琵琶湖(びわこ)東岸、標高198mの安土山(あづちやま)の上にそびえていた安土城天主(あづちじょう てんしゅ 35.1558632,136.1394345)は、織田信長(おだ のぶなが)が、天下布武(てんかふぶ 天下統一の意味)の夢をまさに実現する象徴的な存在でした。しかし、彼がそれを築くまでの道のりはとても厳しいものでした。
ときの室町幕府(むろまちばくふ)は、殆ど無力化し、各地で家臣が主君を倒して地位を乗っ取るのが当たりまえで、世の中は秩序がとても乱れていました。そのような中で何人かの戦国大名が頭角を現してきました。彼らは一様に京都に行き、弱体化した将軍を利用しながら、天下に号令を発することを夢見ていました。
尾張(おわり 愛知県西部)をほぼ支配した織田信長もその一人でした。信長にとり夢実現のための最初の大試練は、駿河(するが 静岡県中央部)に本拠を置く有力大名の今川義元(いまがわよしもと)が、1560年、大軍を引き連れ、尾張を攻めたときでした。敵対する城を攻め落としながら進んできました。しかし、信長は、桶狭間(おけはざま)で休憩する今川義元に的を絞って、少数の部下を従え奇襲攻撃にでました。彼の策は成功し、主君を失った今川軍はただうろたえて駿河に逃げ帰りました。このとき今川から独立し、古巣の三河(みかわ 愛知県東部)・岡崎城(おかざきじょう)に戻った松平元康(まつだいら もとやす、のちの徳川家康)と信長とは、1562年、 互いに手を結びます。
ところで、信長が京都に行く途中には、美濃(みの 岐阜県南部)・ 稲葉山城 (いなばやま じょう)の斎藤(さいとう)、北近江(きたおうみ 滋賀県北部)・小谷城 (おだにじょう35.4592368,136.2771177 )の浅井(あざい)、越前(えちぜん 福井県東部)・一乗谷( いちじょうだに 36.0152268,136.2990046)の朝倉(あさくら)、南近江(みなみおうみ 滋賀県南部)・ 観音寺城 ( かんのんじじょう)の六角(ろっかく )たちが立ちはだかっています。また、背後をおびやかす、甲斐・信濃(かい・しなの 山梨・長野県)の武田(たけだ)、越後(えちご 新潟県)の上杉(うえすぎ)たちも不気味です。
信長の正妻・濃姫(のうひめ)は、美濃の斎藤道三(さいとう どうさん)の娘です。道三の息子・斎藤義龍(さいとう よしたつ)は、1556年、隠居の身の父道三と戦い父を殺してしまいます。信長は義父・道三の弔い合戦を義龍に対し行いますが、なかなか決着がつきません。結局、1561年、義龍が急死したため、城の争奪戦は、彼の息子・龍興(たつおき)が城主を引き継いだ後にもつれこみます。最後は、信長家臣・木下藤吉郎(きのした とうきちろう のちの豊臣秀吉)が、手ぎわよく、相手のノドもと深くに墨俣城(すのまたじょう)を築き、さしもの難攻不落の 稲葉山城も、1567年、信長のものになります。信長はこの稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう 35.4338724,136.7820382)と名前を変えて、尾張と美濃の2ヶ国を支配する本拠地とします。
つぎに、信長は、1567年、妹のお市(いち)を小谷城城主の浅井長政(あざいながまさ)に嫁がせ、浅井と同盟を結びます。その上で、1568年、信長は足利義昭(あしかが よしあき)を主君としていただいて京都に上(のぼ)るため、観音寺城の六角義賢(ろっかく よしかた)にそれを支援するよう要請します。南近江の守護大名のプライドから六角はそれを拒絶します。そこで戦いとなります。信長が浅井・徳川の加勢も受け、六角側の支城である箕作城(みつくりじょう)を落とすと、六角は、これは敵わないと観音寺城から逃げ出します。京都では、地元の三好(みよし)たちも信長に従います。信長は、こうして義昭が15代将軍になるのを助けました。
ところが、信長に思わぬ誤算が生じます。というのは、信長が、反信長の姿勢をあらわに示す越前の朝倉を攻撃すると、浅井長政は朝倉との関係を重視して、信長に反旗をひるがえします。そんなわけで、信長が、浅井に協力する比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちする事件なども起きました。しかし、姉川(あねがわ)の戦いなどを制し、信長はついに朝倉を滅ぼします。 信長に小谷城を包囲された長政も、1573年、お市と娘三人を城外に逃がした後、父・久政(ひさまさ)と共に自害します。なお、その間、信長は、将軍義昭と対立し、将軍が画策する対信長大包囲網(朝倉・浅井、本願寺、一向宗徒、大和の松永久秀、河内の三好義継、武田信玄など)に苦しめられますが、信玄の死などでその苦境を凌ぎます。1573年、将軍義昭は京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡します。
ここで、話を安土城に戻します。北陸や尾張・美濃方面への陸路、琵琶湖の水運に恵まれ、京都に近い安土山(いまでは田畑や山に囲まれていますが、当時は琵琶湖の巨大な内湖に突き出す岬のような地勢だったということです。そして六角が逃げ出した観音寺城がすぐ近くにあります)に新しいスタイルの城が1576年から1579年にかけて信長によって造られました。信長は、甲斐・信濃の武田や中国地方の毛利(もうり)との戦を進め、もうすぐここから天下に号令できると張り切っていたはずです。ところが、安土城の天主(司令塔)が完成して3年目の1582年、毛利勢と戦っている秀吉の応援を命じられた明智光秀(あけち みつひで)が、「敵は本能寺にあり!」と夜陰に乗じて、京都・本能寺(ほんのうじ)に少人数の配下と宿泊していた信長を急襲しました。信長は、勇猛に戦った後、自害して49歳の人生を終えました。安土城天主も信長の死後2週間経たぬ間に焼失しました。
現在、天守跡には礎石が残っているだけです。しかし、そこから琵琶湖越しに比叡山を眺めると、夢の実現をあと少しのところで取り逃した信長の無念さを感じます。なお、安土城跡に近い「安土城天主 信長の館」にある復元された天主5・6階部分は一見の価値があります。以上
黒瀬宏洋(2011/4/25)
注)例えば、安土城天主の数字列35.1558632,136.1394345は、Google Earth用の緯度、経度情報です。その数字をコピーして、Google Earthジャンプのウィンドウに貼り付けて、ご利用ください。