ブラジルにおける日本文化とは、そのほとんどはわれわれの先駆者である祖父母、あるいは父母である日本からの移住者によって、もたらされたものであり、その意味で「日本移民文化」といっても良いものである。
1908年のかさと丸移民にはじまる、この100年にわたっての総数25万 人ほどの日本移民のもたらした日本文化なるものは数多くあるが、それにはどんなものがあるか。それはどのような形でこのブラジル国の中にあらわれ、また、 どのように我々後継世代に伝えられ、そしてまたブラジル社会の中に浸透し、ブラジル文化の中にどのような影響をもたらしたか、といったようなことをまず検 討し、分析してみることが必要であるが、それは容易なことではなく、浅学非才な私の良くするところではない。
そこで私は、ここ100年を経た日本移民の歴史、特にまったく異質・異文化のブラジル社会の中に、はじめて身をおいたかさと丸から、太平洋戦争の開始によって「敵性国民」として故国との交流、帰国の途を閉ざされ、この国に留まらざるを得なかった、いわゆる戦前移民(初期移民)33年 の歴史をさぐり、彼らが身につけて来た日本文化がどのようにこの国の生活の中に生かされ、それらがこの国の文化とはどのような差異のあるものであったか、 そしてまた、それらが後継世代のわれわれにどのように継承されて来たか、あるいは継承されずに滅びて行ったかなど、それら全てを詳細に拾い上げることは不 可能な事であるが、思いつくままにそのいくつかを取りあげ、初期移民がもたらした「日本文化」(移民文化)なるものが、一世紀を経た今、どうなっているの か。いまなお、われわれ世代に受け継がれているものがあるのか。消え去ってしまったものにはどんなものがあったか。われわれニッケイといわれるものだけで はなく、これからでも遅くない、ブラジル社会にも広く浸透させ、これからのブラジルの発展のために是非、残し伝えて行きたい日本文化(移民文化)をどのよ うな方法をもって伝えたら良いのか、思いつくままに、それを以下に記して見たい。
問題は、これからの100年の歴史の中に日本文化(移民文化)の何が残るかではなく、何を残さなければならないのかを考え、われわれはそのために努力することが大事なのではないかと考える。
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(※本文はブラジルの二世三世日系人を対象に執筆したものです。)
◇初期移民の生活◇ 1908年の笠戸丸移民から1941年末の太平洋戦争の開始に至り、ブラジルの移住の道が閉ざされるまでの33年間に、地球を半周して海を渡って来た日本移民の数は19万人程であった。そしてその19万人のほとんどは、サンパウロ州に入り、更にその殆どは農業移民であるとともに、またその多くは、コロノと呼ばれる契約労働者であった。特に最初の頃の移民たちは、当時最盛期にあったサンパウロ州モジアナ地方を主とするファゼンダ・デ・カフェー(コーヒー農園)の大農園に配耕され、先住のヨーロッパ各国からのコロノ(契約労働者)移民たちと同様に、契約労働者として従事した。19世紀前半までは、これらの農園の労働者は、アフリカからの奴隷によるものであり、かさと丸移民が来る僅か22年前までは、まだその奴隷制度なるものが存在していたがために、初期移民のあつかいも、その奴隷遺制ともいえる様相も残っていた。きびしい労働、それに加えてとても所期の目的は達し得ないような賃銀労働制度、数年の契約労働で故郷の日本に錦を飾って帰国する最初の計画はとても実現することは不可能であった。
そこでこれらの初期移民の多くは、コロノによる目的達成のストラテジィ(tática)を変更し、1915年あたりからは、コロノ生活を切りあげて、当時土地売りにより盛んに売り出されていたサンパウロ州中央のバウルー以西に広がる原生林を、同船者(同じ移民船で来たもの)あるいは同県人などを互いに糾合して、これを求め、集団地を形成し、その中で自営農として目的達成を期した。(中には内陸部には行かず、サンパウロ市周辺に移り、 集団地を作り、バタタや野菜作りをはじめた者も一部あった。) この「植民地」あるいは「移住地」と名のついた日本移民集団地は、「ノロエステ鉄道」沿線に始まり、「アウタ・パウリスタ線」「アウタ・ソロカバナ線」沿線と次第に南下して広がって行ったが、1938年の記録によると、この日本移民集団地はノロエステ、アウタ・パウリスタ地域で正式に名前のついただけのものでも100数十を数えている(注1)。 そして、日本人の特徴は、日本国内においても集団主義といわれることが多かったが、こうしてブラジルにおいても日本移民だけの「植民地」「移住地」集団が形成されると、移民は水を得た魚のように、コーヒー農園の頃の生活では、各国からのコロノたちの間に散住して何もなしえなかった時とは違って、日本人のみの生活の中で持ち前のすぐれた協調性組織力といった、日本から身につけて来た独自の文化的習性を発揮し、日本の村のような組織体を形成再現して行った。原始林を斧一丁で切り開いて焼き、開かれた空間には村人が集まって、エンシャーダ(くわ)で村内の交通路、最寄の駅へ出る道路などを作り、河には橋をかけ、村の中心には日本人会の会館を建て、そこには村長のような会長も選出し、さらに子供たちの教育のために立派だとはいえないまでも学校をつくり、コロノ生活では出来なかった、日本に帰る日に備えて、村人の中から先生の出来る者が出て、主として日本語の教育をしたりもした。(ブラジルで義務教育制度が形をなしたのは、ようやくジェツリオ政権が出来た1930年からのことであり、従って内陸奥地では、ポルトガル語のちゃんとした先生もほとんどなく、ポルトガル語での教育は、たとえ村人が望んだとしても、集団地が出来た初期にはほとんど不可能なことであった。)このほか村には青年会・女子青年会、婦人会などという、いろいろな組織が作られ、新年会をはじめとして運動会など、すべての村の行事は、これらに所属する者たちが参加し、共同の力で行った。 そればかりでなく、馴れない異国の中で、農業を業とした移民たちはポルトガル語も出来ず、その上、日本からの農民であったために、自分の生産した作物を市場などでどのようにして売ったらよいのかもしらなかった。(日本の百姓は自分の作ったものを自分の手で市場に持って行って売るなどという習慣はまったくなかった。)つまり、商売の経験がまったくなかったのである。そのために、コロノをやめ、内陸部には行かず、サンパウロ市の周辺に出て来てバタタ(ジャガイモ)栽培をしたものたちもあったが、彼らは馬の背に乗せたりして何十キロも離れたサンパウロの市場までに売りに来たが、市場の仲買い商人たちに良いようにだまされて買いたたかれるばかりだった。そこで彼らはここで商売してもどうにもならないので、村で組織をつくり、協同の力で、販売も言葉の出来る商売に腕もあるものをやとい、自分たちの手で生産から販売までをしなければやって行けないということで、まず、このサンパウロ市周辺に入った移民集団の者たちが自分たちの生計の手だてとして、農業協同組合を設立した。今はすでに消滅してしまったコチア産業組合、スール・ブラジル農産組合などの協同組合がそれであった。 コチア組合の創設は1927年のことであったが、この当時、まだブラジルには「協同組合法」(注2)という法律さえも制定されていなかった。 この頃、日本移民の集団地には、日本政府の奨励もあって、各地に協同組合が生まれている。コチア組合の誕生した頃の日本移民総数を数えて見ると、ブラジル全土でわずかに4万数千人である。がこうして自らの生活を守るために力を合わせて生まれた協同組合は、その後、幾多の紆余曲折を経ながらも発展し、コチア産業組合などは南米一の規模といわれるほどの一大組合組織までにもなった。 これらのニッケイ農協組織は、1990年代になると、移民世代が作った日系の銀行同様、あいついで消滅してしまったが、これらが何故あえなく消滅してしまったのかの原因はいろいろあげられているが、その大きな原因の一つは、それぞれの組織の参加員、経営担当者の世代が変り、創設当初に見られた強い連帯意識、協同意識がすでに失われてしまっていたことに起因するといえよう。 移民世代のもたらした協調性とか、強い組織力といった日本の伝統文化なるものは、世代が推移するにつれて薄れてしまったことが、ここに見られるのではないだろうか。 とにかく、かくして、日本人初期移民がはじめて接触した異国の異文化の中で、敗退することなく(開戦により敗退したくても、その道は閉ざされたのだが)、何とか生き伸びて来られたのも、この日本古来からの島国の生活の中から生まれて来た協調性、組織力、または連帯の意識などによる相互扶助の精神などを基に集団生活をなし得たためのものであったろう。 ジャポネースという同族同類のみが集団して他にとけこまないという点で、各国移民人種がすべて捨てて、ブラジルという人種の坩堝(るつぼ)の中にとけこむことを良しとしたジェツリオ政権時代の同化政策なるものに反する、こうした日本移民のあり方は、政府の大きな反発をかったが、個々に異文化・異人種の中に生きることの経験の皆無であった環境の中に長い歴史を生きて来た日本人である移民たちにとって、ブラジル人の中に個々が孤立して生きることは全く出来得ないことであったろう。 ここで話はそれて余談となるが、一面で時の政府にこのようににらまれはしたが、この政府は他の一面、すなわち農業生産の面でその当時からすでに日本移民のすぐれた生産技術をかっていたことは案外知られていないが、それは事実である。これは、ブラジル政府のきわめてプラグマチックな発想のあらわれなのかもしれないが、ファゼンダ・デ・カフェーでのコロノ生活を切りあげて来た日本移民たちが、サンパウロ市周辺に集団地をつくり、バタタや野菜栽培を広くはじめ、工業都市として発展期にあったサンパウロ市場に豊富な生鮮食品を供給するのを観察していた政府は、一方で日本移民を非難しながら、当時首都であったリオ・デ・ジャネイロ近郊でも首都への食品安全供給また生鮮食品供給を目的とした生産団地を設けるべく、当時ジャガイモや野菜の生産組合として急成長しつつあったコチア組合を通じて、サンパウロ州在の日系移民農業者を特別待遇でリオ市近郊へ迎え入れている。19世紀初期にバイシャーダ・フルミネンセ(リオ州低地帯)に入植したドイツ系後継世代を最初、同様の措置で入植させて見たが、思うような実績を上げ得なかったのに対し、これに代わってサンパウロ州から移動して来たこれらの日系農業者は、たちまちすばらしい実績を上げたばかりでなく、トマテなど従来からあった品種に改良を加え、生産性も高く、品質もすぐれた、それまでに見られなかった優良品を作り出している。例えば、つい最近まで生産の主体を占めていたトマテ・サンタ・クルース種などというのがそれであった。 この様に移民農業者には、古くからの日本農民のもつ篤農家といわれる研究熱心で努力家の農業者が多数いた。これは後の話になるが、1960年、中央高原のまったくの荒野であったセラードの中に新首都ブラジリアの建設が始まった時にも、連邦政府は不毛の地といわれるこのセラードに、首都在住の市民に食品の安全供給・生鮮食品の供給を目ざして、サンパウロ州の日系農業者に生産地を99年間無償貸与するなどの措置を講じて招聘導入した。この不毛のセラードの地においても、入植した日系農業者は土地を改良して、たちまちすばらしい野菜・果物などを作りあげ、大統領もわざわざ見に出かけた程であった。 日本という狭い島国の中で農業を何百年とやって来た多くの農民は、ブラジルの様に広大な土地のあるところでは、生産を増やす手段としては、栽培の土地面積を増やせば良いのだが、小さな島国ではそれは不可能なところから、種々工夫研究して同じ作物から一つぶでも多く収穫するための努力を重ねて来、それが日本人の研究熱心さを作りあげて来たのである。農業移民たちは、本来ならば政府などの公共機関がやるべき品種改良などを自らの手で行い、ブラジルの農業生産面、また市民の食生活の向上の面で(特に野菜、果物などの市場供給を豊富にし)貢献して来たことは、周知の通りである。
◇戦後日系社会の大変貌◇ 話は横道に行ってしまったが、私が言いたかったことは、日本からの農業者であった移民が、殆どのものはこの国に移ってからも農業を続け、その農業者としての生活の中でどのように日本から身につけて来た日本文化なるものを発揮した生き方をして来たかを知ってもらうためであった。そこで、これまで記したことを整理してみると、同じ仲間同志の連帯意識、その中での協調性、団結力、組織力を発揮して村という集団組織を形成しての生活、そればかりでなく、小さな島国の長い伝統農業の中で育まれて来た勤勉さにもとずく研究熱心さ、といったことになるだろうが、戦前の一世移民世代の中にはそうした日本文化なるものの特質が広く強烈にあったのである。 移民世代が強く身につけていたこれらの日本文化なるものは、時代の経過とともにどうなったのであろうか。以下、それについて考察して見ることにしよう。
時代は変って、第II次世界大戦は枢軸国、すなわちドイツ、イタリアと並んで日本の敗戦をもって終結した。1945年8月14日(ブラジル時間 OngTrabras注)の日本の全面降伏を信じようとはせず、多くの移民は日本勝利の幻想に踊らされ、敗戦を口にする同胞移民を暗殺するというような同胞相い食む不幸な事件もひき起こされたが、それも時の経過とともに日本惨敗の真相が次第に伝わるとともに終結を見、戦前移民はそこではじめて焼土の故国に帰ることをあきらめ、出稼ぎの思いを捨て去り、ブラジルの地に永住を決意したのである。 このブラジルの土に骨を埋める覚悟が定まると、先ず、何よりもさきに何をなすべきかを移民は考えたが、そこで子を持つ親の当然の帰結として考えられたのは、この国にこれから生きて行くこの国生まれの子供たちのことであったろう。
戦前の集団地、村の中では、どちらかというと故郷に錦を飾って帰る日に備えて二世の子供たちにも日本語習得に力を入れた親たちが多かった。だが、その望みが消え去り、ブラジル社会の中にブラジル人に互して生きていくためには、日本語を捨て、ブラジルの教育を充分に身につけさせることがもっとも肝要なことであった。 そのために、ブラジル永住の覚悟を決めた1950年あたりから70年代にかけて、内陸部(Interior)からサンパウロ市内或はサンパウロ周辺地域への日本移民の大移動が始まる。原生林はほとんど切りつくされ、開発されたとはいえ、内陸部ではまだとても子供にすぐれた教育を身につけさせるような学校施設も教師もいなかった。ブラジルの一般国民教育は非常に遅れており、義務教育制度すら確立されたのは、前述のように1930年、ジェツリオ政権の時がはじめてであった。 内陸部在住の移民たちは、子供たちが「カボクロ」(原住民化した田舎者)ブラジル人として成長することを非常に恐れてもいた。(注3)そのため、ブラジル永住を決意すると、何をおいても子弟のブラジルでの十分な教育が至上の急務として考えられたのである。 どこにも当時のこうした移民の心的情況を記した記録はないが、私たちが移民80年祭の折に行った日系人調査からはその情況があからさまに窺われる。
1941年、太平洋戦争の開戦によって、日本移民が途絶した時、詳しい調査統計はないが、二世を含めた日系人数はおそらく20数万人(ブラジル側の統計によると、19万人の日本移民の約1割が帰国あるいはアルゼンチンなどの隣接諸国への出国となっている。それにここ生まれの二世を加えると、日系総数は20数万人と見られる)であるが、その内のサンパウロ市内在住者は、当時サンパウロの日本総領事館が邦字新聞(日本語新聞)に発表したところによると、僅かに3,800人余にしか過ぎない。(これには、当時サンパウロに在学していた二世学生なども含まれているかどうかは不明だが、いずれにしろ僅かであったことは事実である。サンパウロに出てきても移民に適した職業がほとんどなかったことが一つの大きな原因である。) 開戦当時、20余万人の日系人の殆どは内陸部在住であり、サンパウロ市周辺にも多少は在住したが、その90%余は農業に従事していた。それが私たちの1988年、日本移民80年祭の折の時点ではどう変化していたか。
調査時のブラジル全体の日系人総数は、すでに128万人を超えた(この日系人とは、たとえ混血の混血であろうとも、日本人の血を引くものすべてを含む)。そして、サンパウロ市内在住者は、実に全体の1/4を越す26.55%、そしてさらにグランデ・サンパウロ地区に13.84%と、全体の40%を越す数がここに集中していた(表1)。
(表1)地域別男女別人口構成(%)-1987
日本からの農業者であり、コロノ生活後も殆どが農業者であった人たちが、日本敗戦後の1950年から1970年にかけて、サンパウロ市内及び市周辺に移動して来たためであるが、何のための多くの移民家族が怒涛のようにおし寄せて来たのか。 余りその理由を口にする老一世の話を聞いたこと、あるいは書かれたものを見たことはないが、これはどうも二世子弟にブラジルでの教育を十分に身につけさせることが第一の目的であったものと、私は考えている。 内陸の集団地で、しかもいずれ日本へ帰ることを前提としていたために、ポルトガル語を習得することもなかった人たち、その上、日本からの農民であり、自ら作ったものを自ら売るという商売の経験もない移民農業者家族が、生活手段の自信もない大都会へ大挙移動して来て、いったい何をやったのか。僅かに書かれた記録によると、50年代から70年代にかけて、市内在住日系人の最も多かった職業はtinturariaと通称されていた、いまのlavanderia(クリーニング店)であり、その当時、市内に3000軒近くの日系tinturariaがあったといわれる。「tintureiro」は当時日本人の代名詞であり、Carnavalのテーマ・ソングにもうたわれたとのことであるが、そのtinturariaはいまのlavanderiaの様な設備の整ったものではなく、極端に言えばアイロン一丁あれば事足りる程度のものであったと想像される。小資本で貸家を一軒借り、家族労働で、朝、隣近所の洗いものを集め、洗ってアイロンをかけ、配達すれば日銭が入って来る。そのかせぎが子供の教育費にあてられたのである。また現在は膨張して市内に含まれるようになってしまったサンパウロ市の郊外や近隣の町などに移動して来て、小さな土地を借りたり買ったりして、野菜や果物を少しずつ植え、時には数十羽の鶏なども飼育する近郊農業を始めた人たちは、それこそ日本農民の得意とする集約農業の技術を発揮し、生産物を工業都市として急膨張するサンパウロの市場に出し、そこから入る日銭をやはり子供の教育にあてたのである。 大変な苦労であり努力であったが、その成果は見事にあがり、私たちの調査にもそれははっきりとあらわれている。その最も端的なあらわれは、日系人の学歴の高さと所得である。
ちょうど、われわれの調査時と同じ頃発表されたIBGE(ブラジル地理統計院)調査(1990)の中に、サンパウロ州における皮膚の色別の学歴調査があり、その学歴11年以上(大学以上)の色別学歴所有者というのを見ると、最も低いのはCafuza(褐色-半黒)であり1.70%、次いで低いのはPretaで2.25%、そしてBrancaでさえ9.08%でしかないのに対して、Amarela(必ずしも日系だけではなく、中国、韓国系も含まれているが、圧倒的に多いのは日系であるから、全体を日系と見ても良いであろう)は、実に20.95%と殆ど21%という他とは大きくかけ離れた高率になっている。(つい最近報じられたところによると、近年ブラジル人一般の高学歴志向は高く、大学の数も著しく増加しているが、08年度において全体の9%が大学以上の学歴所有者となっているとのことであるから、随分向上していることになるが・・・)いずれにしても、われわれの調査のころの日系は他とはまったく比較にならない高学歴所有者であることは、この調査であきらかであるが、これこそ、移民一世々代の親たちが大変な努力をした結果の隠れもない成果なのである。
そしてその成果のもう一つの現われとして、私たちの88年次の調査の日系人の所得情況を見ると、例えば収入が最低給料の5倍以内の者は、ブラジルの給与所得者では62%(これは1986年時のIBGE調査)であるのに対し、日系のそれは23%でしかなかった。また逆に所得の高い方を見ると、最低給料の10倍以上の者はブラジル全体では16%にしか過ぎなかったのに、われわれの調査にあらわれた日系人のこれに相当する者は、ブラジル人一般のちょうど倍数の32%ほどであった(表2)。
(表2)世帯総収入別世帯数の割合の比較(%)-ブラジル(1986)と日系
(1986: IBGE)
つまり、以上をまとめると、ブラジル社会の中では日系人が他にかけ離れて学歴が高く、これと並行して平均的に高所得者層に属していることが、ここに示されていることになるのである。いって見れば、ブラジルの日系人は一部のブラジル人のようなとびぬけた金持ちもいないが、低所得者層も少なく、全体的に中産階層を形成しているということがいえるのである。 しかし、こうした成果を産み出した結果、ブラジルの日系社会は、戦前とは比較にならない大きな変貌を遂げた。その変わりようのいくつかをとり上げてみると、次のようになる。
まず、第1に最も目立ったのは職業の変化である。太平洋戦争の勃発時、移民世代一世の90%余は農業者であったことは既に記した。それが前期の50年代から70年代にかけての怒涛のようなサンパウロ市内及び市周辺への移動集中で、農業者の激減現象がおこった。1958年、日本移民50年祭の時の調査では、それまでもまだ日系農業者数は全体の半数よりもわずか多い57%であったが、私たちの88年調査では、農業者はもう僅かに11.75%に過ぎなかった。そして、この農業者の急激な減少に逆比例して急増して行った日系人の職業は、専門・技術職、また管理・事務職であった。つまり、医者・弁護士、エンジニアといった者たち、或は同様に管理・事務所に就業した、いわゆるホワイト・カラーの増加である(表3)。これらはいうまでもなく、高学歴所有二三世々代のブラジル社会進出の現れである。
以上のようにして、かつての農村社会在住から都市在住者に変ってしまったことと並んで、農業面で高く評価された農業者はほとんどいなくなり、都市在住のホワイト・カラーに変ってしまったのが、日系100年の歩みの最も大きな変貌であった。
(表3) 職業別人口構成比の比較(%)-ブラジル(1987)と日系
そして、もう一つの面の大きな変りようは「日系人」そのものの質的な変換というか、身体的形成の大きな変りよう、つまり混血日系人の増加による変貌である。
二世以下の世代が高学歴を身につけ、ブラジル社会の中に深く溶け込んで行くにつれ、非日系人との混交は急激に高まり、われわれの22年前の調査時でも世代別の混血状況は表4の如くであった。日系社会の変貌を細かく記せば、まだいくつも上げられるが、主要な変化を見ると上記のようなものである。
(表4) 世代別混血状況
*混血率=混血世代人口÷その世代総人口x100
◇日系社会の現状と将来◇ さて、ここで現在のブラジル日系社会はどんな形のものであるかを見てみよう。 まずは、日系人といわれる人たちの実態なのであるが、私は日本人の血を引くものはブラジル全土ではもう間もなく160万人ほどになるだろうと推定している。私は88年の調査時をもとに移民100年祭の時点では155万人と推計していた。そして、これで行くと再来年2012年あたりで最小限日系人数は160万人(デカセギを含む)を数えることになるだろうと推定している。 この様に日系人数は何はどうあれ、数の上では間違いなく増加して行くことになるであろうが、その日系人を構成する内実はどうなるのか。 先ず、私はいまから22年も前の私たちの行った調査以外には、どこにも信憑性のある調査はないので、止むを得ず、この古い調査結果をもとに現況を推定してみることにしよう。 そこで一番大きな問題は、88年の時点、つまり22年前の時点ですでに大幅に混血化が急進していた。日系人構成の混血度の現況であるが、私は以下の如く推計している。 (1) 二世々代は88年時点で混血度は6%であったが、同世代は現在では、既に高齢化しているので、混血度はその後さらに高まったとは考えられない。 (2) 三世々代の調査時の混血度は既に42%の高率であった。その後、三世々代はどんどん増加し、人口構成ではおそらく、現在、日系人の中心を占めていると考えられる。従って、この22年間に更に混血度は高まり、少なくとも三世々代は最低全体の60%が混血となっていると推定される。 (3) 四世々代は22年前、その全体数はまだ少なかったが、四世々代は当時においてすら既にその半数を越える62%が混血であった。従って、現在においては四世々代の少なくとも80%は混血であろう。 (4) 上記のような急速な混血度の高まりの中で、88年時の調査では、まだ数が少なく、統計の上には数字としてあらわれなかった五世々代は、現在出生している日系人としては最も多く増えているに違いないが、前記の傾向から見て、おそらくは五世々代の100%近くはほぼ混血であり、非日系の血の混じっていない純血の五世がいたとしたならば、それはまさに希少価値的な存在と見ても良いほどに少ないのではないかと、考えられる。
ことほど左様に、ブラジルの日系社会は、100年の歴史的経過の中で、日本人の容貌を消して行ってしまった。そのよしあしの価値判断は私は出来ないが、多くの民族・人種が集まって構成する「移民国家」ともいわれた新大陸の国々の形成の中でも、こんなに急速に他民族と混交し、原型を消して行っている人種は珍しいのではないかと思われる。 これは、今から30年以上も前、USP(サンパウロ州立大)の人類学・社会学の教授であったEgon Schaden先生(故人)が良くわれわれの前で、「戦後こんな急激にブラジル社会の中に同化して行ってしまった移民人種と言うのは見たことがない」と日本移民研究もしておられた立場から、声を大にして(地声の大きい人でもあった)言っておられたが、Schaden先生の言われたことは、如実にわれわれの調査の中に数字となって現われたので、私はあらためてそれを確認させられた。戦前はブラジル社会に同化しようとは全くせず、「日本移民は硫黄のように固って、ブラジル社会に溶けこもうとしない不同化の民族」と時の政府から激しく非難されたが、世代が二三世になると、何故こんなにも急激に同化傾向をたどったのか。これは十分研究に価するテーマだと私は思っている。
さて、話はまたも横道にそれてしまったが、いずれにせよ、「日系コロニア」と言おうが、「コムニダーデ・ニッケイ」(日系コミュニティー)と呼ぼうが、現在の進展度で日系人の混血化が進んで行くと(おそらく、その速度は一層速くはなるだろうが、停滞することは考えられない)、先ず、最初に「ニッケイ」という言葉が消えてしまって、どこでも使われなくなるだろう。「ニッケイ」とは何ものであるのか。誰のことなのか、その実体がなくなり、お互いにわからなくなるからである。現に「ニッケイ」という言葉が使われている範囲はそんなに広いわけではなく、サンパウロ州を中心としたその周辺の地域だけのことのように思えるので、混血日系人が殆どのようになれば、彼らも自分たちはニッケイという意識はまったくなくなり、この用語を使うこともなかろうから、五世あたりが成年に達するころには、「ニッケイ」ということばは完全に「死語」になってしまっているだろう。
と同時に、移民世代がもたらした日本文化なるものは、それまでにどうなって行くのだろうか。 まず、混血化が進むと、移民世代が持って来た日本文化(移民文化)なるものは後継世代には継承されることはなく、断絶し、急速に消え去ってしまう率が非常に高いだろうと考えられる。私は、昨2009年、世界の同時不況により、ブラジルからの日本デカセギの者の多くが職を失う少し前の頃、当地の日本語新聞の依頼で、30万人を越える彼らデカセギのことを書いたことがある。そのときの報道によると、デカセギ者の一番大きな問題は、つれて行った子供たちの日本での教育問題であった。両親は夫婦で昼夜交替で働いているためか、子供の教育問題に余り関心がないのか、いずれにしても子供は日本の学校に入っても日本語が十分わからないので、ついて行けず、学校へ行かなくなり、最後には非行化し、犯罪に走ったりすることが多く、日本でも社会問題化しているというニュースが数多く当地でも報道された。それについて私は、ブラジルからのデカセギ者たちは「烏合の衆」(中国のことわざ。規律も何もない群衆)なのか、ということばを使って、彼らを非難した。30万を越えるという一大集団のこれらニッケイ・デカセギは、日本にあって、お互いに力を合わせ、助けあって、自分たちの生活を守るための組織を作り、その中で子供たちの教育問題も解決して行くということを考えもしないのか。これではまるで30万人という「烏合の衆」とまるで同じではないか、というのが私の書いた趣旨であった。
私は初期の日本移民が自分たちの生活を守るために、集団で組織を作り、子供の教育のために学校も設立し、作った農作物を搾取なく販売するなどのために、協同組合を設立し、悪徳商人に対抗した。その農業協同組合設立の最初の頃の移民総数は僅かに4万数千人でしかなかったこともすでに記した。それに対して、今日本でのブラジルからのデカセギ者は、仕事の関係で移動が激しいので、地域のデカセギ者が力を合わせて組織を作って、ことに当たるなど不可能だという反発の発言もあった。ところが戦前の日本移民も一ヵ所に定住出来たわけではなく、移動(mudança)が常ならなかったことは、1958年日本移民50年祭の折に行われた調査記録を見ると明らかである。それによると、戦前移民の中で一番移動の多かった者は17回、少ないもので3回、平均して5回程は居住地を変えている。だから農業協同組合組織なども、特に移動の多かった内陸奥地では、組合員が移動してしまうことが多く、運営が困難であった。そんな状況でありながら、移動した先では必ず集団に参加し、組織の中で自らの生活を守るために活動した。
このように、お互いに助けあって自分たちの組織を作り、共通の問題の解決に当たるという考えは、今のデカセギ日系人からは、もう全く失われてしまっていて、ブラジル的な個人主義というよりも、自分さえうまくやって、もうかれば良いという、利己主義的な考えしかないように思えて仕方がない。 つまりは、この様に移民世代のもたらした日本文化なるものは、何代もたたないうちに、まったく伝えられることはなく、消えてしまっているのだ。それも、世代の混血化が激しく高まるにつれて、急激に失われて行くように思われる。少し長くなるが、その一例を最近の事象の中から取り上げて記してみよう。 その事象とは何かというと、FUVEST(USPをはじめとする大学数校の統一入試)の合格者についてである。 私は最近は余りよく調べていないが、1978年、移民70年祭の記念シンポジウムの折に、日系の大学進学状況なども調べ、“Posicionamento social de população de origem japonesa”(「日系人の社会的地位」)という題名のもとに発表した(注4)。その際に、はじめてFUVESTの日系合格者数も調べたのであるが、そのときのFUVEST全体の合格者の中で日系合格者の占める割合は11.82%(内、USP合格者のみだと12.9%であった)。そして、日系のこのFUVESTの合格者は年々徐々に増加して行き、そのピークは90~91年ごろで、18%に達するまでになった。
毎年、有名大学合格者の名は、サンパウロの有力日刊紙にも発表され、更にその記事の下段には、各大学の一位合格者の顔写真まで掲載された(これは現在でも同様に続いている)。そして、過去においては、この掲載優秀合格者の写真には、日系人が断然多数を占めて目立った。「大学に入りたければ日系受験者を一人殺せ」という不穏なピアーダ(ジョーク)が流布されたのもその頃のことであった。 当時、サンパウロの有力紙や雑誌などは、良く私たちの研究所までも来、何故日系人はこんなにも高学歴志向者が多いのかを取材した。私はいつも次のように答えた。 「これには二つの理由があるのではないか、と私は考えている。その一つは、日本移民はブラジルへの各国からの大きな移民の流れの中で、一番遅れてきた移民である。ヨーロッパ移民あるいは中近東移民は殆ど19世紀後半にここへやって来ている。それに対して、日本移民は今世紀(20世紀)になって初めてブラジルへ来た。後発移民であったため、先発移民のようにブラジル社会への足掛かりは、まだどこにもない。そうした後発移民の後継世代がブラジル社会の中に入って行き、社会上昇して行くためには、やはり高学歴を身につけ、専門職や技術職を手にすることが、一番手っ取り早い手段なのではないか。そのために皆努力して高学歴を目指しているのだ。そしてもう一つは、現在でもアジアの国には儒教(Confucionismo)の影響というものが大きく文化的習慣として残っている。その儒教の教えの中には、子供の教育に関していろいろ説かれている。中国・韓国・日本などには、今でもこの儒教の教えが強く引きつがれているが、どんなことがあっても子供には十分な教育を身につけさせよ、というのがその一つだ。だから、この一位合格者の写真を見ると良い。中国系・韓国系は日系に較べて移民数は僅かだが、こうして優秀な成績で合格している者が中国・韓国系にも見られるのは、この儒教の教えなのだ」と。(これらの理由と並んで昨年、西成彦教授の講演を聴いて、戦前移民がブラジル生まれの子弟のカボクロ化を非常に恐れており、それが戦後自由に移動出来るようになった時、子供の教育が最大の理由で、サンパウロ市及びその周辺に怒涛の如く移動し、高学歴を身につけさせることに専心したのだと教えられた。いずれにしても他に較べて比較にならない高学歴所有者が日系に多いことが、それを物語っている。(注3及び「サンパウロ州の皮膚の色別学歴調査」の項参照のこと)。
それはいいのだが、90~91年を過ぎると、FUVESTの日系合格者はここをピークとして年々低下してしまった。その理由は、調査したわけではないので、ほんとうのところはわからないのだが、ちょうど時あたかも日本への日系人のデカセギ・ブームの頃だったので、その影響があるのかなと思った。当時は、ブラジル経済は不調で、大学を出ても昔のように良い就職口があるわけではなかったので、一層のこと、デカセギに切り替えた方が大学を出るよりも有利に金になるかもしれない、ということの影響かとも思えた。確かに90年代以後はずっと逆行をたどり、年々FUVESTの日系合格率は低下して来た。そんなことで私は毎年続けて調査する意欲もなく、何年かあけてしまったが、2~3年前に調べて見ると、初めて調査した頃の78年あたりの線まで低下しており、これはもう混血化がどんどん進んで、三~四世の子供たちの意識も、次第にブラジル人一般と何も変らなくなり、過去の日系人の様な強烈な高学歴志向、向学心といったものも見られなくなってしまったのだと考えた。そして今年初頭、FUVESTの合格者発表となり、私は久しぶりに少していねいにこれを調べて見ることにした。その結果は日系合格者の更なる凋落が見られた。即ち、FUVEST合格者10,030名のうち、日系合格者は1,094名、つまり全体の10.90%であった。過去に較べると、著しい減少であるが、それでもまだ全合格者の11%近くの合格率である。この11%が多いか少ないか。私はFUVESTの受験者全体がサンパウロ州民だとは思わないが、昔に較べると、かつては他州にはまだ良い大学がなかったので、わざわざサンパウロの優秀大学を目指して地方から遊学する者もあった。しかし、近年は各地に良い大学も数多く出来るようになり、学校そのものは公立で授業料はただであっても、サンパウロ市の生活費が非常に高いため、他州などからFUVEST受験者は減っていると聞く。従って、FUVESTの全受験者はすべてサンパウロ州民と仮に見、日系受験者も同様州内の者としたならば、現在サンパウロ州全体に占める日系人数は大体、全体の3%弱と見られるので、全合格者に占める日系人合格者が3%程であれば、これはサンパウロ州民一般並みの合格率ということになる。それが激減しているとはいえ、まだ11%近くが日系合格者であるということは、まだまだ日系の高学歴志向は他よりもすぐれて高いと言うことが出来るわけである。がしかし、以前に較べるとその志向傾向は著しい低下を示していることも残念ながら事実である。
そこで更にもう一つ、この発表を見ていて、私は思いもしない発見をした。それは何かというと、日系合格者の姓名である。合格者の発表名はフルネーム(nome completo)で発表されるから、姓・名のどちらかに日本名があれば、一応日系人ということであり、姓の中に非日系の姓が出てくれば、混血日系と見ることが出来る。ところで、日系合格者を調べ終わってから当然、いまの日系合格者の主流は三~四世であろうから、私はおそらく、日系の現状からして、この合格者全体の少なくとも60~70%は混血日系と思っていたのに、どうも純血日系らしい名前が多く目立つので、もう一度合格者名を一つ一つ調べて見ることにした。すると、その結果は、日系合格者全数1,094名中、混血日系数は424名で、全体の38.76%。純日系は670名で全体の61.24%と、断然、純日系の方が多いことが判明した。現在、この大学受験世代の日系混血度は少なく見積もっても最低60%だとして計算すると、全合格者の656名程度は混血日系で、純血は328名ほどでなければならないのに、現れた結果は、全く逆になっている。これをどう解釈したらいいのか。結局私は、一世移民世代があれほど苦労して二世々代に高学歴を身につけさせた、いって見れば高学歴志向という日本伝統の文化も、後継世代において混血化が進むにつれて失われて行くのだ、と思わざるを得なかった。日系全体のFUVEST合格者の年々の低下は、後継世代がより多くブラジル文化を身につけ、何故日系人なるが故にとんでもない苦労をして、高学歴を身につけなければならないのかと考え、従来のあり方に反発した方向に向かって行ったのが原因であると考えるが、それには長く続いたブラジル経済の不況も大きく影響しているかもしれない。一流大学を卒業したのに就職口もなく、日本へデカセギに行くものもあった不況のあおりをまともに体験したものにとって、高学歴所有は社会上昇の手段とはなり得なかったのである。それでもなお、そういう経済状況に関係なく、純系日系の中には、移民世代を通じて受けついだ、子供には何はともあれ十分に学問を身につけさせること、という昔からの儒教の教えに基いた文化伝統が、まだ比較的薄れることなく引きつがれて来ているといえるのかもしれない。
以上、説明が長くなったが、日本デカセギ者の30万人を超す一大集団の日系人の中には、移民世代のもたらした自分たちの生活を守るための相互扶助精神にもとずく組織力、団結力、協調性などという伝統的な日本文化なるものは全く失われて、その片鱗さえも見られず、自己の利益を追い求めるためにのみ生きているのではないかと思われ、二~三代を経ずして、こうも変ってしまう姿を見ると、これからのブラジル日系人に何かを期待することも、まったくむなしいことのように思えてくる。もうあれはニッケイ人というものではない、としか見えないからである。 世代を経て混血の度が進むと、一世々代に厚くあった日本文化なるものが次第に希薄になっていく過程は、FUVESTの例に見られるとおりである。しかし、だからと言って、混血化をおしとどめることは不可能であり、それを実施するとすれば、この広い異質・異文化の国の中に孤立した集団として他と隔離して生きるしかない。マイノリティー(minoria=少数民族)としてマジョリティー(maioria)の世界に生きるものは、当然の結果として、マジョリティーの世界の中に解消、融合されて行く。しかし、マジョリティーへの溶合が急激だと、マイノリティーの持っていた特質なるものは、まったく伝えられるひまなく、消滅してしまうのではないか。
私はサンタ・カタリーナのドイツ系移民によって開拓された地域のいくつかの集団地を訪問して、100数十年の歴史を経ているのに、今なお祖国の文化的特質ばかりでなく、ゲルマンらしい身体的特徴も残している者が多いのを見てそう思った。しかし、彼らもまたマイノリティーであり、徐々にはマジョリティーのブラジル社会の中に全面的に解消・融合されて行くであろうが、その速度が日系人に較べて、実に緩やかに進行していっているように思われた。だから移民世代の本国からもたらした文化的特質も、世代が変っても後継世代に移植伝承されて行く余裕がある。従って、移住200年近くの歴史を経ても、一目瞭然、移住世代の特質を受けついでいることが了解されるのである。(今のブラジルがめがけている、戦前の各国移民のブラジル社会のすべてを捨てて同化(assimilação)ではなく、移民後継世代がなるべく移民世代の文化的特質を継承し、ブラジル社会の中にそれぞれがその特質をもって融合(integração)することが望ましいというのは、この様なあり方だと思われる。)
Egon Schaden先生が大きな声で、「こんな急激にブラジル社会へ溶けこみ、同化して行った移民人種は見たことがない」と言ったのは、自分の出自であるドイツ系移民社会と比較してのニッケイの動向であり、「これでは日本人特有の良き文化資質も後継世代に伝えるひまもないではないか」ということを言外に批判をこめて言いたかったのかもしれない。 ことほど左様に、あっけなく日本移民のもたらした日本文化の特質は、良いものも悪いものも急速に消えて行き、まもなく、何の痕跡も残さないことになるのかもしれない。「日本移民」「ニッケイ」などということばも全く聞かなくなり、目じりのつり上がったとよく言われた容貌の者も見られなくなり、日本移民・日系人がこの国にかつてあったことを示す唯一の記録として残ることになるであろうと思っていた「日本移民史料館」も保存手当てもかなわぬままに、繁殖した白アリに喰いあらされて、このままでは間もなく崩壊消滅をまぬがれないということだが、そのあかつきには、かつて日本移民・ニッケイ人がこの国にもいて、それなりにブラジル発展に寄与したことを伝える何が残るであろうか。それでよしとするならば、何をかいわんやである。いずれにしても現状のままうち捨てておいたならば、そうなるであろうことは言をまたない。
◇これからわれわれのなすべきこと◇
ここで初めて私に与えられたテーマ、「ブラジルの日本文化はどうなるのか」という本題に入ることになるのであるが、それに対しては、この問題を消極的にとらえて見るのか、あるいはこれに積極的に対処するのか、この二様の見方が可能である。 以上、これまで論じて来たように、われわれ100年の歴史の流れの中におかれている現状を静観視し、消極的に手をこまぬいて傍観しているならば、われわれのニッケイ・コムニティなるものは前述のような事態の中であとかたもなく消滅することは明らかである。そして、当然のことながら、それでいいではないかとするものも、後継世代の中には多くあるであろう。 しかしいま、厳然としてやらなければならないことは、これからの100年の歴史の中で、ニッケイ文化の何が生き残って行くのか、などということを第三者のような消極的態度で論ずるのではなく、放っておけば何もかも消えて行ってしまうこのブラジル社会の中で、われわれは何を残すべきなのか、何を残さなければならないのかを考え、たとえそれがもう遅きに失したことになるかもしれないが、その目標を達成すべく努力することが最も大切なことではないか。その努力こそが、われわれニッケイ・コムニダーデのあったことのあかし(存在証明)にもつながるし、あったことの意義(存在価値)として後々まで残ることにもなるのだと思う。
私がここで、何もすることなく放っておけば、何もかも消滅してしまうだろうというのに対し、必ず反論するものがあるだろうことは予想している。彼らは言うだろう。遅れて来た日本移民に先がけて来たヨーロッパ、中近東のコムニダーデを見よ。移民世代はもう殆ど生き残ってはいないだろうが、彼らの残していったものは、消えることなく画然・厳然として、その存在をいまも示しているではないかと。例えばサンパウロ市内の病院を見ただけでも、オズワルド・クルース(ドイツ系)、ベネフィシエンシャ・ポルトゲーザ(ポルトガル系)、シリオ・リバネース(アラブ系)、アインシュタイン(イスラエル系)など、民族系の一流病院が残され、ますます一般市民の医療面で活動貢献しているし、さらにエスニック系(民族系)のコレジオも、Visconde de Porto Seguro(ドイツ系)、Humboldt(ドイツ系)、Dante Alighieri(イタリア系)、Miguel de Cervantes(スペイン系)、I.L. Peretz(イスラエル系)、Hebraico-Brasileiro Renascença(イスラエル系)など、サンパウロの教育者が優秀校として選抜した中には上位を占めるものが多くある。これらの創立は病院・コレジオともに移民世代の手になるものであるが、これらの国の移民世代は、いまはもう殆ど生存しておらず、現在これらの病院・学校を運営しているのは、何れも後継世代が中心である。
移民世代が殆ど残っていないのに、ヨーロッパ、中近東移民が存在したことが厳然として残されており、ブラジル国民生活の上で重要な役割をいまもなお担っているのだから、わがニッケイの中の何ものかも残って、ブラジル国民生活の上で役立つことになるのではないかと、楽観視することが出来るのかどうか、私にはとてもそのようには思えない。 それは上述のそれぞれのエスニック系(民族系)の学校を調べて見ればよくわかる。ドイツ系の学校もイタリア系の学校もそれぞれ100数十年の歴史を有し、ジェツリオ政権の時代は日系の学校同様、きびしい監視の目にあい、閉鎖の憂き目にあっている。そうした重圧を乗り越え、戦後復活し、今日の地位を占めるまでになったのである。この間の努力は大変なものであり、いま世代が変っても、その努力が続けられていることは、先年、われわれがこれらの学校を訪問して知らされた。
これに関連して考えられるのは、ニッケイにも最も古い1915年創立の「大正小学校」という学校があった。ドイツ・イタリア同様、戦争直前閉鎖されてしまったが、戦後復活発展するということは遂になく、消え去ってしまった。何故日系の学校はドイツ系・イタリア系のコレジオのようには行かなかったのか。これも研究の対象になるであろう。 そこで、もう紙数もつきたので、先を急いで私の結論を記すが、これまでのわれわれの歴史の100年の中で、何もブラジル社会に貢献することがなかったわけではなく、先にも若干記したようなことを含めて、農業の分野では多大な貢献を果たしてきたことは、内外ともに認めるところであり、この面で、われわれは過去100年の歴史を誇ることも許される。
しかし、以上、縷々記して来たように、わが日系の農業は100年の経過の中で、戦後極端に縮小されて、今日ではほんの一部(150万人日系の僅かに4%前後、約6万人前後)の者がこれを継続しているに過ぎない。 こうした状況にあるわがニッケイ・コムニダーデは、このまま打ち捨てておいたのでは、間もなくニッケイが存在したことの足跡は何も残らなく、消え去ってしまう。そこで私が思うことは、これからでも遅くない。せめてわれわれは上述したような移民世代がもたらした日本文化のすぐれたもので、それをこの国文化の中に浸透させて行けば、必ずこれからのこの国の発展にも役立つことになると思われるものを、青少年の教育を通して、たとえわずかでも可能な限り、この国の若い世代の中に涵養していくことがわれわれに残された唯一の道ではないかと思うのである。 いまや日系後継世代のその殆どは、激しく混血化して一般ブラジル人となんら変らないところまで来ている。従って、この日本文化(移民文化)のすぐれたものを、日系後継世代を通じて段階的にブラジル人の中に伝達していくという方策ではもう駄目なのである。地域によっては残されている混血の少ない集団地で、それがまだ可能と思われるところでは、この後継世代を通じてという方法でやってみることも良いであろうが、都市化して混血の増加している地域では、混血を含めた一般ブラジル人子弟を対象に、それを行うべきである。
ブラジル文化に欠如している日本文化の前記のような特質は、それが、これからのブラジルの発展に役立つとしても、これをブラジル文化の中に移植するということは、本来それほど容易なことではない。 例えば、サンパウロ州ポンペイアの西村俊治さんの創設した農工学校(Fundação Shunji Nishimura de Tecnologia)は、厳しい校則の中で、自治の精神を基本にして、勤労を尊ぶ精神、すべて共同体制の中で事を行う協調性、団結力、連帯意識といったものを育てて行く教育であった。その三年間の非常に厳しい訓練に耐えたものは、かつて見たこともないブラジルの青年に成長し、アメリカなどでの一年の実地研修においても、パトロンのアメリカ農業者を驚かすほどの研修態度で、いったいブラジルのどんな学校がこんな教育をしているのか、とわざわざアメリカから訪ねて見に来たものもあったくらいであった。しかし、その学校も29年の歴史を数えて昨年閉校してしまった。3年の間、この厳しさに耐え、成長した者たちの中には、その卒業式の席で、「この学校をつぶさないでくれ!」と叫んでいるものも見られた。ブラジル人教育者などの中にも、この特異な学校の教育に注目、称賛しているものも確かにあったが、ブラジル一般から見れば、この様に厳しい校則の中で、ブラジルには見られなかった文化的価値観を植えつけようとすることは、簡単にそれを良しとして受け入れるわけには行かなかったのだろうと、私は見ている。
しかし、過去において、この学校の厳しさに耐えて成長し、ニシムライズムといったモラルを身につけて社会人となって行った卒業生は800人を越える。たとえ数は少なかろうと、彼らの個々は社会に出たあとこのニシムライズムを忘れることなく、その周辺にも伝えて行くだろう。 私の望むのは、そういうことである。たとえささやかであり、それが全体に歓迎され、スムーズに受け入れられることはないとしても、人間の生活にとって、必ず有効だと思われる価値ある文化は、異質な世界の中にあっても、それを伝えて行くことは意義あることだと私は考える。 異質な文化を身につけた者同士が集まっている新大陸の国々では、この異質な文化的価値を遠慮なく互いに示しあうことで、そこの新しい文化が生み出され、国の新たな発展につながって行くことになるのである。ブラジルという国自体も昔と違って、同化ということは口にせず、多人種・多文化なることを良しとしているのは、その現われである。 そのためにわれわれは何をしなければいけないか。他の移民先進諸国は自国文化のよきものを基盤としたコレジオをそれぞれ作り、その中ですぐれたブラジル人を養育すべく長年にわたって努力を続けている。われわれコムニダーデ・ニッケイには、まだ教育者が広く称賛してくれる、そういう教育機関を作りあげていない。これからでも遅くはない。これから100年、われわれに残されている可能な道は、遅ればせであろうとも、それを実現するよりほかないのではないか。
私たちの仲間はいま、ささやかだが、そうした日本文化の価値あるものを基盤とした教育をブラジル社会の中に浸透させていくことを目ざして、移民先進国のやっているような日系のコレジオを数多く作り、お互いに協力してそれを発展させて行くべき準備を進めている。大方の賛同協力を得たい。(2010年8月記)
(注1) 輪湖俊午郎「バウル管内の邦人」(1939)
(注2) 協同組合制度はイギリスに発生し、北ヨーロッパで広く発展したものであったが、「一人は万人のために、万人は一人のために」という相互扶助を基本とした新しい社会組織であった。これは伝統的に集団の利益を優先する日本の人たちには適合して発展したが、個人主義を基本とする文化をもつラテン系の人々にはあまりなじまないようである。ブラジルに協同組合法が制定施行されたのは1932年のことである。
(注3) 1936年7月第141回国際ペンクラブ(ブエノスアイレス)に出席した日本の著名な作家島崎藤村は、帰途サンパウロを訪ね、邦人集団地も訪問しているが、帰国後、その著作、随筆集「巡礼」の中に、移民のカボクロ化(特に子弟の)することの恐怖心にふれて細かく書いている。また、1935年移民船でブラジルに渡航し、モジアナの耕地で移民の生活を経験した石川達三は、帰国後、小説「蒼氓」を書き、第一回芥川賞を受賞しているが、その小説第三部の中で、やはりこのカボクロ化について記している。そのほかにも特に移民子弟が次第にカボクロ化して行くことの恐れにふれて書かれたものは多い。(立命館大学教授西成彦2009年S. Pauloにおける講演) 2009年8月S. Paulo 市Fundação Japãoにおける西成彦(Masahiko Nishi)“Os japoneses e o símbolo caboclo”
(注4) これは、“A presença japonesa no Brasil”1980 T.A. Queiroz Editora e EDUSPに所載されている。
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