筆者: 眞砂 睦
ブラジルにシイタケを根付かせた、山下亮という友人が居る。兵庫県出身で、大阪府立大学農学部を卒業後、1969年に移住。専門知識を生かして、長年日系の化学会社で肥料の生産・販売に従事していた。
その彼が1983年に日本に一時帰国して大学時代の恩師を訪ねた際、突然「ブラジルではシイタケが栽培されていますか」という質問を受けた。「まだ誰も栽培していません」と答えると「では君がやってはどうですか」と提案されたのが始まりとなった。
恩師は日本キノコ学会の会長をされた重鎮だったが、早速自ら十種類のシイタケ菌を手配してくれた。思いがけない展開にとまどったが、先生の熱意に押されて種菌を持ち帰ることにした。
山下氏が住んでいる南部のクリチーバ市は海抜数百メートルの高原都市なので涼しいのが幸いした。彼は市の郊外に山林をもっていたが、その広い敷地の中にクヌギとクリの木が育っていたことも好都合だった。それらの木をホダ木にして、先生からもらった菌を植えこむと、みごとにシイタケが収穫できた。
これに勇気づけられた彼は、本気でシイタケをブラジルに根付かせようと考えるようになる。それにはシイタケの種菌の培養から始める必要があった。そこで試験的に種菌を栽培し、それを恩師に見てもらうために再び日本へ。種菌を検査した先生は「これで充分」と太鼓判を押してくれた。さらに「来年僕がブラジルに行って、現場をみてあげるから、しっかり植え込みなさい」と激励を受けた。
帰国した彼は、早速所有する山林に山小屋を建てて増産準備を整え、次の年先生を迎え入れた。この時に生産現場で直接先生から受けた貴重な指導が土台となって、量産に自信をもった山下氏は、本格的にシイタケ事業に乗り出すことを決断した。
生産は軌道に乗せることができたが、問題は販売。なにしろ全く新しい商品である。シイタケ料理の説明書をつけてスーパーに売り込むことから始めた。幸いだったのは、現地の日本食堂がいち早くメニューに取り入れてくれたことだった。やがて、これまでにないうま味のあるキノコということで評判となっていく。ほどなくグロボという全国ネットのテレビ局の目にとまり、週末のゴールデンアワーに「新しいキノコをブラジルに持ち込んだ日本人」という番組が大々的に全国放映された。それがきっかけでシイタケが一躍ブラジル社会に知られるようになった。
その後多くの日系人が栽培を手掛けるようになって生産量も増え、今ではシイタケを使った料理がすっかりブラジル人の食生活に浸透している。
「恩師に背中を押され、手を引かれて、思ってもなかった役柄を演じることになりました」とはご本人の言葉である。 (了)