ドイツ統一で思い出すこと

 

筆者: 眞砂 睦

 

東・西ドイツが統一されて今年で20年になる。その統一のちょうど10年前の1980年、若いドイツ人と交わした言葉を想いだす。彼は音楽家で、当時ブラジルのオーケストラでコントラバスを弾いていた。奥さんは白ワインで有名なモーゼルのワイン・マイスターの娘だった。私は日伯合弁鉄鉱山開発事業の日本側調整役として、鉱山現場に近いベロオリゾンテ市に家族と共に住んでいた。私たちはその町で、親しくしていたブラジル人一家が開いたパーテイの席で知り合った。どこでうまが合ったのか、すぐに夫妻が拙宅に押しかけてきて、しばしば明け方近くまで飲みあかすようになった。

 

 何事にも一家言ある男で、人口一人当たりのノーベル賞受賞者の数はドイツが一番というのが自慢だった。ある時またドイツ自慢が始まったので、「東西ドイツが統合されたら、超大国になるな」とまぜかえしたら、いつになく真剣な顔つきになって、「ばかをいえ。戦争なしにドイツがひとつになれることなどあり得ない」と語気を強めた。長い歴史を通して、血を流して領土の取り合いを繰り返してきたヨーロッパで育った男の言葉は重かった。ドイツは第2次大戦の後、ソ連がおろした鉄のカーテンで分断され、その国境線は東西冷戦の最前線であった。そのうえ西側陣営の英仏も、ドイツがひとつになって再び力をつけてくることを警戒してドイツの統一には反対していた。そんな当時の状況下、あのゲルマン魂おうせいな音楽家ですら、「もう一度戦争を起こさないかぎり祖国の統一は無理だろう」と考えていたのである。
 
 ところがそれからわずか10年後に、戦争で血を流すこともなく、あっけなくドイツはひとつになった。1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長になって東西の緊張緩和が急進展する。彼がうちだした民主化政策「ペレストロイカ」が、ソ連の社会改革にとどまらず、かねてから動きをみせていた東欧諸国の自由化運動を活気づけた。東ドイツでは長い圧政に耐えてきた国民が爆発して、一気にベルリンの壁を打ち壊した。自由にうえた民衆の力が国境を取り払ったのだ。その1年後に東・西ドイツはひとつになった。さらにその1年後には東側本家のソ連邦自身も解体してしまって、東西冷戦が終わりを告げたのである。

 戦争で犠牲をはらうこともなく、自由を求める民衆が素手で国境を取り払うという予想外の展開になったことをどう思うか、あの音楽家の意見を聞いてみたかったのだが、お互いあれから転勤をくりかえしているうちに、とうとう連絡がとれなくなってしまった。

( 紀伊民報 2010.1.24「故郷への便り」より )

 

 

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