在日ブラジル人等支援活動と「憩の園」

 

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NGOブラジル人労働者支援センター 加藤 仁紀理事長

 

 

 

私どもの在日ブラジル人等(いわゆるデカセギ)支援活動は、学生時代に所属していた海外移 住研究という部活動出身の仲間とともに始め、今日約10年を経過しました。日本各地のデカセギから、携帯電話に入る相談の内容は、不当解雇や仕事中のケ ガ、職場のいじめ、雇用保険や社会保険の加入、出産手当金や奨学金、不登校、交通事故、会社の設立や融資の受け方など様々です。
微力ですが今後も多少でも 彼らの役に立てるようスタッフ一同努力したいと思っています。

  ところで在日協力会が支援されているサンパウロの「憩の園」は、戦争中、ブラジルで敵性国民となった日本人の救済に活躍された故ドナ・マルガリーダ・渡辺さんたちが戦後発足させた「救済会」の流れを汲む社会福祉法人によって運営されているとのことです。

 日本が敗戦後、衣食住の欠乏で国民が苦しんでいたとき、自らも当時相当苦しい生活を余儀なくされていたブラジルの日本移民が、祖国の窮状を見かね、粉ミルクや白砂糖などの食べ物や衣類を救援物資として大量に何回も贈って下さったことを知る日本人は今やほとんどいないと思います。これは、ララ物資と称され、これに関し2008年の日本人ブラジル移住百年記念式典のご挨拶で天皇陛下が真っ先に移住者に感謝のお言葉を述べられました。

 渡辺さんたちは、このララ物資を先頭に立って各移住地から手分けして集め、手ずから梱包して日本に送り出されていたとのことです。日本に到着した物資は、当時の厚生省から各都道府県に配布され、主として母子寮などに配られました。私は、当時、宮城県仙台市の小学生で満州引揚げ時、父を失っていましたから母子寮に住んでおり、その恩恵に与りました。飢えて着る物も乏しい時代でしたからそれを目にしたときは本当に吃驚して喜んだ記憶が今も鮮明にあります。

 在日ブラジル人でこのことを知っている人はほとんどいません。彼らにこの話を聞かせると一様に驚き目を輝かせます。自分たちはデカセギとして日頃日本人から差別されていると感じているが、自分たちの父母や祖父母が昔日本人を助けていたのであれば誇りを持てるし、自信にもなると言うのです。救済会の現副理事長で、憩の園の運営に携わっておられる相田祐弘様は、私の大学の先輩で、現在私どもの支援活動をご指導頂いていますが、最近、相田様も昔東京でこのララ物資の恩恵に与ったとのことを知り、そのご縁に驚かされました。今憩の園にお住まいの高齢の方々は、この救援物資のことをご存知のはずです。それどころか救援活動に関わり、協力された方も必ずおられるはずです。日本の多くの方にこの事実を知っていただき、改めて彼らに敬意を表して頂きたいと思います。

 私事で恐縮ですが、私の母は、2009年、101歳で亡くなりました。母は、ブラジルからの救援物資に対し、当時厚生省・県の要請で現地に礼状を書かせて頂いた一人ですが、この手紙が「故国の人がこんなにも喜んでくれている」と評判になり現地で印刷された物資募集活動要項に添付されました。その要項が当時サンパウロの「日本戦災同胞救援会」から母に送付され母の手元に残っていました。母が、生前渡辺さんとかエスペランサ婦人会の名前をときどき口にして感謝し、我々の支援活動を喜びながら、常々、「日本人移住者はブラジルに暖かく受容れて貰ったことやララ物資の恩義を忘れずに在日ブラジル人を大切にするように」と言っていました
(2011年2月。特定非営利活動法人NGOブラジル人労働者支援センター 理事長加藤仁紀)。

<憩の園在日協力会ミニコミ誌「Coracao(こころ)」(2011年1月)寄稿文>




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