西村俊治と言う人 (宮尾 進)

一つの歴史の進展・推移というものは、人の年齢の推移と似たようなものなのかな、と思うことが、私にはしばしばあった。

  私はサンパウロ人文科学研究所という日系社会や日本移民に関する調査研究をする小さな組織に属していたので、戦後「同胞社会」「邦人社会」に替わって日系 の「コロニア」(この名称も、他国系移民社会にならって二世世代が増加してきた50年代半ばころから私達の仲間が提唱、一般化したものであった)になった 頃から日系社会の動向を探ってきた。

 そうするとその経過につれて、その年輪増加の現象は、なぜかここの人間の年齢経過によく似たようなところがあるのではないか、と思えてきた。

 それを私に意識させたのは、日本移民80年祭の頃だったかもしれない。

 私の見た目では、80年祭は日系コロニア内部においては、それほどの盛り上がりをすでに見せなかった。

  ブラジル側はその時、「かさと丸」の模擬船までも仕立ててサントス入港時の様相を再現してにぎやかに祝ってくれたりしたのに、サンパウロでの日系コロニア の祭典は、70年祭の折にはあのパカエンプーの大球場を埋め尽くしたのとは程遠く、イビラプエラの屋内体育館をいっぱいにするのがやっとだった。

 私は「同胞社会」から「コロニア」に替わったブラジルの日系社会もすでに高齢化し、生きている人間同様隠しようもない老化の様相を呈してきているのだ、と認識した。

 要するに、いろいろな波乱はありはしたが、50年祭の頃ようやくまとまる壮年期を迎えて発展の一途をたどってきた日系コロニア社会も、70歳の年齢にあたる70年祭あたりをピークとして、以後高齢化による衰退の道を徐々にたどったのだと私は解釈した。

 それが一世移民世代を中心とした「コロニア」なるものであり、以後は一世移民世代から徐々にずれた準二世、二世世代へと推移し、先の100年祭もすでに中心は二世世代が中心であり、移民世代はその片隅の存在でしかなかった。

  それも無理もないことで、「コロニア」という組織はあくまでも移民世代がその主体を占めるものであったが、100年祭の時点においての移民世代は150万 人と通称されているブラジルの日系人総体(実体はいつまでも150万人ではなく、私は再来年あたりは少なく見積もっても160万人程になるだろうと推定し ており、そのうちの60%余、100万人近くはすでに混血だろうと見ている)のうち、移民世代一世は僅か5~6万人、全体のほんの3~4%でしかないこと にもよるのである。

  そんな数字が頭の中にあるせいか、日本移民100年記念事業なる数々の祭典・イベントが無事に終わって、もうすでに2年近い年月が経ってみると、これは私 ひとりだけの感情かもしれないが、100年を一区切りとして「一つの時代が終わったのだ」という思いが強くするのである。

 

 

「コロニア」「コムニダーデ・ニッケイ」の終焉

 

既に新しい時代への推移を感じさせる現象は少しずつ現れてきている。二世世代が「コロニア」という名称には違和感を覚え、それを使いたがらず、もっぱら「コムニダーデ・ニッケイ」という名称を用いるのもその一つである。

  しかし、この呼称も長くは続かないような気がする。なぜかというと、現在のように混血化が怒涛の勢いで進んでいくと、まもなく日本人の顔をした日系人なる ものは見られなくなり、「ニッケイ」という名称も消え去り、「コムニダーデ・ニッケイ」も姿を消していくだろうからである。この現象は「ニッケイ」という 呼称にこだわる人のエモーショナルな感情を無残に打ち砕いて、歴史はその方向に進んでいくことになるだろう。

 「日系社会」あるいは「コムニダーデ・ニッケイ」がどうなろうと、数の上で日本人の血を継承した者が増えていくことは確実であるが、それを考慮してみたところでどんな意味があるのだろうか。

 こういうことを思いめぐらせていくと、これからの時代をどう生きたらいいのかを思慮するよりも、何か体からはぎとられていくような脱力感・虚脱感を覚えるひともあるだろうが、だからといってその中に沈滞したままでもいられない。

 

明治の日本人だった西村さん

 

いずれにしても100年祭を契機として、一昔前「明治は遠くなりにけり」という言葉があったように、「一世世代は遠くなりにけり」という惜別の感に似たものを覚えないわけには行かないのである。

 そうした中で、去る4月23日、私は西村さんがついに亡くなったという知らせを受けた。

 昨年11月末、西村さんの農工学校の最後の卒業式の際、車椅子の西村さんは予想以上に弱ってしまっておられるような感じだったので、この日のあることを予期してはいたが、西村さんの死は上記した「一つの時代の終わり」を一層大きく象徴するかのように、私の胸をえぐった。

 西村さんの生まれは1910年、明治43年。明治は45年に7月で終わるのだから、西村さんはその明治も最後の頃の人である。

 いま、われわれの日系コロニアの中心に、この明治生まれの人は何人生き残っているだろうか。ブラジル側の地理統計院(IBCG)の調査(2000年度ブラジル在住外国人数)では、日本人は5 万2496人となっている。このうち移民であった人はおそらく5万人ちょっとで、この調査から10年を経た現在では、これら移民のすべては60歳以上の高 齢者層に属するだろうから、その死亡率は高く、おそらく生存者は4万数千の域をでないだろう。したがって、160万近くなっている現日系人総数の中では 3%を切るほどの少数者でしかない。

 この中で戦前移民に属する明治生まれの人となると、いま現在何人ほどの人が生存しているのだろうか。明治最後の45年生まれの人でも、今年は98歳を数えることになる。

 

 こう見てくると、99歳であった西村さんはまさに戦前移民、しかも明治生まれとしては最後に生き残ったものの一人であったとのだ、といえる。

  その生き残りの戦前移民の中で、その後の大正、昭和生まれのものとはあきらかに大きく違う、いかにも明治の人と呼ぶにふさわしい気骨を持って、このブラジ ルという移民先の国の中で、日本人としての誇りをもち、その日本人として良き資質を、この異文化の国の若者達の中に移植し、ブラジルという国をもっと良い 国にしよう、それがこの異国に移り住んだひとりの移民であったに過ぎない自分を、経済的にも豊かにしてくれたこの国に報いるにふさわしいことだとして、農 機具工場の利益の一部を利用して農工学校を作り、自分の理想とする若者を育てようと目指した西村さんのような人は、彼をおいてほかにはいない。

  西村さんはその生い立ちの中で身に着けてきた日本文化を基底として、その中の価値あるモラルを、それが不足していることがこの国の発展の障害となっている と判断して、それをまだ柔軟な心を持つ若者の中に移植し、これからのブラジルに役立つ人間として育てて行こうとしたのだと、私は今にしてそれを強く思う。

  学生とはほとんど毎日生活を共にしながら、折にふれて学生に語りかけたり、彼らの質問に答えたりした西村さんの短い語録(上手とは決していえないポルトガ ル語の話し言葉で、とつとつと語りかける西村さんの様子が見えるような気がする)が残されているが、いまそれにあらためて目を通してみると、西村さんの語 りの一言隻句の中に、つくづくそれを感じる。

 

西村さんの略歴

 

altそれはさておき、話の順序が逆になってしまったが、読者の中には西村俊治なる人をよく知らない方も当然おられると思うので、簡単な彼の経歴を以下に記しておこう。

西 村さんはブラジル日本移民の中では一番少ないと思われる京都府(近年「京都クラブ」という組織が出来たが、それまで他県人会のような府出身者の組織もな かった)の出身である。生まれは前記のように明治43年(1910)。1929年に府立の第一工業学校を卒業し、その翌々年の31年、ブラジル移住に備え て東京在の「日本力行会」という海外渡航準備の学校に入り、ここで一年学んだ後、1932年神戸を出航し、同年三月に移民のひとりとしてサントス港に上陸 している。そして戦前移民のほとんどがそうであったように、コーヒー農園にコロノ(契約労働者)として一年従事したあと、1934年にサンパウロ市近郊に ある、勤労しながら学ぶアドベンチスタの学校に一年学んでいる。力行会もアドベンチスタ校も、ともにプロテスタンティズムに基づく全寮制の学校であったの で、西村さんの創設した農工学校の構造も全寮制の自治制とし、さらに前記二つの学校で深く身につけたプロテスタンティズムの基本的なモラルである誠実・勤 勉・勤労を尊ぶというブラジル人の間にはきわめて希薄と言える精神を涵養することを目標にした学校を作ったのだと思える。 

 そして1936年、26 歳の年に智恵子夫人と結婚すると、39年に夫妻は生まれた長女ともども、サンパウロ市から更に西に向かうアウタ・パウリスタ線の汽車に乗って、その終点で あったポンペイアという小さな駅に降り立った。原生林の中に何軒かの木造の家があるだけのこの地に、自らの将来を試そうとしたということだが、これもいか に西村さんらしいといわざるを得ない。

 西村さんはそこで小さな家を借り、「何でもなおします」という看板をかかげて、日本でいう鋳掛屋(現代もあるのかどうかしらないが)を始めたのだが、それがそもそものいまの大きな「ジャクト農機株式会社」の始めであった。

  ジャクト農機は軌道に乗ったが、その後必ずしも順調に発展してきたわけではない。時には深刻な危機を迎えたこともあった。しかしこの時はブラジル人の友人 の大農園主が、西村さんの誠実と勤勉を信頼し、債務を支払うための巨額の資金を用立てしてくれて、破産の瀬戸際にあった会社を救ってくれた。

 

 事業の上での西村さんのエピソードはいろいろ記されたものがあるが、ここで一つだけ事業主としてすごいと思われると共に、典型的な明治の人らしさを見せつけられる思いの一つのエピソードを記しておこう。

 それは当時まだなかったプラスチックの農薬貯薬槽(タンク)の噴霧機に利用すべく、ドイツからその製造設備の導入を計った時のことである。

  それまでの金属製の貯蔵タンクでは農薬による腐食が激しく、それを解決することが出来なかった。そこで西村さんは日本やイギリスのメーカーを訪ね、ドイツ のメーカーで理想的なプラスチックのタンクを備えた噴霧機を探し当て、そのタンク成型機のメーカーから製造設備を購入することにした。しかし旅から帰って みると、当時軍事政権下にあった政府は新しい政令を出し、外国からの輸入品に対しては、輸入額と同額の強制預託金を積まなければならないことにしていた。 西村さんにはとてもその余裕はなかった。しかし、彼はこの障害にあっても、それをそのまま諦めてしまう人ではなかった。

  ではどうしたかというと、西村さんはブラジリアに赴き、いろいろな知人の手を経て大統領カステロ・ブランコに直接個人的に謁見する手はずを整えた。そして 彼は、覚つかないボルトガル語で、このプラスチックの導入がいかにブラジルの国益につながるかを、とつとつと、しかし、熱心に説明した。

  西村さんは、後々、「私のしようとしている仕事がブラジルの農業のためにいかに有益であるかをブラジル大統領はよく理解してくれ、もち前の率直さで強制預 託金の積み立てを免除してくれることになりました」と語り、「日本では大臣とさえ話をすることは出来ないだろうに、一介の移民が共和国大統領に直接謁見し て思うことを話すことが出来たのです。私は自分がブラジル人であることを前より一層強く感じることが出来ました」と話しているが、それが己の個人の利益の ためではなく、ブラジルの国益につながるのだという、まったく私心のない西村さんの誠心誠意が大統領の心にも伝わったのであろう事は、誰にも得心できると ころである。

  それにしてもこのエピソードは、大統領がまったく未知無名の外国移民である者に直接あって話を聞いてくれたこと、その上、政令と言う国の法的決定事項を曲 げてまでも便宜を与えてくれたなどということは、とても他の国では考えられないことである。そしていかにそれが国益につながることとはいえ、直訴にも似た 形で大統領に会い、説得するところまで努めた西村さんと言う人は、事業家としても「すごい人」だといえるだろう。と同時に、これこそまさに誠心誠意の明治 の人の真骨頂と言うべき姿勢だとも思えてくるのである。これが1965年のことである。翌年にはジャクト工場内にこのプラスチック工場が建設され、ブラジ ルの農業界にもプラスチック時代が到来したのである。

 その後、ジャクト農機は順調に発展し、ブラジルの農機製造企業では屈指のものともなり、各種噴霧機は海外にも多く輸出されるまでになるとともに、1979年には独自に大型のコーヒー収穫機をも開発し、時の副大統領、労働大臣などを迎えて発表会を開催するまでになった。

 

  その頃、西村さんに対する国内外の称賛は数多で、ブラジル政府関係、日本政府関係などから数々の賞を授賞されているほか、農業関係をはじめとする民間組織 団体からの表彰など、一つ一つあげたら大変な数になるほどである。つまり西村さんの農業界に対する功績は、内外に広く知られるようになっていたのである。

 西村さんのジャクト農機はおかげで、年々規模が大きくなるとともに、経済的にも大きな潤いを見せるまでになったのである。

 そして1982年、この会社に創立35年を迎えることになったが、同年は西村さんがこの国に移住してからちょうど50年目でもあった。そこでこれを機に、西村さんは記念事業として何か有意義な仕事をしたいと考えた。それが前記の農工学校の建設なのであった。

 

恩返ししとしての人間教育

 

西 村さんの農工学校建設の動機は、「何もない裸の姿でブラジルに渡ってきた私が、こうして1000人もの人を使うまでなったことに対して感謝しなければなら ない。私の実力からいって、現実に与えられたものは本当に多すぎる。もらいすぎたものは、世の中に当然返さなければならない。何をどこに返すかは、私が与 えられたものが結局農業者からだから、それを農業者に返すのがもっとも妥当なことだろう。そこでブラジルの農業で最も困っている根本のものは何か。農業知 識の不足、特に農業機械に対する知識がない。これを普及させることが最も急を要することではないか」ということであった。

最近は多少よくなってきているという話も聞くが、あの当時ブラジル農業者の半分以上が10ヘクタール以下の小さな土地の中で、何の生産技術もなく、ただ自 給自足の生活を続けているのが、その実体であった。また、逆に大面積農地を所有する者、いわゆるファゼンデイロの多くは都市に居住し、農地の仕事は使用人 まかせであった。十分な農業知識を持ち、農機を自由に使いこなし、故障も簡単なものは自分で修理でき、本人が先頭に立って経営にあたるような、本当の農業 者は少なかった。このことがブラジル農業の生産性の低さに大きくつながっているのである。

 

   西村さんはこのことを良く知っていたので、これを改良し、新しい農業者を育成すべく、農のみならず工を含めた内容の学校を創設したのである。従ってこの学校はブラジルの既成の農業学校にはない、あらゆる面できわめてユニークな内容の学校であった。

  この農工学校は1982年に開校された。運営は「西村俊治財団(フンダソン・シュンジ・ニシムラ)」によって行われ、一応三年制であるが、授業料(寄宿料 等一切を含めて最低給料)も払えない学生にはこの財団が奨学金を支給し、卒業後に返済することになっているが、毎年この月謝も払えない農家の子弟も多かっ た。

  この学校の特徴は、農業技術、農業経営を勉強するのはもちろんであるが、「工」とあるように旋盤、溶接などの基本からのトラクターの分解修理なども教える とともに、更に「人を使えるリーダーを養成する」という教育方針であった。そしてこの西村学校は従来ブラジルの学校では見られなかった厳しいものであっ た。

  学校は全寮制で、外出は月一回、無断外出は即退校処分である。さらにこの学生寮は他には見られない全くの自治寮で、トイレの掃除からクリーニング、食事つ くり等身の回りのすべてから食料の生産の農作業までほとんどすべて自主管理活動体制である。こうした厳しさに耐えられず退校するものもあるが、この厳格な 学習に耐えたものはたくましく成長する。そしてさらに、普通三年かかるところを土日も休まずほとんど二年半ほどで学習を済ませた彼らは、卒業後さらに一 年、アメリカあるいは日本の農家に行き、そこで実習することになっている。派遣実習生からの手紙などを見ると、「夏のアメリカ人は実によく働きます。勤労 精神が旺盛で、こんなに働かなくともと思うくらいです。ブラジル人も少しでもこれをまねて頑張れば、きっと住みよい国になると思います」。「日に12時間 は働きます。アメリカ式の労働を習得すべく頑張っています」「新年のあいさつを兼ねて一言お礼を言います。おかげで僕は技術面も精神面もすっかり大人にな りました。感謝します」といった便りが財団にはたくさん寄せられている。もともと労働を尊ぶという精神は、ラテン系の人間の間ではあまり歓迎されないモラ ルである。最近はブラジルでも少しは変わってきているように見えるが、それでも筋肉労働をいやしむという考えは伝統的に強く、いまでも身分の低いもののや ることという意識が強い。西村学校の学生は、西村さんの信念に基づいたこの勤労精神を厳しく教えられ、アメリカの農家でさらにそれを身に染みこませるまで 体験する。「仕事は辛いです。朝は4時半に起き、5時間働いて9時から10時まで少し休憩。夜は10時まで働きます。みんなはフンダソン(農工学校のこ と)はずいぶんきついと思っているでしょうが、そんなことは頭から捨てないさい」と後輩学生にさとしている手紙もある。  

とにかく、西村学校はこうして肉体労働をいとわず、勤労を尊ぶと言うブラジルには欠けているモラルを若いブラジル青年に実際の体験を通して身体にしみこませようとする、いわば一種の人間革命をもたらそうとする試みでもあった。

 

残念な西村学校の終わりと残されたものの課題

 

しかし、残念ながらこの学校も昨年11月、26回目の卒業生を送って終わってしまった。

鎖の理由は西村さんは多くを語らず逝ってしまったので、ここに憶測を持って記すことはさしひかえることにする。一昨年出版された西村さんの「年譜」の最 後、2007年7月30日の記録に「西村ジョージ氏が財団理事会を代表して、2008年度の新一年生募集取りやめの通知を全職員、学生に行う」とあるだけ である。

年末の最後の卒業式にも私は招待されて出席した。厳しい訓練に耐えて心身ともに成長した青年達の入場の姿を見るのも楽しかったし、ひとりずつ壇上にあが り、卒業証書を貰い、そのあと会場の父兄や後輩に向かい、証書を高く掲げて「オレはやったぜ!」と言うようにガッツ・ポーズをとり、やんやの喝采を会場の みんなから受ける卒業生の姿は、ほんとうに「よくぞ頑張った」と心から声援を送ってやりたい思いだった。それらの青年の中に「学校をしめないで続けてく れ!」と叫んでいるものの声も聞えたが、厳しさに耐えての成長を自得した卒業生たちにとっては、こうした学校が継続されて行くことが後輩世代にとっても大 変必要なことだとの思いがあったからであろう。

 

もあれ、かくして私のこれまで書いてきたことは、100周年を一つの節目として移民世代の日系社会はプツンと切れて終わったし、それのまことの象徴のよう に明治の人間の最後のひとりであった西村さんも、99歳をもって大往生を遂げてしまった。そしてその西村さんの残したこれからのブラジルにとっても希望の 星と思われていた西村農工学校も敢え無く消えてしまったということで、いったい私はブラジル日系人の虚脱感を誘うようなことだけを取り上げようとしたのだ ろうか、と自らを疑いたくなり、この文の結末をどうつけたらいいのかわからなくなる。

が、いずれにせよここでネガティブな思いだけで終わりにするわけには行かないのである。

何らかの形でポジティブなこれからの方向を考えてみなければならない。そこで唯一考えられる道は、西村さんの目指したことに続けて、これからのブラジルに役立つだろうことを探していくことである。

西村さんは自ら良しとする誠実・勤勉・勤労の精神をブラジルの若者の中に植えつけようと志して教育した。同様に移民のもたらした、移民が身につけてきた日本文化の中はブラジルに役立つ価値あるものがあるのではないか。

つて日本移民70年祭に来られ、「われら新世界に参加す」というシンポジウムで基調講演をされた梅棹忠夫国立大阪民族博物館館長は「日本社会における文化 伝統をもって新しいブラジルに何かを寄与し、何を貢献することができるかといえば、たとえば日本の文化的価値体系の中では勤勉と言う徳目がきわめて高い位 置におかれているし、知的活動性、緻密な頭脳と科学的合理主義、そしてまた教育への熱心さが、日本の科学と技術を築きあげてきた。さらに日本の文化的特徴 である高度な組織力、そういうものが人間関係における誠実さ、協調性の高さ、団結力などの形であらわれている。これらの日本文化的伝統の中に含まれた多く の価値ある資質は、ブラジル社会においても十分に価値あるものと考えられる」と述べている。そのほか幾多のブラジルにも役立ちうる移民世代がもたらした日 本伝統の文化価値あるるものはあるだろう。西村さんに習ってそれをやることが、これから残されているわれわれのポジティブに生きる道ではないか。

達の調べた範囲では、もうそれぞれの国の移民世代の作った「コロニア」なるものはほとんど消滅しまってないが、それにつながる後続世代、またはその本国政 府機関およびそれらの国から進出している多くの企業が協力体制を整えて、自国文化の価値あるものをこの国の社会にもたらすことによって、この国の発展に寄 与しよう。それがまた自国の利益にもつながることだとして、それぞれ立派なコレジオ(学校)などをつくり、教育を通してそれを行っている。100年、一世 紀をこの国に閲(けみ)したわが日系社会には何かネガティブな面だけが目立ってきて、そうした先進移民国のような動きはいまだ見られない。それは何故なの だろうか。我々ももう一度考え直して、そうした方向を見出すべきではないのか。<注・この論文は「実業のブラジル」2010年5月号から同誌と宮尾さんの 許可を頂いて転載しました(のうそん・永田久)


 

 

注・この論文は、「のうそん」(日伯農村文化振興会発刊、ブラジル・サンパウロ)第242号から同誌と著者の宮尾進氏の許可を頂いて転載しました(Trabras)。

 

 

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