竹本 久子 詩集その4『暮らしの中から』

富田様 

 

お手紙ありがとう御座います。私のうた、のうそん誌より、転載して下さいました由、本当にうれしく思います。実はまだ見ておりません。私、機械に弱いので…それに日系ブラジル人…なんて言っていながら、ポルトゲース弱いのです。1901年生まれと思いますが、その母が、33才の時の子が私だそうですが、当時移民の人たちは、自分の子供達が、他国系の人と結婚することを大へん嫌って、なる丈バイレ(*ダンスパーティー)などにもいかせないように…したものです。私は父を1948年末に亡くし、パパイッ子であった私は大変落ち込み、それまでの朗らかさも失い、ちょっとおとなしい子になっていました。

 

田舎生れで田舎育ち、25才で結婚しましたが、主人はカフェー農業でしたが、大霜でやられ、1964に養鶏業にかわりました。主人はやり手の人だったので、一時はパラナ№1の養鶏家なんて言われて、あちこちの人たち、パラグアイからも見学に来られて、7人の子や、甥子たちにも勉強させることも出来、(主人は男兄弟4人共同事業)成功した時期もありました。話はもどりますが、私、生まれた土地、70家族一しょ入植したそうで、あの土地は、父母が始めて地主となった土地で、兄たち3人はリンスで生まれ、姉私と妹2人の生れ故郷です。私13歳の頃には、土地がやせ始めると、日本人たち皆次々、新しい土地を求めて、出て行ったので、うちの周囲にはFazendeiro(*大農場主)に買い占められた土地がパスト(*放牧地}となり、彼方にはポルトゲースのコロニア、此方には北伯人たちのコロニア、それに姻戚関係による黒人の集団地,など…。私たちは、長兄が日会入会していたプレシデンテ・ウェンセスラウ市で催し事があると大喜びで行ったものです。うちから18㎞のところに日本人のコロニアがあり、誘われて女子青年会に姉妹3人入会しました。それは楽しいものでした。ピンポン大会、雄弁大会、陸上などにも出場しました。男女青年会のコモン岡崎さまより自由詩を教えて頂きました。私幼い時、母が「自分は詩を作らないが、姉は詩歌の名人と言われていた…」俳句とせんりゅうは575、当時和歌と言っていた短歌は、57577、自由詩はこう…と教えてくれました。私は始め短歌を…、そのうち自由詩が好きになり、女子の集会の度に、詩を書いたカデルノ(*ノート)。岡崎さまにコヒージして(*直して)もらうのに渡し、次の集会には別のカデルノとトロッカして(*交換して)勉強しました。

 

私は、生まれつき踊りが好きなのに機会に恵まれませんでした。母は私が幼い頃からコスツレーラ(*裁縫)していましたで、ブラジル人が何時も出入りしていました。父母はとても仲好しでした。いつも2人で話し合っていました。夕方畑から父が帰る頃、母は朝結った長い髪の毛を、といて、結い直します。父も母も優しい人でした。随分移民としてきて苦労したであろうのに何時もニコニコしていました。兄たちも姉も妹たちもみんな良い人であったので私は幸せでした。只、当時結婚していた兄二人は頭が四角で、母に向かてこう言いました。「ママイ、久子たちをいれバイレに連れて行くのを止めた方が良い…ブラジル人はみな日系人とカーザ(*結婚)したがっている。久子たちがブラジル人とカーザしたらオレたちの子供もカーザするから大変…」と。私と妹たちはそれからバイレに行くことはありませんでした。うちは父方は神道、母方は仏教、私たちはカトリコ(*カトリック)でバチーザ(*洗礼)しておりましたので、宗教の集りに行くことは兄たちは反対しませんでした。こういう訳ですが、私たちきょうだいはブラジル人と結婚するつもりは全然ありませんでした。母は開放的な人でした。と言うか…私たちを信じていてくれました。調子よいヒチモ(*リズム)のムジカ(*音楽)聞くと、ひとりでに、身体がゆれるような私は、結婚したらマリード(夫)と踊る…と思っていましたのに、私のダンナはそのタイプではありませんでした。社会的地位マトリース(*本社)でジレトール(取締役)、フィリアール(*子会社)でジレトール、地元では内外人に尊敬され、事業の方でも、グランジェーロ(*小作人)がバタバタ破産した時、政府にミーリョ(*とうもろこし)、グランジェーロに提供してくれるような要請しに立ち上がったのも主人、何が起こってもチットもビクビクしない立派な男でした。2008年亡くなりました。そんな人にも大きな短所があり、それが私を苦しめました。でも後悔はありません。7人の良き子供たちに恵まれました。良き嫁、良き婿たちに恵まれ、14人の良き孫たちを持っております。大学卒が5人、大学勉強中4人、ヴェスチブラール(*大学受験)3人、あと8才と2才半の孫です。サンパウロ州よりパラナに嫁にきて、52年間クルゼイロドスーウに住みました。2011年にアラボンガス市に移り、次女夫婦に世話になっております。13歳の頃よりエンシャーダ(*鍬)を引き、当時の習わしで、長男の嫁として舅姑に仕え、クニャード(義兄)クニャーダ(義姉)の世話をして今も66才になる生れ付きの心身障害者である主人の末妹を世話しております。83才になった私と、66才の義妹…こんな私たちを、次女の婿さんはまるで本当の息子のようにやさしくして気にかけてくれます。

 

私の趣味はものすごく多いのですが、主人と同じものは旅行とぺスカリア(*魚釣り)でした。今も行けるところには行きます。あなたのお手紙も留守中に着いておりました。おわびしなければならないのは日本からカルトン(*名刺)送ってくださったのにお返事もしなかったこと…許して下さい。今度のお手紙すごく嬉しかったです。今度の手紙だけでなく。年を取っても認めて頂いた時、とてもうれしい…私子供っぽいのかな…12月3日より9日まで「ヒオグランデドスーウ」にエスクルソン(*旅行)行っていました。書き始めたら色々思い出し、後先もなく私事を書いてしまいました。字もていねいに書けなかったのでお読みづらい…と思います。おっしゃる通りこの頃の季節は普通ではないようです。お身体をお大切にないさいませ。

aua da Serraには主人の従姉妹が二人嫁いでおります。

Festival Odori (*盆踊り)がある時会えたら話してみます。私には、あちらの方あまりおちかづきないのです。子供の頃は早くこい…お正月…でしたが、この年になってみると、一年があまりに早くくるのでおどろき…です。富田さまおくさま良き年をお迎えください。竹本久子(2016年12月17日)

 

 

「故郷」

 

わが故郷は サンパウロ州

プレシデンテ ウェンセスラウ市

生まれた土地はペデルネーテ 

白い砂地のふるさとで

ハダシで走った あの感触が

今もアリアリ感じられ

胸が…

胸がキュン…と甘くうるおう。

 

ふるさとは

何時も 心の中にすむ

物につけ事につけ思い出す

父よ母よきょうだい…よ

幼き頃の友達

夢多き乙女の頃の

ともだち…よ

あゝふるさと…。

 

父母に甘えたはるかな日

青春のときめきも

ありとあらゆる美しい思い出の

いっぱい つまった この胸は

ふるさとを…

あゝ ふるさとを思うとき

なぜか チョッピリなみだする。

 

「お酒」

 

お酒 飲みたい

時には わたしだって

お酒飲みたい 心ゆくまで

音楽を、静かな音楽聴きながら

アベリチーヴォ

つまみながら…。

大勢ガヤガヤ

飲むのも たのしい

なめらかな 舌が少し

もつれてしゃべる頃…

心は 平和、目はトロリとなって

みんなの顔が

やさしく見え…る。

ひとりぼっちで飲む時は

なんとなく しんみり…と

ユラユラゆれる心の中

あの人の顔

この人の顔…。

永遠…にこの目で

永遠に…

逢えない人とも逢えるのは

チビリ チビリ…と

チビリ…チビリと飲みながら

ジワジワ流れる

なみだの顔を

メーザ(*テーブル)に伏せて眠るころ…。

 

 

「わたしは蝶」

 

ある日わたしは

美しい蝶となった

不自由な身体から抜け出して

思いのままに

空を飛ぶ…。

ヒラヒラヒラ…と ヒラヒラと。

 

あゝ 自由とは

自由とは こんなにも、

嬉しい 楽しいものなのか

風とたわむれ

舞う ときも、

羽根をやすめるひとときも

ウキ ウキ…と ウキ ウキ…と

 

赤白黄と美しい

花々のほゝ笑みに さそわれて

甘き恋の蜜に

酔うときは…

生きる悦びの

生きる よろこびの、

あゝわたしは蝶…よ

 

 

「良心」

 

人はみな

良心というものを

持っている…

良心は心の奥深くかくれていて

見えないけれど

誰も見ていないから、

誰にも知られる心配はないから…

そんなとき

良心はささやく…

 

そんなこと していいの

そんな こと

思って いい…の

そんなこと…そんなこと、

人は

長い一生のうち

何回良心のささやきに、

良心の咎めに

心おののいたことだろう…

それが

些細なこととしても

 

 

「パイナ」(*)

 

桃色の花を

たくさんつけたパイネーラ(*トックリキワタ)

今は、青い葉の間に

真白な大きい綿 小さい綿m

木の下は

千切れて飛んだ

パイナの綿でいっぱい…

 

家の前にもパスト(*放牧地)にも

わた、わた…わた…

庭のバラの刺にも

カラピショ(*)の刺にも

モヤ モヤと白い綿

 

 

永いセッカ(*乾いた)と空っ風

吹かれ 吹かれて 綿は舞う

パイナの白いわた

八月の空

 

 

 (*)バイナ=桜にそっくりな花(桜より大きいが)を咲かせるパイネイラという肌にとげがある緑の大木(沖縄にはあった)。桜の様でひときわ郷愁を誘い、花が散るとこぶしほどの綿を作りそれが風で飛ばされる。日本人は布団の綿にしていた。

 

(*)カラビショ=野球場の外野の手入れの悪い芝生等に混ざってはえてる背の低い雑草で

   ズボン等に5mmくらいの種がしつこくついて取れない雑草。)

 

 

 

 

 

「落葉たちよ」

 

風が吹いて

木々はざわめき

ヒラヒラ…と、

紫イッペーの

葉が舞い踊る。

 

ユラユラ優雅に踊るもの

クラリ クラリと念入りに

廻りながらに踊るもの、

はげしく斜めに突っ走り

あまりに遠く

落ちたもの。

 

地には落ちても

群なして、

風と手を取り右ひだり

あちらに 渦巻き

こちらに 走る、

枝をはなれた

落葉たち…。

 

たのしげに

楽しげに 落葉たち、

風にたわむれ風になぶられ

美しく、

落葉のショーを演じてか

秋の たそがれ

落葉たちの歌声…。

 

「炎」

 

「好きだ!

子供の頃から好きだった

燃え上がる 赤い大きな炎!!

吸いつけられるように

そこから一歩もはなれられない。

「メラメラといきり立ち

くねりながら渦巻いて

勢いよく暗い空に挑む…

まるで…

果てなく燃え続けるように…

炎は 生きている!

生命の躍動そのものだ…。

「悪魔のような妖しさと

天女のような優雅さを

そのはげしさと、

なめらかな動きに感じる

一瞬も、

止まることなきゆらめきが

私の心をゆさぶる

じっとしていれないようなたかぶりが

胸にうずまく。

「怠惰の心 ぶちこわし

立ち上がる勇気を

与えてくれるように

炎はエンエン燃えさかる

大きな声で腹いっぱい

思いのたけを叫びたい!!

たましいの

わが魂の、底の底なるこの思い、

力の限り叫びたい

炎となって叫びたい

炎となって叫びたい…。

 

 

富田様

私は2005年より「詩話会だより」浜田照夫様発行に投稿、2013年までに52首ほど載せて頂きました。のうそんには未発表のものだけ送っております。今書きましたこの歌は「詩話会だより」に載ったものです。「詩話会だより」はその後音沙汰ありませんので、閉めたもの…と思われます。それでよかったらお送りします。 竹本久子

 

 

  

 

  

 

 

 

               

 

作者自己紹介】

 

竹本 久子

1933年11月10日、サンパウロ州 Presidente Venceslau

生まれの日系二世ブラジル人です。

趣味は詩、読書、踊り、トランプ、旅行。

下手の横好きでカラオケもはじめました。

2005年から8年間、サンパウロの「詩話会だより」

に投稿をしていました。今後も「のうそん」に投稿

させていただきたいと思っております。

 

 
 
 
 
 
 
 

 この記事は「詩話会だより」に掲載されたもので筆者の許可を得て転載しました。(Trabras )  

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