【ニッポン歴史探訪】江戸城と御三家の江戸屋敷

 

  徳川将軍は、江戸城で大老(たいろう)・老中(ろうじゅう)たちに補佐されながら全国にわたるまつりごとをするほか、江戸城を将軍家の住まいとしました。将軍の妻である正室(せいしつ)や正室に準ずる側室(そくしつ)たちは、将軍以外の男は立ち入れない大奥(おおおく)という屋敷奧部で暮らしました。彼女らにとり、将軍の世継(よつぎ)を産むことが大切でした。

ところで、将軍家に続く主な親戚筋である尾張(おわり。いまの名古屋)、紀州(きしゅう。いまの和歌山)、水戸(みと。いまの茨城(いばらき)県にある)の三藩は御三家(ごさんけ)と呼ばれ、大切な任務を担い、いろいろと将軍家を支えました。御三家は、始めは江戸城にすぐ近接したところに屋敷地を与えられていましたが、明暦の大火(めいれきのたいか、1657年に起きたこの火事は、城の外堀内側のほとんど の建物 を焼き尽くしたと言われます。その時、江戸城天守閣も焼け、その後再建されないままです) の後、尾張藩主が住む上屋敷(かみやしき)は、現在の新宿区市谷にある防衛省庁舎辺りに移されました。同様に、紀州藩の実質的上屋敷は、今の千代田区元赤坂にある迎賓館の場所、水戸藩の上屋敷は、今の文京区後楽にある小石川後楽園の地に移されました。いずれも街道に面し、外堀に接する場所にあり、江戸城を防備する役目を担ったといわれます。
以上   (黒瀬宏洋記)

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    (地図で訪ねる歴史の舞台 ー日本ー (帝国書院)から引用)

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