筆者:富田 博義
今から半世紀も前になる1964年に加藤仁紀君、1965年に田中秀幸君がブラジルに移住してきました。彼らは南米銀行(富士銀行<現みずほ銀行>系列の日系コロニアの銀行)の現地社員として日本で採用されての商業移住で毎年総勢5~6人くらいが移住してきました。私 はその前に日系コロニアの商社に働く予定で形は工業移住者として移住していました(すでに移住の門は狭まりつつありました)。お互いに人間関係も、当地の 学歴もなく全く孤独でしたが意外に大学の先輩が多く、その方々の援助と協力は私たちを孤独にはさせませんでした。また、大学の移住研究会が所属する全国の 大学の移住研組織の学生移住連盟OBも多く、その人たちとの人間関係も大きな心の支えでした。
ブラジルのテーラロッシャ(赤土)を踏む3,4年前、私たちは早大海外移住研究会で他の15、6人の部員と一緒に海外移住の夢を抱きつつその関係の知識や語学を学んだり、日本に里帰りしている人たちと会って話しを聞いたり、講演会を依頼したりしていました。さらにまた今から思うと実におこがましいのですが大学の移住研では四国一周海外移住思想啓蒙遊説隊なるものまで行っていました。各地の公会堂で南米紹介の映画をやり、「皆さん南米へ行きましょう」とまだブラジルへ行ったこともないのに講演をしたりしました。南米銀行へ入った彼らですが、将来のファゼンデイロを夢見てブラジルへ来たため、じきにサラリーマン社会にあきたらず退社して苦難の独立の道を選びました。
思い出すのは、加藤君が南京豆にチョコレート色の粉をまぶしたもの(amendoin chocolate)をモレッキ(腕白小僧)に小さなセロハンの袋に詰めさせて売っていたことです。薄汚いポロン(半地下)の借家でした。ブラジルの加藤 君と言えばあのイメージが浮かびます。その後、私が、フェイランチ(市<いち>商人)として独立するとき、彼を誘い、サンパウロのイピランガ街に一軒家を 借りて寝食を共にしました。毎朝暗いうちに起きだし、なかなか掛からない旧式フォードのトラック前部のエンジンを手回しでかけ、彼を助手席に乗せて私が運 転、菓子を満載して坂道を疾走、市(いち)でテントを張り大声を出して売り捌いたことも忘れ難いです。田中君は、JETROの下請けで日本の各種の企業が ブラジル進出を模索して依頼する現地の市場調査をしていました。やがて加藤君は、ブラジル滞在3年、田中君は20年で日本へ帰国しました。
加 藤君は、日本で定年を迎えてかつて青春の日々を過ごしたブラジルの懐かしい日々を思い出し、日本からの移民を暖かく迎えてくれたブラジル国民の国民性を思 うとき、日本が彼にとって生国であるが、ブラジルは彼の青春を暖かく包んで育ててくれた養国であるという思いがいつも胸にあったようです。 彼のブラジルへの移住を志した元の一つは敗戦による母親の満州からの寡婦として4人の子を抱えての苦難の帰国とその後の生活難の時代にブラジルからのララ物資の援助を受けたという母親の感謝の話しを聞かされていたことです。
折 しも日本は経済成長の真っ盛りで製造現場では猫の手も借りたいほどの人手不足となっていたので政府は入国管理法を改正して日系人とその配偶者に限り単純労 働で働く人にもそれまでは許可しなかった3年の滞在許可を与えました。それにより30万人を超える日系ブラジル人が出稼ぎとして来日したのです。 そ の結果、労働問題をはじめ日常生活の問題など数多くの問題でかつて加藤君がお世話になった養国ブラジルから来た出稼ぎの人々が、言葉が分からないために不 当なあるいは不利な扱いを受けたりしていることを知りました。あるいはまた起業したいが言葉や法規程や商習慣が分からないで困っている人も多いと聞きまし た。
それで彼らは在日ブラジル人をそれらの悩みや苦難から救い、相談相手になるためにNGOブラジル人労働者支援センターを立ち上げたのです。 彼の心の中にはかつてのブラジルでの移住生活を暖かく迎えてくれたブラジル人、満州からの帰国後の母親と彼の幼年時にララ物資による支援をしてくれたブラジル人への感謝の気持ちを今度は自分がお返しをする番であるとの思いがあるのだと思います。
こ の活動は日系ブラジル人の支援だけに留まりません。日本へ来たブラジル人が日本を加藤君と同様に養国と思うようになったり、ブラジル帰国後は日本を好きに なり、一人でも多くの日本ファンを日本以外の国に持つことは日本の大きな利益であり、大きく言えば日本外交の一端を担うともいえる価値ある仕事ともいえま す。彼らの支援センターの活動が数多くの滞日日系人の生活の向上と快適な日本生活の助けとなることを祈るものです。
NGOブラジル人労働者支援センターの更なる発展を祈るものです。