香山栄一さんを偲んで=吉田 恭子

ニッケイ新聞20160719記事 転載

 7月3日午前11時にイビウーナの香山栄一さんがご逝去されたと、翌早朝、前園さんがメールで知らせてくださった。4月に香山さんとメールのやり取りをした際は、まだまだお元気だったのに・・・と、その後、ご連絡していなかったことが悔やまれた。
 私が香山さんと知り合ったのは、ブラジルに来てまだ4ヶ月ほどで、パーディーニョに引っ越してきたばかりの2009年8月初めだった。
 その頃、出身地広島の中国新聞のインターネットサイト『海外リポート』というコーナーに、ブラジルに関する記事を書いて寄稿していたため、その題材を探していて香山さんの名前をニッケイ新聞で見かけ、お電話したのが始まりだった。
 以後、ブラジルの日系移民の歴史を知るための入門書のようなものだから読んでみなさいと言って、鈴木南樹の本から始まり、香山さんの自分史『わが道 ブラジル移民準二世の半生』や香山さんが編さんされた『思い出で綴るチエテ郷土史 拓魂のうた』など次々に送ってきてくださり、たくさんの日系移民関連の本を読ませていただいた。
 香山さんにとって私はおそらく一番付き合いの短い知人のひとりだったのではないかと思う。でも私にとってコロニアの生き字引のような香山さんは、日系移民史の師匠として、ブラジル移民の大先輩として、私のブラジルでの生活に大きく深く関わることになったとても尊敬する身近な方だった。

 ここで香山さんの略歴を香山さんの自分史から簡単にご紹介しておく。
 香山さんは、1925年(大正15年)10月26日、福岡県遠賀郡小竹で、香山家の次男として生まれ、1932年(昭和7年)4月、大阪の古市尋常高等小学校に入学したものの、同年12月26日には一家4人で神戸からブエノスアイレス丸でブラジルへ向け出港。翌1933年(昭和8年)2月3日、サントス港到着後、サンパウロ州ノロエステ線チエテ移住地に入植している。
 戦後、結婚した香山さんは、アラサツーバでの綿作、チエテ河畔での半水田米作、マトグロッソ州やサンパウロ州ビリグイなどでの米作に従事。その後イタペーバの乾燥地帯へ移転して小麦栽培を開始したものの、業績が思わしくないため、永年にわたる農業を捨てサンパウロへ移転。サラリーマン生活を3年ほど経験している。
 そして、1968年(昭和43年)に農業経験を生かして独立し、サンロッケに農機具店を開き、3年後に合資会社アグロ・カヤマを創立。1971年(昭和46年)にはイビウーナに移転している。この間に二男二女に恵まれている。
 イビウーナに移転した後、原因不明の大病を患い、以後、車椅子生活を強いられることになる。それでも精神的に引きこもることなく、読書が趣味のひとつであったため、1977年(昭和52年)に文庫を作る計画を立て、自由に動き回れない状態であるにもかかわらず、こつこつと移民資料を集め続け、多くの友人知人と交流を続け、積極的に情報発信を続けてきた。


 今から5年前、付き合い始めてまだ日の浅い私に、香山さんから『香山文庫』の蔵書を引き受けてくれないかというお話があった。何十年にも渡って移民史を研究してこられた香山さんと違い、私はまだ右も左もわからない新米移民。しかもサンパウロ市から遠く離れた田舎暮らしでは、蔵書を引き受けても埋もれさせてしまうだけだと思い悩んだ。
 でも、「ちょっと多めに本をもらっただけと気楽に受け止め、これをどうこうしようなどと気負わなくてもいいから」と言われ、いろいろお世話になってきた香山さんからの申し出なので、お引き受けすることにした。
 まずはインターネット上に香山文庫のウェブサイトを立ち上げたいと思い、たたき台を作る状態までこぎつけたものの、そこからなかなか完成に至らず足踏み状態が続いている。そのため、せめて香山さんにたたき台の状態でも見ていただいておけば良かったと、少し後悔している。
 それでもせっかく貴重な香山文庫を引き継がせていただいたのだから、私にできることをゆっくりでも進めて行こうと考えている。
 2010年に『北パラナ発展史』を岡井二郎氏と共同編さんされた数年後、体調の悪化からか少し気力を失われ、メールに返信するのも苦痛になったと言われ、メールのやり取りを控えた時期もあった。それでもここ2年ほどはまたお元気にメールに返信をくださっていたので、すっかり油断してしまっていた。
 4月にいただいた香山さんからの返信メールの最後に、「とにかく長い人生には喜怒哀楽、いろいろなことがあるものですが、つねに強く生きてゆく心構えをもつことが大切です」とあった。7歳でブラジルに移住してこられ、90歳と8ヶ月で人生の幕を下ろすまで、83年余りに亙りブラジルで頑張ってこられた香山さんの言葉だけに、心にずしりと重く響く。
 香山さんの長い人生の中で、私が香山さんとお付き合いさせていただいたのは晩年のほんの7年に過ぎないけれど、誰も知り合いのいないブラジルに来て、偶然にも香山さんのような方と出会い、移民史の手ほどきをしていただいたことは、私にとってはこのうえもなく幸運なことだった。

コメントは受け付けていません。