里の人達は、もう何年も誰もお砂糖などなめた事はなかったので、隣近所にもおさかずき一杯ずつ分けて上げた、という事であった。
 父の甘い甘い心は、かつての隣近所の人達にまで行き渡って、三十年も、その味は、消えなかったのである。
 
(日本人)
八月十五日、あの日はなァ、夜中の十二時に、聞きとれない変てこな放送を聞いて、その後ラジオのニュースは何にも無しだった。いや、何にも無しで当たり前だ、負けてしまったんだからな。
 あの夜は、とうとう寝ないで翌日それでも、組合に出かけて行ったらな、みんな集まっていたぞ、第二アリアンサのおもな人達はみんな居た。
あの時、誰も何も言わなかったぞ、勝ったとも、負けたとも、勝ち負け問題が出たのは、すっとあとだ。
本当に、誰も、ほとんど口をきかなかった。
「だめだったのか」「ああ、だめだった」
「すんだか」「ああ、すんだよ」
と、そのくらいだった。
大森君がな、あのでっかいお相撲さんがな、一言も言わないで、大粒の涙をぽろり、ぽろりと落としたんだ。みんな、日本人だったんだよ。
 
(アリアンサの共同墓地)
十三才の時、女子青年団に入団させてもらえた私は、月に一度、共同作業である墓地の除草をするようになって、高台にある村の墓地に親しんだ。
 その頃の墓地は、石塔は少なく、木の墓標が多かった。墓標は、その古さによって、だんだん、濃い灰色に色変わりしていた。毎年、十一月二日は慰霊祭と言って、村中でお墓参りをして、どの墓も色とりどりの紙の造花の花輪でかざられた。
その中には、家族にお参りしてもらえないお墓もあった。そういうお墓は、ほんとうに、しょんぼりと淋しそうであった。
行ちゃん(こうちゃん)のお墓がそうであった。細い木の墓標に、「中島行一の墓」と書かれ、行年四才と横に書いてあったと思う。
私の幼い頃のお友達であったすみちゃん、けい子ちゃんの弟の墓だ。家族は遠いパラナ州へ引越してそれきりであった。
あの頃は墓参りに帰れる人は居なかった時代だったので、別に珍しいことではなかったのだけれど、まわりの墓が花でかざられているのに、行ちゃんだけぽつんと淋しげに立っているのを見るのは、胸が痛かった。が、淋しい事ばかりではない、一つ一つのお墓のまわりを除草して行き、墓標に書かれた名を読んで行くと、どのお墓も移住地のお友達や、知っている人のお姉さんとか、弟とか、又は、おばァちゃんとか言う人達のお墓なのだ。何となく、ここにも、もう一つの村があるようで、本などで読む墓地のような、うす気味悪さなどどこにもなく、何となく、楽しいくらいの気持ちになる。
私の兄ちゃんの墓も、そのにぎやかな墓地のまん中あたりにあった。生まれて一ヶ月ちょっとで亡くなったと言う。
「お前達が丈夫で生きているのは、勲のお蔭だぞ。勲に死なれたから、パパイやママイはお前達を一生けんめい育てて来たのだ」と父は言って、勲兄ちゃんのお墓にお花やお線香を上げさせた。
勲兄ちゃんが私達を守っていてくれるのと同じように、きっと、この墓地に眠っている人達が、生きているアリアンサの人達を守ってくれているに違いない。
 
(真っ赤な月)
「よし子ちゃんは、今日学校に来たか」
「ノン、今日は来なかったよ」
「そうか、ではやっぱり朝だったのだ。よし子ちゃんのパパイが亡くなったのだ。自殺かもしれんそうだ。俺はこれからお通夜に行く」
仕事から早く帰った父は、そう言って、出て行った。父の行った後、しんとして夕飯を食べ、部屋に行くと、東の空に、真っ赤な月が出ていた。
よし子ちゃんの住んでいるコトベロ区の方の空である。よし子ちゃんのパパイの死と、赤い月。それは、何とも言えない恐ろしい光景であった。月まで赤く染まる死。
よし子ちゃんのパパイは、「天皇陛下に申し訳ないことをした」と詫びて、自殺したのだ。
なぜ、『天皇陛下に申し訳ない』のか。それは、養蚕で儲けていたからと言う。
日本人達は,なぜか、生糸がよい値で売れるので、猫もしゃくしも畠に桑を植えて、養蚕をしていた。そして、終戦と共に、情報が入り出し、生糸はアメリカのパラシュートを作るために、アメリカに買われていた、と言うことがわかったのである。知らなかったこととは言え、こともあろうに、アメリカのパラシュートを作るために協力してしまった。敗戦へのかたぼうをかついでいた…。
よし子ちゃんのパパイは、その責任を背負って、死んだのである。
残した妻や子等にも責任を背負わせて…。
近所の人達に彼の死について語る時、父は言った。
「百瀬君の気持ちはよくわかる。誰にでも、よくわかる。唯、誰も、百瀬君だけの覚悟が、出来ないだけだ。」
私は驚いて、父の顔を見た。父の眼は血走り、何ものかに、怒っているようであった。
『父が、百瀬さんと同じ覚悟をしたら?』
私は、大切な父を失くすことになるのだ。何とかして、父に、百瀬さんと同じ気持ちを持たせないようにしなければならない。そうだ、ぜったいに、軍歌を聞かせてはならない。父は軍歌を聞きながら、又、人に聞かせながら、日本人である事を思い起こさせていた。
子供の私は、誰にも気づかれないように気をつけながら、蓄音機の横に積まれているレコードの山から、軍歌を少しづつ下へ入れるようにして、上の方には、童謡やクラシックを置くようにした。そして、毎日、父の顔色を見ていた。
 
この記事は 「のうそん258号」(日伯農村文化振興会発刊)より、同誌と筆者の許可を得て転載しました。(Trabras)
 

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