野球留学

 

 

  

  

  【筆者プロフィール】    

 仲尾次 オスカル(20歳)、日系三世 

2008年 白鴎大学(栃木県小山市)から招待されて 野球留学。

 2015年 プロ野球ドラフト会議 6位で広島カープに指名される

                      

 
 私はオスカー マサキ ナカオシと申します。1991年サンパウロ市生まれの20歳です。現在白鴎大学3年生に在籍し学業と野球に取り組んでいます。
  
父ナカオシ ツグミツに誘われ、父の友人達と一緒に野球の練習をするため球場に行き、私は、初めてこのスポーツに出会いました。それまでは単にグローブでボールを捕らえ、どこかに投げる程度のことしか野球については知りませんでした。父が野球をしていたチームには、年齢もまちまちで基本を教えるいくつかのチームがありました。そして監督が私をそのチームに入るよう薦めてくれたので、私も何かスポーツをしたいと思っていたので、野球のルールのこと等何も知らないまま入ったわけです。初めの頃、野球のルールを覚えるのは難しかったのですが、友達や監督、家族が、私に野球のルールを教えてくれました。覚えるのは難しかったが実際にやっていると次第に分かり始め、だんだんこのスポーツが好きになりました。

  13歳になってイビウナ市の野球スポーツ学校に入りましたが、私はそこで大きな夢を見始めましたのです。その学校には40人の野球選手がいましたが、彼らは、プロの選手を目指し、外国でプレーすることを望んでいました。寄宿舎に住み、午前中は学校に通い、午後は練習に明け暮れていました。この学校で5年を過ごしましたが、白鴎大学が、国内外での試合の結果や、既にこの学校から同大学にブラジル人の友人が野球留学していたこともあり、私に関心を示したのです。大学の監督が来て、大学に入るよう招聘されたのは私が17歳の時でした。

 私は文化や言葉も良く判らないまま日本に来たのではじめは大変でしたが、ブラジル人の友人達が助けてくれたお陰で、時間が経つにつれ理解出来るようになりました。野球については思っていた通り、余り違いはありませんでしたが、日本の人たちは、このスポーツにとても一生懸命で、これを大切にしていて施設も充実していました。
              
  大学では日本人と一緒に経営学を学び、金曜日には私のために日本語の授業がありました。

今年で日本は4年目になりますが、野球人としての私の人生を助け、信用し、励ましてくれる友人、親戚、両親のお陰で今私はここにいます。大変な道のりでしたが、こうした人々無くしては、私の今はあり得なかったでしょう。

 大きな目標を持って人生を戦っていれば、その人を信頼し、支援してくれる人々が現れ、その大きな夢はきっと実現すると思います。

               オスカー マサキ ナカオシ(白鴎大学)

翻訳:田中秀幸

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