今回は、織田信長(おだ のぶなが)についてお話しましょう。
昔の時代を扱ったテレビドラマによく出てくる武将の一人です。
16世紀、今の名古屋市がある尾張(おわり)の殿様(とのさま)の家に生まれ育ちました。
若い頃は、よく奇妙な服装、態度で周りの人たちを心配させました。
しかし、彼の妻の父親である斎藤道三(さいとう どうさん 美濃の大名)にしっかりした若者との印象を与えるまでになりました。
身分にこだわらない性格で、百姓に生まれた猿というニックネイムを持つ藤吉郎(とうきちろう)を引き立て、立派な武将に育て上げました。
信長の数ある戦いの中で、「桶狭間(おけはざま)の戦い」はもっとも有名です。駿河(するが 今の静岡県の一部)の今川という殿様が大軍で尾張を攻めてきたとき、雨中、信長はわずかの家来(けらい)を連れて、殿様が休んでいるところを奇襲(きしゅう)して、その殿様を殺し、大軍を追い返したのです。
これで弾みをつけ、京都に向けて勢力範囲を広げてゆきました。1579年、琵琶湖東岸に、安土城(あづちじょう)を築き、天下統一の夢もすぐ実現するかに見えました。
ところが、1582年、部下である明智光秀(あけち みつひで)が謀反(むほん)を起こし、6月のある早朝、信長は京都の本能寺(ほんのうじ)で寝ているところを大軍で襲われ、勇ましく戦ったあと、自殺しました。そのあと、すばやく、立派な武将になった羽柴秀吉(はしばひでよし かっての藤吉郎)が戦場から引き返して、”山崎の合戦(やまさきのかっせん)”で光秀を殺し、信長のかたきをとりました。
なお、「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 」という句が、信長の性格をよく表すといわれます。また、信長は、新しいことに興味を示し、ポルトガル人が伝えた鉄砲を初めて本格的に戦場で使いました。
まず、これくらいを知った上で、周りの日本の友達から、信長の話を引き出してみてください。きっと、話が弾みますよ。
以上 黒瀬