【筆者プロフィール】
浅海護也(Asaumi Moriya)
1939年 愛媛県小松町に生まれる
1963年 国立三重大学農学部農学科卒 在学中に三重大海外移住問題研究会を設立し日本学生海外移住連盟に加盟。
1963年12月 南伯雇用単独青年移民としてブラジルのサントス港着。畜産技師として主に養鶏技術の普及と指導にブラジル各地を回った。種鶏場、種鶏孵化場、専業採卵養鶏場、肉用鶏、採卵鶉採卵鶏大型商業飼育と時代と共に推 移する養鶏界に30余年間養鶏技術者としてブラジル養鶏界に貢献した。現在はブラジルにおける日本語と日本文化の普及と継承の為に「日伯国際大学構想」に 取り組んでいる。(富田記)
高山がようやく健康もほぼ回復し、T産業組合ミランドポリス種鶏場に赴任したのは1966年3月中旬、ある暑い日の午後のことであった。
高山こと、高山一郎は1963年、日本は某県にあった国立大学農学部農学科を卒業した。同年10月末に神戸港出帆の移民船アメリカ丸に乗船し、12月中旬、約2ヶ月弱の東廻りの航海を終えて、サントス港に着いた単身青年移民であった。
彼はサンパウロ市在住の日本人の医師、大江龍造が勲三等瑞宝章受章のために一年前に訪日帰国された際、都合よく同氏に出合い呼び寄せて下さるよう依頼し、ブラジルの日系ボーイ・スカウト農場の従業員として来伯した。
高山はサンパウロ市から50キロほど離れたヅットラ街道沿いの山腹にあったサンタ・イザベルのボーイスカウト農場に入植し、採卵養鶏部門に就労した。これは大学で畜産を専攻したからで、飼料の配合の計算や配合作業等、更にその給餌、そして集卵まで採卵鶏飼育すべてを担当した。なお、この農場には花卉栽培部門もあった。
また、この農場には高山の他に、戦後日本からきた青年たちが6名、同様に働いており、アマゾン地方から大江先生に連れられてきた身体の弱い、特に、精神面に少し異常のあった夫婦も二組一緒に生活していた。高山は、この様に若者の共同生活で、面白い日々であったが、同農場は赤字経営が続いていたこともあり、単身青年の就労義務であった一年が過ぎると、その2ヶ月後、大江先生の了承を得、農場を後にした。
そしてその直後、アマゾン地方への再移住を考えたが、大江先生の意見に従って、サンパウロ市で少し生活し、ブラジル式の生活に慣れてから行くことになった。
高山は、出聖後、サンパウロ市の朝市で「にんにく」を沖縄のおばさん達に混じって売った。毎日一箱約30キロ位は売れたもので、朝早く起床し、市内バスで移動した。また、夜はリベルダーデ区にあったサンタ・イネースという学校に通いスプレチーボをやった。この様な毎日であったが、疲れる割合には儲けは、ほとんどない始末であった。
遂に、サンパウロ市に本部のあったT産業組合に1965年10月から働くことになり、マリリア市にあった同組合の種鶏場に転任した。同種鶏場では従業員として種鶏の飼育に携わった。
しかし、その年の暮れ近くなると、朝の起床が疲労で不可能になった。同市のサンタ・カーザ病院で診察を受けたところ、流行性肺炎だと診断され、その場で入院を余儀なくされた。
高山は、すっかり痩せて、ひどい黄疸症状を呈した。一日もすると、着ているものは、真黄色に着色してしまう状態であった。然し、一週間の入院治療の後、一応、日常生活は可能になったが、仕事はできないことになった。
この時、高山はサンパウロ市の大江先生に上聖するようにいわれ、先生宅で治療を続けることにした。そして帰聖後、約3ケ月の治療を受けた結果、幸いにも黄疸症状もすっかりとれ、疲れが出なくなって、大江先生からの仕事への復帰が許されたのであった。
T産業組合ミランドポリス種鶏場はミランドポリス市の西南方向の小高い丘陵地に位置し、同市より2キロメートル前後の距離にあった。周囲はコーヒーの栽培地帯で、その奥にはアリアンサ移住地やアンドラジーナ市、更に、ペレイラ・パレット市方面へ肉牛肥育のパストが広がり、同種鶏場の前には、ビラ・ノーバ植民地という日系植民地になっていた。多くの戦前移民の人達が,余り大きくないコーヒー園を経営し、鶏糞採集も兼ねた小養鶏場を兼業していた。
高山は、前回のマリリア種鶏場では農夫として終日働いたが、今回のミランドポリス種鶏場では、畜産技師として種鶏飼料の配合計算や種鶏検査、そしてワクチン投与等の専門的な仕事を行うことができた。また、勉強する時間もあった。
夜間もマリリア市とは異なり比較的風があり、寝苦しいという事態にはならず、従って体力も徐々に回復していった。食事は種鶏場のブラジル食を食べたが、これもすっかり慣れ、日々多忙な生活を送った。
このような日々が続いた時、ビラ・ノーバ植民地にあった日本人会の谷垣さんや、広野さん、上田さん等の村の役員達がそろって、種鶏場の事務所に顔を出し、高山は呼び出された。
そして次の様な事情を打ち明けられて、協力方を依頼されたのである。谷垣さんは、この時、70歳前後、痩身であった。
「高山さん、我々に協力して、かってあった当地の青年会を復活して、若い人達を指導してくれぬか」
そして谷垣さんは,続けて次のように言った。
「君も知っていると思うが、当地も第二次世界大戦後、勝ち組、負け組事件が発生してねえ。私達は二つに分かれてしまった。そしてその後は、昔の植民地の様に一つにまとまらないんだ。あんたの様に戦後移民で、どちらの方にも属さない人に、我々の若い息子達が双方仲良くやって行ける様に一緒にやって欲しいのだ」
又、この時、そばにいた伝田さんがいった。
「我々勝ち組の者は、当地にあった負け組のカイコ小屋を焼いたりもした。然し、若者は、我々と違って仲良くやってもらいたい。そしてこの植民地が大きく発展してもらいたいのだよ」
高山は、種々当時の日系コロニアの出来事を聞いた。彼等は悲喜こもごも長時間、戦時中から終戦直後の混沌の歴史を語ったものであった。高山は、その時、初めて、この事件について知った訳で,何の知識もなかったが、昔のしがらみにとらわれず、新しい日系植民地を若い者が仲良く作ろうという意見に異論はなく、「お手伝いできることは,何でもやります」と約束した。そして戦後のブラジル日系コロニアを二分したこの大事件に係ることになった。
さて谷垣さん達の来場のあった後、ビラ・ノーバ植民地の谷垣さんのコーヒー園の横にあった古い日本人会館に、この日系植民地在住の青年男女、並びに、少年達合わせて、20数名が集まったのは約一週間たった頃で、高山は、第一回目の青年会を開いたのである。この会合には、勝ち組負け組に関係なく呼び掛け、双方に集まってもらった。
そして青年達は、今後新しい植民地を作り、美しい郷土を育てるというスローガンを採択した。尚、この時、谷垣さん、広野さん、そして上田さん等は勝ち組みで、山本さんや安岡さん達は負け組であった事が分かった。然し、ブラジル生まれの青年達は、親父達の過去等あまり気にする者はいなかった。
そして、谷垣さんんの息子を青年会の会長に選び、日曜日毎に集まることを決めた。こうして再開されたビラ・ノーバ青年会は、会長を中心にして仲良く楽しい会合を重ね、作業を行った。
まず当初の目標として植民地内の私道や村道の修繕や補強を行うこと。近づいていたミランドポリス市や近隣の町の日本人会主催の秋季運動会の植民地対抗リレー競争に、当青年会からも選抜チーム出場させ優勝を狙うことにした。
多くの農家から資材の提供を受けて道路を修理整地し、皆んなで土を運び客土にした。叉、この時、半年毎に、これらの道を定期的に調査し、保全に努力することを決めた。こうしていよいよ運動会の選抜軍の編成にとりかかった。
高山は、安岡さんの息子や広野さんの孫を主力にして6人の青年達を選んだ。種鶏場の仕事がすんだ後、夕闇せまる中、彼等とバトン・タッチの方法や素早いスタートの仕方を、種鶏場内にあったサッカー・グランドで練習したのである。この青年達は昼間の農作業で疲れていたが、よく協力してくれた。何回かの練習の末、チームは素晴らしいものに仕上がった。特に速かった安岡さんの息子をスタートに置き、広野さんの息子がアンカー(最終走者)を走った。
かくして、秋色深まる5月、奥ノロエステ線、ミランドポリスや、ラビンニャ、更にアリアンサ移住地で開催された邦人運動会でビラ・ノーバ・チームは抜群の成績で優勝することができた。まさに常勝軍、天馬空を行く感があった。又、父兄達も過去の恩讐を超えて、皆よく協調をしてくれ、悠久の時がゆっくりと流れるサンパウロ州の奥地、日本移民の運動会。そして馳走の宴は和気藹々と続いたのであった。
当時サンパウロ州やパラナ州その他にあった多くの日系植民地では、毎年5、6月の晩秋の一日、天高き野外に植民地の人達総出で、秋季運動会を楽しんだもので、当日は、かっての友人知己と再会し、それぞれの安否を確認し、子供達の成長を喜び、結婚や進学等を心配し合ったものであった。まさに日系コロニアの絆と発展を祝う楽しい一日であった。
高山は、この時、戦前移民の美しい純粋な心情の人達が多いこと知った。このビラ・ノーバ植民地の人々の温もりを今も忘れることはできないのである。
高山は、当時、来伯後、まだ日は浅かったが、日々の仕事を終え、夕食を待つ間等、当種鶏場事務所のガラス窓を真赤に染めて夕陽が西の地平線に沈む光景を近くにあった木陰に腰を下ろして眺めたが、早くも郷愁に近い想いにかられた。中空を飛ぶ白鳥の数も少なくなり、静寂の世界、折り重なる。遥か彼方に日輪は没しつつあった。高山が育った故郷、愛媛県にはこの様な光景はなかった。四国山脈の高峰がつらなる中、西国一の高峻な石鎚山を毎日間近に見る農村生活に終始した幼少期を思うとき、サンパウロ州奥地州境に近いこの風景は異国情緒を一段とかもし、また、戦前移民の歌ったエレジーを聴く思いであった。我が日本民族もはるばるとこの地球の裏側まで青山を求めて、やってきたことを実感した一瞬でもあった。高山にとって若き日の歓喜、そして志、これこそ人生を営む原動力であることに相違なく、人に隠れて流す感涙も人間が生きるための、また、移民が成功するための最大の要因の一つであることを確信したのも、この時であった。
また、高山は、青年会活動を通して、若い男女の交際は、深遠な神の摂理の一つであることも教えられた。男は女性の言動で、どの様にでも動くのである。ビラ・ノーバ青年会には負け組の山本さんの美穂という美しい活発な娘さんが参加していたが、この娘さんの存在によって、青年会はどれ位、明るく仲良く、男達は、よく働いたか、これは不思議なほどであった。
こうして、11月過ぎ,暑い12月も中旬になると、高山は青年達と青年会新年会の準備に余念がなかった。青年男女、更に、少年少女迄が集まり、会館やその周囲の除草、そして掃き掃除を行った。屋内のクモの巣をのけ、御真影をリンパし、窓ガラスの拭き、また、長机や椅子を修理整頓もした。
明けて1967年1月1日元旦は、朝から快晴で暑い日であった。ブラジル日和というやつだ。9時頃には30家族あまりの植民地の日系人が老いも若きもという形で自家製の正月料理を持って集まり、高山も参加した。そして間もなく新年会は青年会長の司会で始まった。次の様に宣言したのであった。
「皆さん、只今から、1967年度のビラ・ノーバ日本人会の新年会を始めます」
先ず、全員起立で東方遥拝を行い、続いて、日本人会会長の年頭の挨拶があり、更に役員による種々の報告事項の発表があり、最後に長老の広野さんの音頭で全員、声高らかに万歳三唱があり、ビールによる乾杯で終わった。
これで新年を迎えるにあたり、恒例であった儀式は終了となり、後は午後3時頃まで、ビールを主とした宴会になった。賑やかに会員の歓談は続き、昔話や、日本の歌が中心になって、戦前移民特有の家族的雰囲気の中に、時間は流れていった。
また正月料理は、いわゆる田舎のもので、見掛けは質素であったが、内容は豊富で中々美味であった。高山は、久々に日本式の家庭料理を堪能し、日本に帰った様な心地になった。
なお、この頃の奥地の日本人は、家庭内や日系人の集まりでは、きれいな日本語を使用したもので、現今の日系社会の日本語離れは、まさに断腸の感がある。
高山は、特に、戦後移民の日本語、そして日本文化の継承に対する無関心さを痛感する。我々日本人は決して馬鹿ではない。その精神性等、他の民族に比して、冠たるものを持っている。また、戦術面の工夫、思考は、日露戦争に勝利した程のものがある。
然し、永い眼で遠くを見なければならない。戦略面の配慮は、幼児にも等しい様に思う。
この日本語離れ等の日本文化の放棄は戦略性の欠如の他に考えようがない。実に日本人の言行には赤緑色盲の如く、突然、戦略思考が欠如するのである。高山はこの様な日本人の持つ特徴的な思考方法をブラジルの移民生活において初めて認識することになった。
高山にとって、毎日が目新しい興味津々たるミランドポリス種鶏場生活であったが、それも一年あまりで切り上げることになり、当地の日本人会や青年会の人達に惜しまれつつ上聖した。(次号につづく)
帰聖後、サンパウロ市のバーラ・フンド区にあったT産業組合の飼料工場に勤務した。
ところが、高山は、今回ビラ・ノーバ青年会の再開によって二世・三世間の親睦の向上には、一定の成果が上がったことを確信できたが、彼等の父兄達の勝ち組と負け組事件の解消には、さほどの効果のなかったことが懸念された。高山の関与した一年あまりの期間、矢張り分断された状態は、双方の行き来はなかった様だった。また、高山には反省する面もあったが、時間も少なかった事を痛感した。
そしてその期間、特に、世話になった谷垣さんは、既に初老の戦前移民の一人であったが、彼は、岩波書店から出ていた月刊誌「世界」を毎月購読していた長野県人で、後にも先にも、このブラジル日系コロニアで「世界」を月々読んでいたのを見たのは彼一人で、まさに驚異の人であった。 なお、高山は、後年、ブラジルに軍事政権が誕生した初期、所謂、赤狩りと称して、当時、ブラジル社会で顕著であった共産主義政治運動に携わった人たちを暗殺していった事件に出合したが、この連中の中に谷垣という名前があったときは仰天し、言葉もなかった。彼は、この谷垣さんの末子であることを直感で知った。
高山は、この青年が帰省中は時々会っていた。彼は高山に対して、フランス革命に関する話をしたものであった。
その後、一日系人から聞いたところでは、彼がサンパウロ州の奥地のレジストロ市に潜伏中、一邦人農家に一口の水を求めたところ、この邦人が軍警に密告し、これがもとで、サンパウロ市まで、尾行されて、サンパウロ市で殺害された、との由であった。
彼の死を確認した直後、ノロエステ線に巡回養鶏技術指導の旅の途中、ミランドポリス市のビラ・ノーバ植民地に谷垣さんを訪ねた。焼香し、哀悼の意を表した。まさに高山は感慨無量であった。
「谷垣さん、この度は大変なことになって、シント・ムイット。どうか心痛で体を壊す様なことないようにして下さい」谷垣さんはゆっくりと、目を閉じながら、次のように返事をした。「高山さん、ありがとう。私は末子のことを一番心配してきました。ITAで勉強するなど、学校の成績はいつもよく、政治に対する感受性も強かった。ブラジルの国はどうしたら良くなるか等、再三再四、私とも話し合ったものです。しかし、自分の信ずる道に殉じたのだから本望でしょう。褒めてやりたいと思います」
谷垣さんは、以前から余り喋らない寡黙な人であったが、一人の古武士が戦場で死んだ息子を思う様な横顔であった。後は、静かに時の流れるのみであった。あの前途ある有為な青年を抹殺した時の軍事政権に対して大きな憤りと悲しみを禁じえなかった。高山は気もそぞろに、谷垣さん宅を辞したのは間もなくのことであった。
さて、この転勤後、高山はアマゾン行の夢は、遂に、放棄し、現在の仕事をサンパウロで続けることにした。飼料配合の計算や飼料原料の品質管理等、飼料生産その他の仕事に多忙な毎日を送ることができた。
しかし、それも長く続かず、間もなく、C産業組合カシンギー孵化場に転職し、三年余の在職の末、更に、I種鶏孵化場バウルー支部と勤務を変えた。
そして同時に、仕事内容も一変し、高山は、所謂、内勤から外勤に転じ、ブラジル奥地に点在した養鶏場の技術面の指導を担当することになった。つまり初生雛の販売促進のためのアフターケアーであった。
最初に移ったC産業組合カシンギー孵化場では、肉用鶏の飼養技術の普及指導にあたり、サンパウロやパラナ、そしてサンタカタリーナの諸州の奥地に雛の販売人と一緒に歩き、飼養法を教示しながら、雛の販売を手伝った。かって肉用鶏の専門的飼育はなく、従って、これの確立にはいささか時間がかかった。養鶏家は多種多様な人達で日系、ドイツ系、イタリア系の人達、医者、事業家、そしてコーヒー栽培農家が主なるものであった。丁度、それはインテグレーションによる肉用鶏の大量飼育形態の始まる前段階の時期であった。
高山は、新来青年として、ブラジル、特に南部の移住地を巡回訪問し、まさに世界旅行でもしている錯覚におそわれた。パラナ州やサンタカタリーナ州奥地に数多く住んでいるヨーロッパ諸国の移民やその子孫が、すでに百年以上の在伯移民の歴史を持ち、しかも四代五代の世代を経たものであったが、彼等の部落や町に入ると、馥郁とヨーロッパの本国の香りがするのであった。特に、ドイツ系の植民地に入ると、それが鮮明で、ブラジルの他の町にはない部落全体が清潔で整頓されているのであった。多くの住宅の窓には外に出っ張った鉢受けがあり、鉢物の花が色鮮やかに、その季節を演出していた。住民の皮膚は一様に白く、彼等の間には他の人種との混交を見ることも少なかった。また彼らの使用する言語も多くはドイツ語で、高山が大学で習ったドイツ語が飛び出し、懐かしかったことを覚えている。まさに高山にとって、毎日は目から鱗の落ちる思い、また、それは痛恨の日々にもなった。
ブラジル日系コロニアのアイデンティティの希薄さ、そして自虐的移民棄民論を思う時、日本民族の持つ美質・長所をいくら高く計算しても、この様な我々の持つ負の資質、短所に対する懸念を払拭することはできなかった。
また、日本語を知ろうとせず、日本文化文明に関心もなく,唯一途にブラジル社会に埋没し、混血を急ぐ日系の若い人達の風潮や動向には、ブラジル人の一部からアバカリヤードと揶揄されるわが民族の弱さをひしひしと痛感させられた。
こうしたC産業組合カシンギー孵化場時代の後、高山は、I種鶏孵化場に移り、バウルー支部で働いた。今回は主に採卵鶏飼養の技術指導に当たり、サンパウロ州、バラナ州、また、マット・グロッソ州の奥地、さらに、パラグァイ北部地方に月間1万から1万2千キロ車による走行を記録する巡回指導を実施した。また、当時はブラジル人には採卵鶏を大量飼育する者は少なく、従って、自然に、日系の専業採卵養鶏場を訪問する機会が増えた。高山は、I種鶏孵化場で30年近く働き、養鶏技術の普及と指導に専念したが、最後の8年は採卵鶏や採卵鶉の大型商業飼育を兼務し、30余年の養鶏技術者としての研鑽、そして有終美を飾ることもできた。
ところで高山がI種鶏孵化場に入社した1971年頃は、所謂、集団育種法で改良された優秀なアメリカ鶏が破竹の勢いで世界の養鶏界を席巻していた頃で、T産業組合、C産業組合、そしてさらにI種鶏孵化場、ともにそれぞれ違った銘柄のアメリカ鶏が導入されていた。またそれぞれ、一長一短はあったが、雛はよく売れたもので、コーヒー農園の一区で始まった鶏糞養鶏が大きく成長して、専業採卵養鶏場へと移行していた時期でもあり、パウリスタ線のバストス市は、日系養鶏の雄、卵の町として全盛期に突入した時で、又、同時に全世界に伝播した鶏のマレック氏病が、ブラジルでも高い斃死率を伴う雛の疾病としても猛威を振るっていた時分で、高山はそれの対応に追われ、毎日多忙を極めた。
適当な治療薬もなく、ワクチンもまだ開発されていない状態で育雛室の消毒を徹底するとか、青空育雛法を推奨することで、大量の雛の死亡を回避する対策がとられたが、やはり一群の雛の10パーセント以上の死亡率を見ることも稀ではなかったのである。
しかし、天佑というか皮肉というか、この高死亡率は、鶏卵の総生産量を減少させる結果となり、比較的卵価はよく、従って養鶏場は少しでも死亡率を減らせれば、利益を上げることができた。
また、日系養鶏場では、鶏病を治療、その他、産卵率の改良策が講じられた後は、茶話会になり、日本の現状に対する質問である。日本はどうして負けたか、戦後の復興状態はどうか等々の会話に花が咲いた。戦後20年も経過していた当時、流石、日本は勝ったといい張る養鶏家はいなかったが、養鶏家にも勝ち組の連中は多く、高山が説明した祖国の敗戦に率直に頷かない人もいた様だ。
誰の助けもなく孤立、奮戦し家族を守り生をまっとうしてきた戦前移民には、祖国が戦いに敗れても、己の形而上の勝利は、生存への最後の砦であったかもしれない。
戦後移民の高山には、勝ち組による負け組殺傷事件という同族間の相剋にいたたまれぬ痛憤を禁じ得ないのであったが、この様な勝ち組の人々の止むに止まれぬ主張も、すべてを否定することはできなかった。彼等には、己を利するものは微塵もなかった。従って勝ち組に対する同情、そして感謝に近い気持ちも感じたもので、もし、あの時期、日系コロニアが負け組の者だけだったとしたら、現今の日系社会は、はたして正常なバランスある社会に発展したであろうか、空恐ろしい気持ちになる。
一方、ブラジルの社会は1964年に、ゴラール政権が、軍部のクーデーター、つまり三月革命によって倒れた後、1985年までの21年間、軍部による軍政時代が続いた。
この時に前述の谷垣さんの末子は殺されたのである。この軍政時代1968年から1974年まで、第二次高度成長期が実現し、年間10.8%という成長率となり、週末にはブラジルの津々浦々の町でシュラスコの匂いが漂い、「ブラジルの奇跡」を謳歌することになった。しかし、それも1970年代末には終焉し、返済できない累積債務は6百億ドルを越し、IMFに泣きつくと、共に、その後はブラジル政府によって租税公課が増加し、紙幣の増発が続くことになった。
なお、この時期に高山は一人の同郷の日本女性と結婚し、すでに三人の息子に恵まれて、一家庭を形成していた。
また、ブラジル政府の紙幣増発の結果は1980年にはインフレーションが年間100%を越し、その後も進み1980年末には、ついに年率1,000%を越す、ハイパー・インフレ―ションとなり、1980年代は、所謂、「失われた80年代」といわれ、重税とこのインフレーションによって、ブラジル社会は破綻してしまった。
また、この大不況の結果は1980年代半ばからブラジル人の多くが出稼ぎとなって海外へ逃亡して行き、日系社会も同様になった。2008年のブラジル日本移民百周年記念祭のあった年には150万人のブラジル日系総人口のうち、実に30万人の青壮年層が日本へ回帰する結果を呈し、日系社会は空洞化し、すっかり元気をなくしてしまった。
奥地農業は大半が姿を消し、近郊農業の野菜、果物、そして花卉などの栽培が細々と続く状態になり、サンパウロ市の日系商工業も昔日の面影が全くなくなり、リベルダーデ区のガルボンブエノ街は、多くの中国系や韓国系商店の進出によって、かっての日本人街は一変し、東洋人街に変貌してしまった。日系社会の華であり、顔であったC産業組合やN銀行も共にもろくも崩壊して久しい。何故、この様に日系社会は、なす術もなく一度にすべてを喪失してしまったのか。
高山は、長い年月、サンパウロ州やパラナ州その他で、奥地の日系植民地を毎日巡回し、日系養鶏家や日系農家と一緒に働き、彼等の拓魂を知り、その闘志と創意を見ているだけに、いとも簡単に日本へ行ってしまったことへの疑問が、いつも頭を横切るのであった。
その後、間もなく、高山は、長かったI種鶏孵化場勤務を終え、1997年に退職した。そしてサンパウロ市近郊の町モジダス・クルーゼス市の町はずれで始めた柿栽培に全力投球し、小規模であったが、高山一家の糊口は何とか凌ぐことができた。
この様な毎日が続いた時、一つの大きな出来事に遭遇することになった。それは2008年6月21日、サンパウロ市のアニエンビ―のサンボドロモ会場で開催されたブラジル日本移民百周年記念式典に於いてであった。かって、高山が若かりし日、ミランドポリスのビラ・ノーバ植民地で一緒に青年会をやったあの谷垣さんの息子さんに出会ったのである。当日の午後、高山は降雨によって座っていたセメントの階段状の腰掛けが、湿りズボンが濡れてきたので、立って観覧する、旨、妻に伝言し、後方に移動し、最上段に登りつめ、前方を振り返った時であった。一人の白髪の日系人が近づいてきたのである。
「もしや、あなたは高山さんではないですか?40年前にミランドポリスに来られた新来青年であった。」
「はい、私は高山ですが、あなたはどなたですか?」
高山は何か感じるものがあったが、はっきりとした認識には至らなかった。
「やはりそうでしたか。私は谷垣です。ミランドポリスのビラ・ノーバで、お世話になった者です」
「そうだ、君は谷垣君だ。谷垣さんの息子の。これは懐かしい。これはその、よく僕がわかったね」
「いや、高山さんは、日本人では特別に背が高く、また、昔とあまり変わっていないですよ」
この会話の後、高山は、谷垣君の座席の横に座り、記念式典どころではなく、夢中で、旧交を温めることができた。彼の話によると、高山がミランドポリスを去った後、谷垣君は苦学の末、地方の医科大学を卒業し、今はアラサツーバ市で、医者として働いている由で、しかもよく聞くと、負け組の山本さんの娘、あの活発な青年会の女子組を引っ張ってくれた美穂さんと結婚し、三人の子供に恵まれ、既に、5人の孫達もいるとのことであった。また一緒に運動会で大活躍し、ビラ・ノーバ・チーム優勝の立役者であった安岡青年は年若くして他界し、既に、この世の人でないことも知った。この世の無常に改めて驚き、安岡青年の若死について一層の哀悼の情やみがたく、その後、何日も眠れなかった。高山は、ミランドポリス市を去った後も奥ノロエステ線に巡回養鶏技術の指導に行った際は、安岡青年の養鶏場に時々立ち寄った。父親がなく、母を助けて、彼が中心となって養鶏業やコーヒー栽培に精を出し、一家を支えていたのをよく見たもので、弟達も多く、学費等、大変であったろう等、思う度に、その痛ましさが、倍加するのであった。いつの日か、高山は、是非、亡き安岡青年の墓参をしたいと思っている。
谷垣君との一時間に近い歓談の末、いよいよ別れることになった。谷垣君は、バスでアラサツーバに帰るという。高山は最後の質問をした。
「その後の君のお父さんは、どうされたですか?。また、青年会のその後はどうなった?」
「パパイは、弟の死後、すっかり元気がなくなり、高山さんが見舞ってくれた後、仕事をすることもなく、話をすることもなく、毎日、椅子に座って、空を見上げておりましたが、一年ほど後に、ぽっくりと死んでいきました。また、青年会も程なく中止されました」
「また、君のパパイ達が心配していた勝ち組と負け組の人達の仲直りの件はどうなった?。問題は解決したかね?」
「年月もたち、今や昔の一世達はすべて死んでいきましたが、その後も、昔通りに勝ち組と負け組に分かれた家は、ずっと交際しないようです」と谷垣君は返事した。
「私の家の様に、お互い仲良く交際し、孫まである家もあるのですがねえ。ムリエルの家からもママイやイルモン達がきます。賑やかにやっています。高山さんも、ノロエステ線に来たら、ぜひ寄って下さい」
その後、谷垣君は挨拶をすると、夕闇迫る中、手を振り振り、雑踏の中に消えていった。
40年ぶりに、若き日の想い出に再会した思いであった。谷垣君の人生の成功に改めて、拍手を送ると同時に、第二次世界大戦後、ブラジル日系社会に発生したわが民族内の勝ち組と負け組の抗争事件に関して、今も尚、常識程度の知識しか、持っていない怠慢さに我ながら痛く恥じ入った次第であった。
何か負け組の主義主張のみが一方的に正論の如く横行するブラジル日系社会の現行の姿勢を質し、勝ち組の実相真意をもう一度調査して、両者の考えを止揚するか、また一つに統一するところに、現今の日系社会をおおっている強い虚脱感を打破して、日系社会のすっかり衰弱した活力をもう一度復興させる途が見つかるのではないか。
この様な結論に達したのは、谷垣君と別れて、約一ヶ月後のことであった。
それからは、高山は余暇を見つけては、本事件に関する双方の書籍を読んだ。双方併せて十冊以上になったが、大半は負け組の立場で書いたもので、勝ち組に軸足を置いたものはわずかに二冊に過ぎなかった。
尚、この時、ブラジル人の著名な新聞記者アゴスチンョ・ロドリケス・フイリョによって執筆上梓された勝ち組擁護の書バンデイランテス・ド・オリエンテ(東洋の拓人)があることを知った。
また、その読書の結果は、次の様であった。まず負け組認識は、日本の敗戦を認めない頑迷固陋な臣道連盟のような団体があって認識派要人の説得にも一切耳をかさず、遂には、特攻隊と称するテロ団を作って、次々と、暗殺という非常手段に出たので、ブラジルの官憲がテロ団のみならず、その母体となった臣道連盟会員も検挙した」と本事件を定義し、そして勝ち組への弾圧を徹底した。五千人以上が召喚され取り調べを受け、四百から五百人が拘置された。更に1946年には三回に分けてアンシェッタ島に島送りされた。収監者数は、177名に達したと記述し、これが彼等の主張した見解であったが、特攻隊員による殺傷事件の反響が大きく、勝ち組信念派は、その後、沈黙し行動しなくなった為に、表面上平静化したというのが、ブラジル日系社会の現状である様だ。
また、一方、負ければ自分を支えている精神的支柱が崩れて、自分がなくなるという、この自己喪失の恐怖によって、負け組は、皇国史観や尊皇思想を脅かす重大な裏切りであり、従って彼らを断固排除しなければならないと主張したのが勝ち組の考えであった。
尚、この一連の読書の中で、高山は、岸田秀と言う社会心理学者の書いた「日本近代の精神分析する・精神分裂病としての日本近代」という瞠目すべき一論文に出会った。同氏は、日本国民は精神分裂病であると結論して、次の如く説明している。
つまり一つの人格が引き裂かれて、外的自己と内的自己に分裂すると、本事件は、外的自己とは現実に適用してブラジル社会や米国に屈従しても、やむをえないとする生き方になり、内的自己は、この外的自己は偽りの自己であり、従来の日本の伝統や価値観を忠実に守ろうとする生き方であった。然し、後者の生き方は、どうしても現実無視の傾向があり、生き方としては弱い。従って、この点を補強する支柱が必要で、其れが即ち、皇国史観であり、尊皇思想であった。この神聖にして、不可侵、唯無私無償の献身を捧げる事のみに許される天皇像が内的自己の理想像となったとし、まさにペリー・ショックで、外的自己、つまり、開国派と内的自己、即ち、尊皇攘夷派が分裂した幕末の日本が、このブラジル日系コロニアに再現されたのであり、日本近代史に重なるとコメントした。そして敗戦によって、内的自己は沈静化し、外的自己が強くなるが、底流では、依然として存続するのであるとコメントした。
換言すれば、この外的自己と内的自己は、表裏一体の関係で、この両者はガラスの固さ脆さであり、同じ一つの性質の二つの側面であるといえる。この両者は、共に内在しており、外的自己の立場を取り乍ら、内的自己に魅力を感じる、つまり、内的自己は自分の本心であると説明している。
高山は、目から鱗が落ちる思いであった。本事件の解明は、本論文の適用で可能であると結論した。
尚、高山は、この読書中に、この勝ち組と負け組の抗争事件の他にこの時期、南洋の土地売りから、円売り、帰国乗船券売り、更に、日本からの使節団歓迎費集め等の詐欺事件、その他、偽宮様事件やら、まさに百花繚乱の詐欺のオンパレードがブラジル日系コロニアには併行してあったことも知った。
何かの金儲けの口は無いか、「うの目、たかの目」で、あたりを見回すと機会があると躊躇することなく、恥や外見、勿論、倫理や道徳は棚に上げて、同胞間でイノセンシアを利用して行われたのである。まさに火事場泥棒的違法行為が、いわゆるコロニアの名士から本物の詐欺師によって、白昼堂々と実行された事実も発見し、驚くとともに邦人不信も味わうことになった。然し、これが人間の本性かもしれないと感じた。そして日系社会が20世紀末、かくも、簡単に衰退し崩壊していった最大の原因の一つは、今回調査した勝ち組負け組抗争事件と同時に進行した一連の詐欺事件の未解決のままの放置によるに日系社会同胞間の不信であったと思うに至る。
高山は、確かに20世紀末期に発生したブラジル経済の大不況、更に、ブラジル社会の大混乱は、当国のあらゆる産業、商業そして、移民社会に重大な打撃を与えた事は、否定するつもりはなかった。然し、日系社会が受けた程のものを受けたところは、他にあったであろうか。これほど、まさに致命的といえる影響を受けた移民社会を他には、高山は知らなかった。日系社会同胞間の不信の継続によって、我々の総力の結集が困難となり、従って、その持つ、資本力、技術力、そして知識力、その他が半減してしまったことを指摘できないであろうか。何故ならば、高山は、かって奥地や田舎であった勝ち組の人達の中には、沢山の負け組の連中等の言う言葉に賛成することを潔しとしない人達がいたことを知っている。日系社会は、かならずしも、無傷の一枚岩とはいえない状況であった。更に叉、この双方の間隙を第三者に利用され、いわゆる漁夫の利を持って行かれる結果を招いてしまったとも考えられる。いずれにしろ、21世紀の我々日系社会の滅亡を回避するには、諸問題の他に、この諸事件の早期解決の時間がかかっていると言って過言ではないように高山には思われた。
これは相互に歩み寄り、赦し合い、怨念や遺恨を残すべきでなく、共存か、統合するのである。双方共に、無理に忘却せず、隠蔽するのではなく、公開して、日系社会の大切な歴史の一頁として温存する。之等を我々日系人の明日の教訓にするのである。之によって、叉、ブラジルの日系社会は、その絆を一段と強化し、日系社会の文化文明の真価を知る日系人後代の再起を待つのである。之ぞ、わが民族であり、わがブラジル日系社会の面目であり、真骨頂であると信ずる。
これが高山の解決策であり、対応策である。そして今少し、説明を加えるならば、前述のごとく、両者は日本人のもつ精神分裂病質者として同一のものであり、成否の関係はなく、同じく正しいことになる。このように双方が統合され、叉、止揚されるなら、換言すると、かっての戦前の様なブラジル邦人社会が新しく再生すれば、多様性も維持し、日系社会独自の精神文化も以前の如く、活性化し、豊かな我が日系文化文明の創造が再開することになり、日系農業界もかっての姿に帰り、まさに、燎原の火の様な発展が計られるならば、他の商業工業も共に教育と連動し、あらゆる方向に躍進するに違いない。
これによって、ブラジル日系社会全体の活性化が極限に上昇するならば、21世紀も我が日系社会は安泰に存続することが期待できると思われる。つまり21世紀における日系社会の存続、そして繁栄の如何を問うには、この日系社会の形而上の統一、先ず日系社会全体の信頼の回復こそ最大の課題であるように高山は判断した次第であった。
また勝ち組負け組双方においてどうしても、相手を赦せないと主張する者があれば、聖書に書いている如く、すべての復讐は神にまかせることだ。双方すべてを知っている神がすべてを行うのである。
尚、高山は具体的に6月18日の「移民の日」を日系社会融和の日に制定し、日系人、一人一人が日系同胞を赦し合う日にすることも一策と考えている。
実に、高山にとって、サンパウロ州のノロエステ線奥地はブラジルでの半生が始まった掛け替えのない第二の故郷である。当地はサンパウロ州の他の鉄道沿線に比べて、最も早く戦前移民が自営農として独立か死かの開拓に挑んだ地帯といえる。高山が巡回養鶏技術指導を始めた1960年代末も未だ小中営農が多く、養鶏場の規模も一般に小さかった。そして一番開拓地の雰囲気が強い土の香りの豊かな日系植民地の多い土地であった。
第二次大戦後20年たっても、まだ勝ち組負け組抗争事件の余燼がくすぶっていた。イッペイの真黄の花が枯野に咲きこぼれ、また季節にはジャッカの大きな実が沢山ぶら下がっていた古い日本人移民の魂の咆哮が聞こえる様な土地であった。
若き日の懐かしい一期一会の人々、谷垣さん、谷垣さんの息子達、広野さん、上田さん、山本さん、安岡さんの息子、その他、勝ち組負け組の戦前の移民の人達、この敬意を感じ、心の琴線に触れた顔々、今も尚、高山の胸底に彼等は生きている。一刻も早く統合され信頼関係が戻った日系植民地になり、末長く、豊かに繁栄してもらいたいと祈っている高山にとって、ミランドポリス市ビラ・ノーバ植民地の人々は、永遠である (完)
この記事は 「のうそん249~251号」(日伯農村文化振興会発刊)より、同誌と筆者の許可を得て転載しました。(Trabras)